第285話 アルという少女【中】
前回のあらすじ)キャンプを楽しむゼノスたちのもとに腹をすかせたアルという少女が現れた。直後に悲鳴がとどろき――
「ひ、ひいいっ!」
遠くの繁みを掻き分けて、数人の男たちが転がるようにして駆けてくる。そのすぐ後ろに複数の獰猛なうなり声が迫っていた。黒い毛皮が闇に紛れてわかりにくいが、おそらく夜の山を群れで動くナイトウルフだ。
「あれ、あいつらっ?」
ゾフィアが驚いたのは、魔獣たちから逃げてくるのがリザードマン、ワーウルフ、オークといった配下の若い亜人たちだったからだ。
「お頭ぁっ!」
「あんたら何やってるんだいっ⁉」
先頭のリザードマンが申し訳なさそうに叫ぶ。
「す、すいませんっ。お頭たちがゼノス先生とキャンプだって聞いたから、夜の山に生えるツキミダケを酒のツマミに届けに行こうって話になって」
レーヴェが腕を組み、リンガが肩をすくめた。
「ツキミダケか。炙って食べると得も言われぬ香りがする珍味だな。気遣いは嬉しいが……」
「若衆だけで夜の山に入るなんて馬鹿だとリンガは思う」
ゾフィアが溜め息をついて、首をこきこきと鳴らす。
「ったく、あんたら怪我はないのかいっ」
「それが、二人噛まれて大怪我をっ」
よく見ると、オークの若者二人が、それぞれ怪我を負ったであろうリザードマンとワーウルフを背負っている。彼らも瞼は固く閉じられており、身体はぐったりしているようだ。
「何やってんだいっ。そこにさっさと寝かせな。魔獣はあたしらが片付ける」
「す、すいませんっ」
「リンガに任せるといいと思う。レーヴェは怖ければテントで寝ているといい」
「ぬかせ。我一人でも十分だ」
「ほら、あんたたち、さっさと行くよっ」
ゾフィア、リンガ、レーヴェが配下の者たちと入れ替わるように駆け出し、獰猛に唸るナイトウルフの群れに飛び込んでいく。
「ゼノス……」
不安げなリリの頭を軽く撫で、ゼノスは地面に横たえられた怪我人二人の元へと向かった。
「ま、あいつらは大丈夫だよ。こっちは治療といくか」
手前の一人は左腕が中ほどから食い破られ、奥のもう一人は右足首から先がない。
両者とも腹や肩にも噛まれた痕があり、裂けた肉から赤い血が溢れ出している。
苦しげに呻いているが、幸い息はあるようだ。
ふと斜め前を見ると、アルと名乗った少女が、両手を握り合わせて茫然とした様子で奥の怪我人を覗き込んでいた。先月は戦場にいたので、こういった怪我人は沢山目にしたが、上流階級の少女には刺激が強すぎる現場だろう。
しかし、これで否応なしに夜の山の怖さをわかってはくれたはずだ。
「じゃ、手前から治療するぞ。リリ、明かりをお願いできるか?」
「うんっ。《発光》」
リリの手の平から光の球がふわりと浮き上がって闇夜を照らす。怪我の状態を正確に把握しないと、最適な治療はできないので有難い。
まずは防護魔法。露出した血管を保護して出血を止める。次に右手をかざして治癒魔法の詠唱を行った。
「《高位治癒》」
腹部と肩の裂傷部で皮膚がみるみる盛り上がり、傷口を左右から埋めていく。噛み痕から菌が体内に入った可能性があるため、血管内に治癒の魔力を注ぐことも忘れない。
白く輝く魔力をそのまま左腕に移動させると、今度は腕の断面からつららが伸びるように骨が成長を始め、それを取り巻くように神経、血管、筋肉が本来あった腕の形を再現していった。
純白の光が鱗粉のように辺りに舞い散り、最後に脂肪組織、真皮、表皮といった皮膚細胞が、再生したばかりの腕の表面を絡みつくように覆っていく。
そうして、失われた腕の再生が完了した。
「あぁ、やっぱり再生は疲れるな」
ふぅと息を吐き、立ち上がって肩をまわすと、魔獣を追い払ったゾフィアたちが戻ってきた。
「先生、部下の馬鹿共がすまないね。お代は今度治療院に持っていくよ」
「ああ。せっかくだから、取ってきてくれた珍味をみんなで食おうか」
「やった。ツキミダケの芳醇な香り。リンガはもう我慢できない」
「まったくだ。軽い運動をしたから腹が減ったな」
「レーヴェさん、魔獣退治を軽い運動って……」
リンガとレーヴェがにこやかに応じ、リリが苦笑する。
「ゼノス先生、すいません。ありがとうございますっ!」
「ああ、今度は夜の山には気をつけろよ」
何度も頭を下げる若い亜人たちに手を挙げて応じ、ゼノスは視線を奥に向けた。
宴の再開の前に、足首を失ったもう一人の亜人の治療を済まさなければならない。
