第292話 包囲網【後】
前回のあらすじ)近衛師団に撃たれた瀕死の貧民を、アルは救った
一刻後。街区にある近衛師団の詰め所では、口論の声が響いていた。
「シーガル殿、一体どういうことですかっ」
「どういう意味かな、クリシュナ副師団長殿」
金色の髪を揺らしたクリシュナが、顎髭を生やした壮年の男に激しく詰め寄っている。
「立ち入りに抵抗した貧民を問答無用で撃ったと聞きましたが」
「捜索対象を匿っている可能性がある。公務執行妨害という立派な罪だよ」
「そのような横暴な捜査は、後々禍根を残しかねません」
「いいかな、クリシュナ副師団長。貧民は人じゃない。王国のゴミだ。貧民街は犯罪の温床。むしろ掃除をしてやったと考えればいい」
「……違う」
クリシュナは拳を握って言った。
「確かにろくでなしの貧民もいます。しかし、同時に信頼に足る人物もいる。それは市民に犯罪者もいれば、善人もいることとなんら変わりません。相手が貧民だとひとまとめにするのではなく、一人一人を見極め――」
「これは驚いた」
シーガルは、おもむろに片眉を持ち上げた。
「【鋼鉄の淑女】と呼ばれ、もっとも厳しく貧民を取り締まっていた方の台詞とは思えませんな」
「それは――」
「貧民ごときを信頼? そのような危険思想の人物に、捜査に加わってもらう訳にはいかない。貴殿の部隊には謹慎を命じよう」
「シーガル殿っ」
声を荒げるクリシュナ。男は息が触れるほどの距離に顔を近づけて言った。
「いいかね? 君もうっすら感づいているとは思うが、この件は特務部の仕事だ。部外者が余計な口出しをするものじゃない」
「……っ」
「失礼します」
睨み合う二人の前で、部屋のドアが開いた。緊迫した空気を察したのか、入室した団員は恐縮して背筋を伸ばす。
「あ、あの、報告があるのですが、お取込み中でしょうか」
シーガルは溜め息をついて、クリシュナから距離を取った。
「構わんよ。さあ、謹慎者は下がっていてもらおうか」
「……」
もう一度視線を鋭くぶつけると、クリシュナは悔しげに拳を握って部屋を後にした。
シーガルは口角をわずかに持ち上げ、配下に顔を向ける。
「対象は見つかったか?」
「いえ、立ち入り捜査も強化していますが、まだ見つかっていません」
「明日はもっと捜索範囲を広げろ。邪魔する者は排除して構わん」
「はっ」
敬礼する若い近衛師団員に、シーガルは問う。
「それで報告とはなんだ?」
「実は……私、巡回の際に、団長代理が公務執行妨害で排除した者たちを見かけまして」
「ああ、あいつらか。まだ死んでいなかったのか」
「それが、その……治っていたんです」
「……あ?」
「まるで怪我などなかったかのように、元気に歩いており――」
「見間違いではないだろうな?」
「少し遠目でしたが、間違いありません。他の団員も同意見です」
後を追おうとしたが、雑踏に紛れて見失ってしまったという。
シーガルは瞳を細め、腰の魔法銃に触れながら言った。
「……あの傷が、完全に治っていただと?」
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空が闇色に染まり、世界が寝静まった頃、廃墟街の治療院では薄桃色の髪の少女が、頬を少し膨らませて不満げに言った。
「……悪かったとは思ってるわ」
向かいに腕を組んで座るゼノスは、溜め息をついて応じる。
「聖女の力は見せるなって言っただろ」
夕方の買い物帰り。切迫した様子の亜人たちに囲まれ、すぐに来てくれと言われた。
どうやら仲間が数人近衛師団に撃たれて虫の息だという。
急いで現場に向かったのだが、不思議なことにそこに怪我人はいなかった。
聞くと、通りすがりの美少女メイドと名乗る人物が治療を施して去っていったという。
「念のためにそいつらには別の場所に移ってもらったけど、近衛師団に知られると厄介だぞ」
「でも、その人は通りすがりの美少女メイドって言ってたんでしょ? 私かどうかわからないじゃない」
