第258話 最前線の変化【前】
前回のあらすじ)リリの機転で前線に食糧がいきわたるようになった
ヤヌール湿原の奥地に築かれた石の砦が、【灰の豊穣】の本拠地となっていた。
元は特定の土地を持たない遊牧民で、野生の魔獣に襲われないよう、それらを従える術を長年研究した結果、多くの魔獣使いを抱えるに至った。
砦の屋上に立つ老人の背後で、魔獣の毛皮をまとった男が膝をつく。
「長。戦況の報告です」
「王国側もそろそろ音を上げる頃か?」
魔獣という生き物は、特殊な条件が揃わなければ、元来他種族と群れることは少ない。
たとえ熟練の冒険者であっても、これだけの魔獣が群れとなって断続的に襲撃してくるという経験はほとんどないはずだ。
それは軍隊でも同様である。
今頃は兵士も疲弊し、損害もかなり大きくなっている頃だろう。
「このままでは西の国境線を魔獣どもに食い破られる。だが、北部戦線の主力軍を移せば、今度はマラヴァール帝国に押し込まれる。ふはは、手詰まりとはこういうことよ」
思わず含み笑いを漏らすが、部下の報告は予想と違っていた。
「長。それが……一時期は我らが優勢でしたが、急速に立て直しが図られているようで……」
「……ほう?」
長と呼ばれた老人は、片眉をわずかに持ち上げた。
「新たな援軍が到着したか?」
それならそれで構わない。魔獣による攻撃を続け、損害を拡大していくだけだ。
なんせヤヌール湿原には攻撃の駒となる魔獣は無数にいる。
いずれは主力軍を引っ張り出せるだろう。
「さすれば、約定は問題なく果たせよう」
「いえ、それが援軍ではないようです」
「どういうことだ、ズイ……」
老人は初めて部下を振り返った。
ズイと呼ばれた部下は床に膝をつけたまま報告を続ける。
「前線の兵士たちの連携はばらばらでしたが、ここ数日で急に熟練度が上がってきており、簡単に打ち倒せなくなってきるのが一つ」
「……」
最前線には、王国の最下層民が人壁として配置されていると聞いていた。
彼らには国を守る強い意欲もなければ、まともな武器も与えられておらず、連携の訓練すら施されていないはずだった。
「何が起こった?」
「まだわかりません。そして、もう一つは、傷を負った兵士たちがすぐに戦線に復帰しているようです」
傷の浅い者は即座に復帰。命の危険を伴う重傷を負った者ですら、数日すればけろっとした顔で最前線に戻っているという。
「それは本当か?」
「そのようです。まさか治癒師の部隊がバックアップについたのでしょうか」
「……馬鹿な。そうだとしても重傷者が数日で最前線に戻るなど聞いたことがない」
ハーゼス王国は、元々優秀な治癒師を多く抱えることで、大陸戦争を勝ち上がった歴史があるという話は聞いている。
だから、あの国において治癒師は少し特別な地位にあること、特に治癒師の頂点にいる特級治癒師と呼ばれる者たちの中には、重傷を瞬く間に治してしまうような化け者がいるらしいことも知ってはいた。だが――
「一人や二人の重傷者が完全復活するならまだわかる」
ただ、ここは戦場だ。
重傷を負う者の数は、その比ではないだろう。十人単位、場合によっては百人以上が同時に大怪我を負ってもおかしくないのだ。
あの国に特級治癒師と呼ばれる者は十人もいないはず。魔力にも限りがあるし、それだけの怪我人を連日捌けるとは到底思えない。
「何かの間違いではないか? 本当に同じ者が戦列に戻っているのか」
「確かに、遠方から確認しているだけですので、どれほど正確かと言われると……」
「……」
重傷者が数日で戦列復帰というのは大袈裟だとしても、多数の治癒師部隊によるバックアップがついた可能性は捨てきれない。今のままでは膠着状態に陥るかもしれない。
老人は皺の浮いた頬を撫で、しわがれ声で笑った。
「まあよい。西の大陸で怖れられた我ら【灰の豊穣】には、まだまだ手札はある。戦のやり方というものを教えてやろうではないか」
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ハーゼス王国、西方防衛線。
軍隊長のメリッサが、拠点となる砦から第二防衛戦に到着したのはその数日後だった。
「ゼノス、無事だったか」
「まあな」
二次防衛線の後方にある救護テントのそばでゼノスの姿を認めたメリッサは、馬を降りて近づいてくる。
「ところで、どうしてこんなところにいるんだ? 貧民は一次防衛線にいるんじゃないのか?」
「話すと長くなるんだが、色々あってこうなったんだ」
メリッサは怪訝な表情を浮かべたが、先に言うことを思い出したようで、唇を引き結んだ。
「まずはすまない。調査と雑務に手間取り、前線に来るのに時間がかかった」
「ああ、気にするな」
「今回の魔獣の襲来だが、単なる魔獣の気まぐれではなさそうだ。西の大陸の【灰の豊穣】という怪しげな傭兵団が関わっている可能性が高い。もうこっちにも情報は伝わっているか?」
「ああ、一応な。カーミ……じゃなくて、司令部からも通達があったみたいだぞ」
そうか、と頷くと、メリッサは悔しそうに拳を握った。
「敵が【灰の豊穣】の可能性が示唆された以上、このままのやり方ではジリ貧になる。前線の体制の変更をヒガース将軍に申し入れていたのだが、上官に意見するとは何事かと追い返されるだけだった」
「あの腹が出た軍人か。もはやあいつの言うこと聞く必要あるのか? あんたが全体を指揮したほうがいいんじゃないか?」
図星の指摘にメリッサは一瞬言葉に詰まり、緩く首を横に振った。
「複数の指示系統があれば現場は混乱する。そして、規律を失えば軍隊は崩壊する。我々はそう教えられてきた」
「そうか……」
メリッサは溜め息をついた後、ぎりと奥歯を噛んだ。
「こんな状況になってすまない。せめて飯くらいはまともなものを用意したが」
「その件はあんたが関わってくれたのか。助かったよ」
「私だけではない。機転の利く少女がいてな」
「……ああ」
ゼノスはどこか嬉しそうに頷くが、メリッサは忸怩たる思いで顔を伏せた。
「だが、気休めに過ぎんだろう。おそらく最前線は目を覆うような状態……」
そこまでを口にしたメリッサは、不思議そうに周囲を見回す。
「……ん? なんだか、妙に空気がゆったりしていないか?」
ふと気がついてみると、辺りには腐臭や血生臭い匂いもしないし、兵士たちの叫び声や怪我人たちのうめき声も聞こえない。
疲労や不安や緊張で、つい先日まで今にも倒れそうな表情をしていた兵士たちも、なんだか晴れやかな顔をしているようにさえ見える。
「何が起こった? まさか魔獣の攻撃が止んだのか?」
「いや、相変わらず飽きずに来てるぞ」
「では、どうして――」
「魔獣襲来っ!」
第一防衛戦の方から鐘の音が聞こえ、さっきまでどこか呆けた様子だった兵士たちが機敏な動作に戦闘態勢に移行する。
その顔は使命に燃えた軍人のものであり、これまでのようにただ死地に赴くだけの絶望感は見られない。
「なんだ? ここで何が起こってるんだ?」
思わず口にすると、ゼノスが親指を立て、最前線のほうに向けた。
「ちょっと見学に行くか?」