第304話 脱出作戦【後】
前回のあらすじ)ゼノスたちはカーミラの案により転移魔法陣を逆回転させて脱出することにした。要件は莫大な魔力、魔法陣の改変、そして、近衛師団本部の魔法陣の守護だが――
王都、近衛師団本部。
王である太陽を守るように剣と盾が描かれた紋章旗が風に翻っているこの建物には、特別な許可証がなければ立ち入れないフロアがある。
余計な装飾が一切除去され、機能性のみを追求された無機質な空間は、近衛師団の中でも秘匿度の高い特殊な任務に従事する特務部に与えられた場所である。
「……」
今その奥の一室で、隊長のシーガルは執務机に深く腰を下ろし、顎髭を撫でていた。
男の前には金髪碧眼の若き女性近衛師団員が直立している。
「お呼びでしょうか、シーガル殿」
「わざわざすまないな、クリシュナ副師団長」
シーガルは上半身を背もたれからわずかに離した。
「前回の任務中は、謹慎扱いにして悪かった」
「謝罪のために私を呼び寄せたのですか」
「こう見えても気にする男でな」
シーガルはおもむろに机の引き出しに手を入れる。
取り出したのは一枚の書類だ。
「謝罪ついでに聞きたいことがある。君が先日【井戸落ち】に連行した者についてだ」
「なんでしょうか」
クリシュナの様子に変化は見られない。元々【鋼鉄の淑女】と二つ名が付くくらい表情に乏しい人物だったので、顔色から情報を読み取るのは困難である。
シーガルは書類に目を移した。
「貧民。エルフの女。年齢不詳。住所不詳。魔導映写機の写真もかなり不鮮明だ。君にしては随分と雑な仕事だと思ってね。何か急いで書類を作る理由があったのかな」
「失礼ながらシーガル殿。特殊任務が終わり、貴公は我が隊の隊長代理の任を解かれています。もはや私は直属の部下ではなく、指導を仰ぐ立場にありません」
「冷たいな。昔のよしみだ。少しは会話に付き合ってくれ」
クリシュナは溜め息をついて応じた。
「書類は自己申告をベースに作成しています。情報不足は否めませんが、貧民は戸籍がありませんので、真偽の確認はできません。依頼主の七大貴族筆頭ベイクラッド家の確認は取れておりますので、ご不満なら問い合わせを」
「勿論これがベイクラッド家からの依頼であることは知っている。ただこんなに短期間に連続で【井戸落ち】があったのも珍しいからな」
「雑談が目的であれば、私も仕事がありますので」
「ああ、時間を取らせて悪かった」
シーガルは軽く左手を挙げる。
クリシュナは敬礼をして、踵を返した。
「ああ、そうだ。もう一つ」
背中に声をかけると、ドアノブに手をかけたまま、クリシュナは怪訝な表情で振り返る。
「まだなにか?」
「いや、井戸に送る時に使う転移魔法陣だが、あれはすごいな。見たかね?」
「今回の囚人を送る時に、勿論目にしましたが」
「実際に作動するのを目にすると感動を覚えるよ。大昔の記録にあったものを、何百人もの魔導師が何十年もかけてようやく再現した代物らしい」
「一体何が言いたいのですか?」
「だから扱うのも大変で、最低でも週に一度は専属の担当者が管理調整を施しているはずだが、なぜか今週はまだ管理記録がない」
「……」
「担当者に確認したところ、正常に動作したから今週の確認は不要だと指示があったらしい。クリシュナ副師団長からな」
改めてクリシュナが室内に身体を向けると、シーガルは机の下に入れていた右手をゆっくりと持ち上げた。
その手には魔法銃が握られている。
「俺は気にする男だと言っただろう。まさか特務部のトップが転移魔法陣の管理記録までいちいち確認するとは思わなかったか?」
複数の足音が廊下のほうから近づいてきて、執務室へとなだれ込んできた。事前に手配してあったであろうシーガルの部下達だ。男達は逃げ道を塞ぐように、クリシュナを取り囲む。
魔法銃を手にしたまま、シーガルはおもむろに立ち上がった。
「以前に君が貧民の肩を持つような発言をしてから気になっていた。フェンネル卿の令嬢に接触して【井戸落ち】したゼノスという男に面会の申請を出させたり、素性の知れないエルフを井戸に送ったり、転移魔法陣の整備を遅らせたり……一体何を企んでいる。まさかとは思うが、【井戸落ち】した男を助けようとでも考えている訳ではあるまいな」
「……」
銃口を向けられたクリシュナは、しかし、微動だにせず言った。
「シーガル殿。王国に危機が近づいています。我々だけでは対処困難な危機が」
「危機、何の話だ? まあいい。転移魔法陣の整備は今から再開――」
シーガルはそこで両目を見開いた。クリシュナがいつの間にか腰の魔法銃を抜いていたからだ。
こっちが引き金に力を込める前に、【鋼鉄の淑女】の銃口が火を吹いた。燃え盛る火炎弾がシーガルの顔の横をかすめて、窓ガラスを突き破る。硝子が粉々に割れる甲高い音が鳴り響き、銃弾は赤い尾を引きながら空へと消えていった。
「捕えろっ!」