「お前しかいないだろ」
「まあ、確かに私は美少女だけど……」
既に就寝中のリリを気遣って抑えていた声量が、少し大きくなる。
「奴らはなりふり構わなくなってるぞ。自分の状況わかってるのか?」
「だから、悪かったわよ。でも――」
アルは閉じた口を再び開いた。
「ありがとう、って言われたから」
「……」
ゼノスは一瞬言葉に詰まって、アルを見つめる。
アルは自身の両手を眺めて言った。
「聖女の塔に閉じ込められて、何年も何年も国の安寧と繁栄のために加護の祈りを捧げて、色んな危機を予言してきたけど、誰にも感謝されたことがなかった。でも、キャンプで治療した時にゼノスは言ってくれたでしょ、ありがとうって」
「そりゃ、まあ……」
「だから、今回も自分のできることをしようと思ったの。あなたみたいに」
「気持ちは、わかるけどな……」
ゼノスはぼりぼりと頭を掻いた。
冒険者時代、自分も仲間から感謝の言葉を貰ったことがなかったことを思い出した。追放後に偶然助けたリリからお礼を言われて、この治療院を始めたのだ。
それに、とアルは続ける。
「私はもう先が長くないから、好きにやろうって」
「え……?」
「予言ができるって言ったでしょ。私の時間はもう終わりに近づいている」
「本当か?」
唐突な告白に言葉を失うと、アルはすぐに笑顔を浮かべた。
「なんて冗談。びっくりした?」
「お前な……軽々しくそんな冗談を口にするな」
「あはは、ごめん。でも、これから言う予言は本当だから」
アルはふいに真顔になって口を開いた。
「ゼノス。大きな厄災が来るの。王都からできるだけ離れて」
世界を覆う夜が、一段と濃くなったような気がした。
「厄災? どういうことだ?」
眉をひそめると、アルはおもむろに机の上で指を組んだ。
「私の予言って危機の程度によって感じ方が違って、【軽症】【中等症】【重症】みたいに分けて伝えることにしているの。でも、数か月前から感じているこれはもっともっと強いものよ。つまり【最重症】」
「……」
過去には【重症】レベルの予言によって、伝染病で町が廃墟になったり、自然災害で数多の餓死者が出たこともあったという。
「【最重症】って一体何が起こるんだ?」
「……わからない。私が感じられるのは危機の大きさだけで、具体的な内容や時期は不明なの。でも、巨大な凶星は確実に近づいている」
「……」
「大衆の混乱を招くから、このことは国家の上層部しか知らない。でも、お世話になったあなたには伝えておくわ。事が起きる前に、あなた達だけでも王都を離れて」
「なるほどな……」
時折アルが空を見上げながら不安な顔をしていた理由がわかった。
一般人には見えない禍々しい凶星が、その瞳に映っていたのだろう。
ゼノスは大きく息を吐いて、腕を組んだ。
「忠告には感謝するよ。ただ、ここを離れる訳にはいかないな」
「なんで――」
「居場所だからだよ」
そう答えると、アルは大きな瞳を見開いた。
「俺は貧民街の孤児院で育ったんだけど、火事になって焼け出されたり、師匠や親友と別れたり、冒険者になったら今度はパーティを追放されたりして、ずっと自分の居場所がなかった。それでリリ達と出会ってやっと見つけたのがここなんだ」
ゼノスは古びた室内を感慨深げに見渡した。
「ゾフィアやリンガやレーヴェもこの街が居場所だし、簡単には離れられない。だから、俺だけ逃げるって訳にはいかないよ。なんせ治療院がなくなったら困る奴らも大勢いるしな」
唇を引き結ぶアルを元気づけるように、ゼノスは笑って言った。
「ここは俺に居場所をくれた。だから、この居場所を守る努力はしないとな」
「ゼノス……」
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翌朝は激しくドアがノックされる音で目を覚ました。
治療室に駆け込むと、ゾフィア、リンガ、レーヴェが転がるように入ってくる。
「先生、大変だっ! 近衛師団が貧民街に攻め込んできた」