第256話 一介の治癒師【後】
前回のあらすじ)第二防衛線の救護テントに現れたゼノスは、瀕死の兵士をあっという間に治療した
「……え? え? は?」
致死的な状態だった怪我人があっという間に治療され、軍属中級治癒師のグレースは目を丸くする。
あうあうと口を動かしていると、救護テントに現れた非公式の治癒師を名乗る男は、自身の肩をもみながら言った。
「だが、確かにあんたが言う通り難しいな。なんせ失った血の量がかなり多い。しばらくは安静だ。テントをもう一つ隣に作れるか? 治療をする場所と、治療を終えた者が安静にする場所を分けよう」
「え、ちょ、ちょっと」
「さあ、次――」
「ちょっと待ってっ!」
思わず大声を出すと、男は軽く眉間に皺を寄せてグレースを振り返る。
「なんだ? 急いでるんだが?」
「な、なな、なななな、何が起こったの?」
「ん? 見ての通り治療だけど」
あまりに異次元すぎて、見てもわからないから聞いているのだが、男は漆黒の外套を翻してさっさと別の怪我人の元へと足を進めた。
グレースは慌ててその後をついていく。
「あ、あなた、一体何者?」
「言っただろ。一介の治癒師だって」
「こんな一介の治癒師いる訳がないっ……」
「さあ、治療を急ぐぞ」
「あ、ちょ、ちょっと」
漆黒の衣をまとった黒髪の治癒師は、腕まくりをしてテント内を歩き回る。
重症者を死の淵から引き上げ、
中等症の致命傷に繋がる傷を塞ぎ、
軽症者の怪我はあっという間に治療する。
闇色の外套とは対照的な、真っ白な慈愛の光がテント内を眩く乱舞し、そして――
気づけば救護テントに横たわっていた全ての怪我人の治療は、たった一人の治癒師の手によって終了していた。
グレースはあっけに取られたまま茫然と口を開く。
「し、信じられない……」
北部戦線の特級治癒師だって、果たしてこれだけのことができるだろうか。
謎の治癒師の登場で、今にも消えそうだった幾つもの命が繋がった。
そして、同時にこれまで無力が故に救えなかった者たちの顔が脳裏をよぎる。
安堵と後悔が一緒になってやってきて、感情の渦に涙が頬を伝った。
「泣くのは早い」
だが、ゼノスのそんな一言で、グレースは息を呑んだ。
「……っ」
「怪我人はまだまだ来るぞ。治癒師は感情に振り回されるな。場がどれだけ混沌としても、自分だけは常に冷静に後方から戦況と味方の状態を見極めるんだ」
「う、うんっ」
思わず背筋を伸ばすと、ゼノスはにこりと笑う。
「なんて、受け売りの言葉だけどな。さて――」
ゼノスの視線は救護テントの警備責任者へと向いた。
「約束通り、貧民もここで治療できるようスペースを拡張してもらうぞ」
「……」
グレースと同様、驚異的な治療に目を奪われていた様子の責任者は、しかし、ふと我に返ったように首を横に振った。
「い……いや、そ、そうはいかない」
「ちょっと、あなたっ。約束が違うわっ!」
グレースが詰め寄ると、責任者は開き直ったように口を開く。
「か、考えてやる、と言っただけだ。将軍に確認が必要だ」
「ゆっくり確認している余裕は前線にはないのっ。ターク軍隊長は元々貧民も治療するように言ってたはず」
「し、しかし、ヒガース将軍が……」
「おい、ふざけるなよ」
ドスの利いた声を上げたのは、グレースでもゼノスでもなかった。
さっきまで瀕死の状態でテントに横たわっていた兵士たちだ。
「俺らの恩人との約束を守らない気かよ」
「それでもハーゼス王国軍の軍人か。王都防衛軍ってのは恩義も感じねえのか」
「その人が去ったらどれだけの損害が出るのかわかってんのか」
「き、貴様ら……」
目を見開く責任者をよそに、兵士たちはゆっくりと身を起こして、ゼノスに頭を下げた。
「ありがとうよ。助かったぜ」
「おかげでまだ家族に別れを告げずに済んだ」
「あんたがどこの誰だろうが、確かなのは俺達の命の恩人だってことだ」
「命の恩を返さねえなんて、軍人の風上にも置けねえ」
肩を怒らせた兵士たちに詰め寄られた責任者は、ごくりと喉を鳴らす。
「ど、どうなっても知らんぞっ」
後ずさりながらそう言って、テントから離れた。
「よっしゃ、じゃあ早速テントを広げるぞ」
「おおうっ!」
「貧民の怪我人をここまで運ぶルートを作らねえとな」
「それは俺らが行ってくる」
軽傷だった者たちが中心になって、救護テントの拡張と、治療後の者が安静にするための新たなテントの設営を開始する。
目の前でてきぱきと進む作業を、グレースはぽかんと口を開いて眺めていた。
「ついさっきまで地獄絵図だったのに……」
「これで守りの体制はなんとか目途がつきそうだな」
ゼノスという治癒師は涼しい顔で言った。
確かに、度重なる魔獣の襲来で、前線の兵士の消耗は著しい状態だった。新たな援軍がいつやってくるかもわからない状況においては、まずは兵力を減らさないというのが重要になる。
軽症者や中等度の傷を受けた者は完治すれば戦列に復帰可能。
重傷を負った者は、体力改善のためにも少し安静が必要だ。
ゼノスはグレースに言った。
「なあ、ここの飯はどうなってるんだ?」
「ええと、前線には調理施設がないから、料理人や炊事兵たちが砦で用意し、ここまで運搬兵が持ってくるわ。どうして?」
「栄養は重要だぞ。体力や回復力に直結するからな。あとは気分にも影響する。第一防衛線の貧民に至っては、干からびた硬い小さなパンを一つ持たされるだけだ。そんなので士気が上がると思うか?」
「そ、そうだけど……」
おそらくそれもヒガース将軍の指示だったはずだ。
グレースはだらしない体型をした中年将軍を苦々しく思い出しながら言った。
「治癒師の立場では、本来兵士の栄養状態も改善すべきね。でも、しばらくは手が……」
「まあなぁ」
救護テントを拡張したことで、怪我を負った貧民たちも、これから大量に運ばれてくるはずだ。
当面はそっちの対応に時間を取られるだろう。
ゼノスは首をゆっくりまわしながら、救護テントの入り口に向かった。
「さあ、怪我人を待つぞ。一人も死なせない」
一人も死なせない。
ここは血飛沫の舞う戦場だ。そんなことができるはずがない。
だけど、この男なら――なぜかそんな幻想をも抱いてしまう。
いつ終わるとも知れない魔獣たちの襲撃に、西方防衛線は限界に達していた。
怪我人は増え、先の見えない攻防に、精神も摩耗していった。
しかし、今初めて希望とも呼べる小さな光が見えた気がする。
「ええ!」
グレースはこれまで出したことのない大きな声で返事をして、ゼノスの後に続いた。