第295話 井戸落ち【前】
前回のあらすじ)聖女を隠匿した罪で、ゼノスは近衛師団に捕まった
王都の東に、【聖園】と呼ばれる祠がある。
王宮の東部エリアにそびえる聖女の塔からちょうど見下ろせる位置にあるそれは、一見すると木々が鬱蒼と生い茂った何の変哲もない小山に建っている。
しかし、その周囲は厳重な警備がなされ、王族以外は立ち入り禁止となっていた。
「なんでも建国の祖が山頂で天の啓示を受けたとの謂れがあるらしい……人間はそういう言い伝えや伝承が好きだよね」
【聖園】を遠くに望む丘の上で、鼠色のフードを目深に被った人物がつぶやいた。
「単なる過去の事象を伝説という逸話に昇華して後の世の語り草にするのは、人間の興味深い営みだ。それだけ一生が短いからなんだろう」
フードの人物――【案内人】はおもむろに空を見上げる。
かつて人間と魔族が死闘を演じた人魔戦争でも、幾つもの逸話が今に伝えられている。
一方で当時の人間たちの中で最も重要な役割を果たした勇者たちの記録は、今の世にほとんど残っていない。だから、伝説というのは良くも悪くも情報が取捨選択され、脚色が多分に混ざっているものだ。
今視界の奥にある【聖園】という小山に残る建国の伝承もそういった類の一つだろう。
「ずっとそう思っていたんだけどね――」
【案内人】は浅く溜め息をついて言った。
「このままでは、王国は滅ぶ……」
ふいに北からの突風が下生えを揺らし、頭のフードをめくりあげる。
かつてアフレッドと呼ばれていた中性的な青年の顔で、【案内人】は額に手を当てた。
「この危機に立ち向かえそうな人物となると……生憎一人しか思いつかないな」
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「さっさと来い」
「まあそう急がせないでくれ」
シーガルの苛立つ声に、ゼノスはのんびりと返す。
近衛師団の詰め所で囚われたと思ったら、窓のない馬車でそのまま貴族特区の行政区にある近衛師団本部に連行された。裏口から入り、地下室と思しき場所へと連れて行かれる。
「ええと、ここは?」
鍵のかかった最奥の部屋に入れられると、そこはホールのような場所で、複雑怪奇な巨大魔法陣が中央に鎮座していた。
「あんまり牢屋っぽくないな」
「そこに立て」
シーガルは顎で魔法陣を指し示した。
強引に背中を押されて、ゼノスは魔法陣の中央に進み出る。
「この魔法陣はなんなんだ?」
てっきり一旦留置所に入れられると思っていた。魔法陣には詳しくないのでよくわからないが、受刑者に身体的ダメージを与えるタイプのものであることも想定し、防護魔法の準備をしておく。魔力を抑える腕輪をつけられているが、おそらく大丈夫だろう。
そんな風に心構えをしていたが、シーガルは予想外の言葉を返した。
「これは転移魔法陣だ」
「え……?」
具体的な仕組みはわからないが、そういうものがあるとキャンプの時にカーミラから聞いた気がする。上に乗ったものを別の場所に転送させる魔法陣。
咄嗟に魔法陣を離れようとしたが、もう陣が発動しているようで、蟻地獄に吸い込まれるような巨大な引力を足元に感じた。魔法陣の外周に沿って結界による隔壁が作られており、脱出は間に合いそうにない。
ゼノスは咄嗟に魔法陣の外側で腕を組むシーガルに目を向ける。
「俺はどこに行くんだ?」
「聖女様の誘拐隠匿罪。貴様は極刑だと言っただろう。【井戸落ち】だ」
「【井戸落ち】?」
直後、ぐぅんと空間が捻じ曲がるような奇妙な感覚が全身を襲った。
転送の瞬間、シーガルの勝ち誇った声だけが耳に残る。
「二度と会うことはないが、お前はこう思うだろう。死罪のほうが遥かにましだったとな」
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そこは虹色の空間だった。高所から落ちていく感覚があり、時間の欠片のようなものが矢継ぎ早に頭を通り過ぎていく。
孤児院時代に出会った師匠に親友ヴェリトラ、世話になったリズ。
その後一緒に冒険することになったアストンを始めとする【黄金の不死鳥】のメンバーたち。
治療院で共に暮らすリリにカーミラに貧民街の亜人たち。
王立治療院のベッカーやウミン、クレソン。
地下ギルド潜入時に出会った情報屋のピスタ、大幹部の【獣王】。