さっきまでその怪我人を覗き込んでいたアルという少女が、怪我人に背を向けて、こっちに向かって歩いてきているところだった。
「夜の山が危険だってわかっただろ?」
「ええ、あれが魔獣なのね。あんなのがいるなんて、どうしよう……」
アルの元々真っ白な肌が、さらに蒼白になっている。
その上、血まみれの重傷者を目の前にしたのだから、かなりのショックを受けているはずだ。
ゼノスは彼女とすれ違って、もう一人の負傷者のそばへと寄った。
「え……?」
思わず声が出たのは、彼のさっきまでなかったはずの右足首から先が存在していたからだ。
いや、右足だけではない。
魔獣の鋭い牙による肩や腹の裂傷も、すっかり綺麗になっており、亜人は穏やかな寝息を立てていた。
そこにもう怪我人はいなかった。
だが、ついさっきまでは間違いなく彼は負傷者だったはずだ。
視界が悪いこともあって、ゼノスはまだこっちの若者には治療を施していなかった。
負傷者のそばにいたのは一人の少女だけだ。
「まさか……あんたが治したのか?」
振り向いて言うと、アルも同時にこっちを振り向いた。
「この人は、あなたが治療したの?」
お互いの声には少しの驚きが含まれている。
風変りな師匠の教えと、後は独学で治癒魔法を学んだため、一般常識を知らずに育ち、組織の再生程度はどの治癒師もできるかと思っていたが、その後様々な経験を積んだことで、必ずしもそうでないことを知った。
だが、少女の再生治療はほぼ完璧に見える。
「そうか、やっぱりこの程度はみんなできるんだな」
「リリ、多分違うと思うっ……」
リリが突っ込み、亜人たちは感嘆の息を漏らした。
「これは驚いたね」
「リンガもびっくり」
「まさかゼノスと同等レベルの治療ができる者がいるとは」
アルという少女も薄紅色の瞳をぱちくりと瞬かせている。
「そう、なんだ。私と同じようなことができる人がいたんだ」
少女の視線がゼノスに向いた。
「あなたはゼノス、と呼ばれてたわね。まさか特級治癒師なの?」
「いや、俺は見ての通りのただの場末のヒーラーだよ」
「場末のヒーラー……ってこんなことできるの? 嘘、びっくり!」
「あんたこそ特級治癒師じゃないのか?」
「私は……見ての通りのただの可愛いメイドよ」
アルは一瞬口ごもった後、エプロンドレスの裾をつかんでくるりと回って見せた。
満腹になって少し元気はでてきたようだ。
その直後、突然耳元で声がした。
「ゼノス」
「うわっ、びっくりした」
姿を消したカーミラが暗闇に紛れてささやいているのだろう。
「浮遊体ぃぃ、だからいきなり話しかけるなって――」
「あの女の治療。少し妙じゃ」
「……妙? どういうことだ?」
「あれは、おそらく治癒魔法ではないぞ」
「え……?」
思わぬ一言に、ゼノスは闇夜をじっと睨んだ。
「でも、ちゃんと再生してるぞ。あれが治癒魔法じゃないなら、なんなんだ?」
「……わらわにもわからん」
「お前にもわからないことがあるんだな」
「くぅ……大陸一の大賢者と呼ばれたわらわにとってなんたる屈辱っ」
「大陸一の大賢者? 本当か?」
「嘘じゃ」
「なんでここで嘘っ?」
結局よくわからないが、若い亜人の命が救われたことだけは確かだ。
ゼノスはアルに向き直った。
「とにかく助かったよ、礼を言う。ありがとう」
軽く伝えたつもりだったが、アルは驚いたように薄紅色の両目を大きく見開く。
「い、今……ありがとうって言った?」
「ああ、何か問題が?」
「う、ううん……大丈夫。本当はあまり治療を見せちゃ駄目なんだけど……」
アルは自身の両手を眺めた後、少し笑顔になって言った。
「でも、パンのお礼ができてよかった」
ただ、問題はこの後だ。彼女がどこに行くつもりなのか知らないが、少女にこのまま夜の山越えをさせる訳にはいかない。朝までここで一緒にキャンプをして、明るくなったら山を迂回する街道を教えることを提案する。
しかし、アルは不安げに指を絡めた。
「でも、長居はできないの。もう行かなきゃ……」
「先生っ、何か来るよっ!」
直後、ゾフィアが声を上げた。
耳を澄ますと、藪をがさがさと掻き分ける音と、伸びた雑草を踏み鳴らす物々しい足音が森に響いている。
音の方角は魔獣の跋扈する山々ではなく、人間の住まう街区のほうだ。
木々の間にぽつぽつと松明が灯り、それが次第に数を増やしていった。
集団は徐々にこっちに近づいている。
「あれは……近衛師団?」
剣と盾が王である太陽を守るように囲む紋章旗が、炎の明かりにぼんやりと浮かび上がっていた。