周囲の団員が一斉にクリシュナに飛び掛かり、壁に押し付ける。
シーガルは銃口をクリシュナの額に当てて言った。
「一体お前は何を考えている? かつての指導者として残念だよ。以前の君は権力者を敬い、不埒な下層民を駆逐することに大きな情熱を傾けていたはずだ。貧民などただの害虫に過ぎん。そんな者にそそのかされるとは」
「彼は、王国に必要な人物です」
「貧民を英雄視とはなんと危険な思想だ。階級制こそが王国の繁栄を支えてきた。王都の秩序を守るのが近衛師団の使命ということを忘れたか」
しかし、クリシュナは青い瞳で真っ直ぐシーガルを見返す。
「我々が真に守るべきは、階級ではありません。そこに暮らす人々です」
「世迷言は牢屋で語れっ。手が空いている者は俺と来い。転移魔法陣を確認に行く」
シーガルは部下にクリシュナを拘束するように命じると、廊下を駆け出した。
クリシュナはなぜ転移魔法陣の整備を遅らせようとしたのか。
上級魔導師でも扱いに難儀する転移魔法陣を、近衛師団員のクリシュナがなんとかできるとは思えないが、魔法陣に何か細工をされている可能性がある。【井戸落ち】からかつて生きて帰った者はおらず、何かを企んだところで杞憂だとは思うが、少しでも気になったものは潰しておかねば落ち着かない。
それがシーガルが特務部のトップを長く勤められてきた理由でもあった。
だが――
「どうした?」
シーガルはふと足を止める。転移魔法陣のある地下の特別室に部下達を引き連れて向かっていると、建物の二階に辿り着いたところで、下がやけに騒がしいことに気づいた。
「何があった⁉」
大声で確認すると、こちらに気づいた団員が駆け寄ってきた。
「襲撃ですっ! 貧民街の亜人達が一斉に襲ってきましたっ!」
「なんだと?」
そのまま転がるように一階に降り立つと、怒号や叩打音が辺り一面に響き渡っていた。
なんと通路が亜人たちによって占拠されており、近衛師団との押し合いが続いている。
「なんだこいつらは。どこからわいてきたっ」
「わかりませんっ、おそらく分散してあちこちに潜んでいたものと思われます」
近衛師団本部は貴族特区内の行政区に位置しており、検問もあるため大軍で押し寄せるのは困難だ。別ルートから少数ずつ忍び込んで、何かのきっかけで一斉に集結したと考えるべきだろう。
見ると、亜人たちは転移魔法陣のある地下室への通路を封鎖するように立ち塞がっている。
同時に、転移魔法陣の整備を遅らせようとしていたクリシュナの姿が頭をよぎった。
彼女はさっき突然魔法銃を発砲し、火炎弾が窓を突き破って空へと消えていった。
「そうか、あれは亜人共に向けた合図だったのか。クリシュナァァっ!」
+++
「さあ、あんたら気合で負けるんじゃないよ!」
「ワーウルフの力を見せるがいいとリンガは思う」
「ふはは、オーク好みの作戦だっ」
近衛師団本部で暴れる三百を超える亜人たちを指揮しているのは、三大亜人の頭領たちだった。
「しかし、カーミラも無茶なことを言うねぇ」
一連の作戦の立案はカーミラだ。
なんでも近いうちに魔竜王とかいうやばい魔物が復活する可能性が高いようで、ゼノスの救出を急ぐ必要があるらしい。カーミラが憑依した腕輪をつけたリリが【井戸落ち】となり、あっちの転移魔法陣を逆回転させる。その間、出口側になれるよう細工をした近衛師団本部の転移魔法陣を守るのが残された者たちの仕事だ。
まずは近衛師団副師団長であるクリシュナが、魔法陣の定期点検を遅らせるように立ち回る予定だったが、失敗しそうな場合は亜人たちが実力行使で転移魔法陣に続く通路を塞ぐことになっていた。
その合図が、さっき空に放たれた火炎弾だ。
「貴様ら正気か。ここは王都の秩序を守る近衛師団本部だぞ。一人たりとも無事に帰れると思うな」
以前、聖女を取り返しに貧民街に攻め込んできたシーガルという男が、殺気を漲らせて魔法銃を構える。
「ふん、先にあたしらの街に攻撃を仕掛けたのはあんただったねぇ」
「リンガはやられたら必ずやり返すタイプ」
「泣き寝入りは我らにふさわしくないからな」
男は興奮した様子で、三人を睨みつけた。
「転移魔法陣に辿り着かせない気だな。何か細工をしているのか」
「さあ、どうだかねぇ」
「貴様らの目的も【井戸落ち】にした男か? 一体あいつは何なんだ。何をするつもりだっ」
さすがに一方通行の魔法陣を逆回転させるという荒唐無稽な手段にまでは思い至ってないようだが、放っておけばカーミラが【井戸落ち】前に施した魔法陣の細工は発見され修正されるだろう。
亜人の三頭領はわずかに腰を落として言った。
「先生はあたしらの居場所をずっと守ってくれた」
「今度はリンガ達の番」
「命に代えてもこの先には行かせんぞ」
シーガルが魔法銃を掲げて、号令した。
「全員排除しろっ!」
ゾフィアがぺろりと唇をなめ、不敵な笑みで宣言する。
「やれるものならやってみな。あたしらは強いよ」