貴族の子女が通うレーデルシア学園で担任を務めたシャルロッテやイリア、ライアンにエレノア。
辺境の魔獣討伐で共に冒険をしたロアに剣聖アスカ、特級治癒師のジョゼ。
西方防衛線の軍隊長メリッサに従軍治癒師のグレース。
これまでに出会った人々の顔が浮かんでは消えて行く。
「お、とっと」
転送の終わりはふいに訪れた。宙を漂うような浮遊感が突然消えて、全身が重力に捕らわれる。前につんのめりそうになって、ゼノスは咄嗟に右足で踏ん張った。
「なるほど……初めて体験したけど、すごいな。転移魔法陣」
感心しながらゼノスはつぶやく。物体に空間を渡らせるにはとてつもない魔力を必要とするはずだ。維持管理だけでも相当大変だろう。
「で、ここはどこだ……?」
辺りは薄暗い空間で、視界が悪い。足元には来た時と同じような魔法陣が描かれているようで、声の反響の様子からはそれなりの広さはありそうだ。
【井戸落ち】。
シーガルという男はそう言っていた。
あの男の判断だけで刑を決めることはできないはずなので、バックにいる第二王子の取り決めなのだろう。想像以上の速さで刑が執行され、治療院の皆にも何も言えていない状況だ。少なくとも現在地くらいは把握しないと今後の対策も取れない。
「……ん?」
水の滴る音とともに、幾つかの足音が聞こえる。
不揃いな振動がだんだんと近づいてきて、視界の先に松明らしき明かりが灯った。
姿を現したのは、十人程度の男たちだ。一様に髭面で、全身はひどく汚れ、あちこちに傷がある。中には足を引きずっている者もいた。
とは言え、会話はできそうな気がする。ゼノスは右手を挙げて、朗らかに尋ねた。
「あんたたち、ちょっといいか? 何もわからず送られて、ここのことを教えて欲しいんだが――」
だが、集団には笑顔の欠片も見られない。
「……来たぞ」
「やっぱりな。魔法陣の発動音がした気がしたんだ」
「久しぶりの獲物だな」
「おい、横取りすんな。あれは俺んだ」
「馬鹿言うな。早い者勝ちって決めただろうがっ」
「え……」
男たちはゼノスの問いかけを無視して、かなり不穏な会話をしている。
「やれぇぇっ!」
直後、一塊になって駆け出してきた。
「え~……」
必死の形相で迫ってくる男たちを眺め、ゼノスは思わず脱力する。
「なあ、俺は争うつもりはないんだ。まず話を……」
制止を試みようとしたが、早々に諦めた。
全く聞く耳を持つ様子がない。むしろ向けられる殺気は膨れ上がるばかり。
「くらえぇぇっ!」
先頭で右手を振り上げる男を、ゼノスは胡乱げに眺め、はぁと溜め息をついた。
――能力強化魔法。
青い光がぶぅんと身体を覆い、魔力抑制の手錠を引きちぎるのに0.3秒。そして――
「ぐへええぇっ!」
「ごはああぁっ!」
「ぎゃべえぇっ!」
腕力強化した腕で、ゼノスは襲い掛かる男たちを蹴散らしていく。戦闘が終わるまでにかかった時間は、手錠を引きちぎるのに要した時間と大差はなかった。
「なんか弱くない? 栄養が全然足りてないぞ」
男たちの動きにはキレがなく、まるで薄い壁を殴っているような感覚で、かなり手加減をしたにもかかわらず、彼らはもう起き上がれないようだ。正直、能力強化魔法を使う必要すらなかったかもしれない。暗闇に目が慣れてくると、男たちの手足がやけに細いことに気づく。
「悪いが今のあんたらじゃどうにもできないぞ。とりあえず話を聞かせてくれないか?」
ゼノスは薄闇の中、まだ一人だけ立っている男に声をかけた。
男は攻撃の輪には加わっていなかったようだ。
やや距離があるため、顔ははっきりしないが、ひどく驚いている様子が伝わってくる。
「安心してくれ。そっちが襲ってこなければ、何もしないよ」
ゆっくりと近寄っていくが、少し妙だ。後ずさるでもなく、逃げるでもない。
ゼノスを怖れているというより、何か別種の戸惑いを覚えているような感触。
「な、なんで……」
相手の漏らしたかすれた声にはどこか聞き覚えがあった。
「ゼノス、なんでお前がっ……」
逆立てた髪に、少し濃くなった髭。
ようやく顔を判別できる距離に近づいた時、ゼノスも同じように驚きの声を上げた。
「お前、まさか……アストンか?」
その人物は元ゴールドクラスの冒険者パーティ【黄金の不死鳥】のリーダー。
かつてゼノスを冒険に誘い、そして追放した男だった。