第266話 二の手【前】
前回のあらすじ)指揮権は豚野郎将軍からメリッサに移った
交渉により西方防衛線の指揮権はメリッサの元へと戻った。
傷は完治したものの、体力は相当消耗しているようで、ヒガースはまだ立ち上がれないでいる。
そのままお抱えの治癒師たちによって担架に乗せられ、陣のほうへと向かっていった。
メリッサがかしこまった調子で敬礼をする。
「ゼノス、改めて礼を言う」
「いいさ。俺のためでもあるからな」
「……俺のため?」
「早速で悪いんだが、西方防衛線における一切の指揮権を譲渡されたあんたに頼みがある。砦にいる二人の子供を王都に戻すよう手配して欲しい」
「子供……ルーベル様と、その友達というエルフの少女のことか? 構わないが、なぜ?」
「まあ色々あってな」
「……本当に不思議な男だな。まあいい。敢えて詳しくは聞かないでおこう。砦に戻ったらすぐに手配する」
「助かるよ」
これで西方防衛線における仕事は済んだことになる。
メリッサはふっと笑みをこぼすと、ゼノスの隣に並んで、平穏を取り戻した戦場を眺めた。
「これで防衛戦の大勢は決したな」
「……」
今回の襲撃も【灰の豊穣】によるものだと思われるが、ブルーサラマンダーという大型魔獣を操るのは相当骨が折れるであろうことが予想される。
魔獣使いの消耗も激しいだろうし、敵もしばらくは動けないだろう。
しかも、退治したブルーサラマンダーの死骸を第一防衛線の橋の手前に運んでおけば、他の魔獣は怖れて当分は近づかなくなるはずだ。
戦況は一旦落ち着いたと言えるだろう。
メリッサは剣の柄を軽く撫でた。
「今のうちにヤヌール湿原にある【灰の豊穣】のアジトをなんとか探し出して叩く。そして、マルヴァール帝国との関係を明らかにする。それで防衛戦は終わりだ」
「……なんでじっと俺を見るんだ」
「手伝ってくれるか」
「いやいや、俺はただの場末の治癒師なんだって」
「ははは、冗談だ。お前にはもう十分すぎるほどに助けられた。後は我々の仕事だ」
「本当に冗談か……?」
それならいいが。
ゼノスは肩をすくめて息を吐いた。
ようやく色々が片付いたので、いい加減リリの顔を見て安心したいところだ。
だが――
「……」
「どうした、ゼノス」
「ああ、いや……」
なんだろうか。問題は一通り片付いたはずなのに、妙な胸騒ぎがする。
「ゼノス」
「うわ、びっくりした」
肩にかけたリュックから突然名前を呼ばれ、ゼノスは反射的に背筋を伸ばした。
「……?」
首を傾げるメリッサから距離を取り、リュックに小声で話しかける。
「浮遊体、お前――」
「まずいぞ。わらわとしたことが、ぬかったわ」
カーミラの声色がいつもより一段低い。
「……どうした?」
「リリじゃ。厄介な状況になっているかもしれぬ」
「なに……?」
眉をひそめた瞬間、第二防衛線の陣の方角から鐘が打ち鳴らされた。
「どうした、ゼノ――」
「悪い、メリッサ。先に行くぞ」
声をかけてきたメリッサを背に、能力強化魔法で脚力を強化し、ゼノスは陣へと急ぐ。
柵を越えて陣の奥へと向かうと、そこには茫然とした表情で、担架から身を起こしているヒガースの姿があった。
「馬車、が」
ヒガースがここまで乗ってきたという軍事用馬車が大破している。
馬の姿はなく、自慢の鋼の装甲は見るも無残に剥がされ、引き裂かれた内装がここからでも確認できた。
馬車の中には誰の姿もない。
そばで倒れ伏している警備兵の一人が、呻きながら言った。
「ルーベル様、が、さらわれた」
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「ふはは……」
ヤヌール湿原の只中に築かれた石の砦。
【灰の豊穣】のアジト屋上ではローブをまとった老人が、国境の方角を眺めて笑った。
「ブルーサラマンダーまでもを退けるか。大したものだ……」
多くの魔獣使いを抱える【灰の豊穣】と言えどもA+級巨大魔獣を操るのは容易ではない。
予想通りかなりの犠牲を強いられ、ズイという魔獣使い部隊を率いる男も大怪我を負ってもう動けない状況だ。
これで【灰の豊穣】の進撃は止まった。
「……と、思っていたんじゃろうがの」
老人は皺まみれの口元に笑みを湛え、机に置いた盤から駒を一つ取り上げる。
「長。それは?」
背後に控えていた女の部下が尋ねた。
「チェス、というこの大陸のゲームだ。なかなかに面白いぞ。違った動きをする複数の駒を使って相手を攻め落とす遊びらしい」
老人は駒を頬ずりしながら、後ろで膝をついた二人の配下を見回す。
一人は人骨らしきものをネックレスのように首に巻いた女で、もう一人はどこにでもいそうな顔の青年だ。ただ、肌は奇妙に青白い。
「こんなゲームですら複数種類の駒があるというのに、どうして我らの戦い方がズイの部隊――魔獣部隊一辺倒だと思うのか……のう、サイ、ゼン」
「……」
二人の部下は無言で頷く。
「ズイを囮にして……ゼンの駒が懐をつき、王を殺る」
駒を一つ投げ捨てると、老人は別の駒を相手陣の奥に進めた。
【灰の豊穣】は集団で一つの生命体を形成している。
個別の構成員は単なる駒に過ぎず、集団の目的達成のためならいつでも命を投げ出せるよう教育してある。
「ひひ……こういう時はなんと言うんじゃったか……ああ、そう」
口角を高く持ち上げ、老人は言った。
「チェックメイト」