第255話 一介の治癒師【前】
前回のあらすじ)ゼノスはリリ(とルーベル)を連れ帰るため、西方防衛戦を終わらせることを決意する
戦場というのは、戦いの場だ。
そして、武器を取って戦えば大なり小なり怪我を負い、時には深刻なレベルの損傷を受ける。
そんな怪我人のために、第二防衛線の陣地内には救護テントが用意されていた。
この日、西方防衛線の軍付きの中級治癒師グレース・ハボットは西の辺境で目を疑う光景に出会った。
西方防衛線は元々比較的な平和な国境線で、ヤヌール湿原から時々やってくるはぐれ魔獣を相手にするのが主な役目だった。治癒師としての仕事は国境兵たちの健康相談が主で、怪我の治療は月に数回程度というのんびりした職場と言えた。
なのに、この十日間は魔獣の襲来で怪我人が引きも切らず、寝る暇もない慌ただしさである。
激戦地である北部戦線には特級治癒師が率いる治療部隊がいるようだが、ここでは王都から派遣された王都防衛軍付きの治癒師が新たに数名追加になっただけだ。
それもヒガースとかいう新任の将軍が「治癒師を前線に出して死なれでもしたら、わしが怪我を負った時に誰が治すのだ」という理由で砦に留めているため、第二防衛線にあるこの救護テントには治癒師が自分一人しかいない。
治癒師が足りず、看護の手が足りず、痛み止めが足りず、包帯が足りず、怪我人だけは雪だるま式に増えていく。後ろで一つに括った藍色の髪を振り乱し、テント内を這うようにして駆けずりまわっても、状況は一向に好転しない。
今だって瀕死の兵士の手当をしているが、彼の命はもはや風前の灯火だ。
「せ、先生……俺は……助かるよな」
兵士のかすれ声に、グレースは力強くうなずく。
「え、ええ、勿論よ。《治癒》」
抉れたわき腹の傷口に手を当て、治癒魔法を唱えるが、これが気休めに過ぎないことはグレースが誰よりも知っていた。
傷は広く、深く、連日の治療で枯渇しかけた魔力では、もう深層の組織の修復は困難だ。
それでも助けを求める呻き声はあちこちから上がり、命はこの手から次々とこぼれ落ちていく。
つい先日まで笑いあっていた仲間たち。
その中には今度生まれる子供の名前を一緒に考えてくれ、と言ってきた者もいる。
目の端から涙が溢れ、グレースは拳を握りしめた。
――私は、無力だ。
「ここが救護テントか?」
緊迫した状況とは真反対の、どこかのんびりした声をした黒い外套姿の男が、地獄絵図と化した救護テントに突然やってきたのは、そんな時だった。
「なんだ、貴様は」
警備の兵士が、怪しげな風体の男に詰め寄る。
「貧民かっ? ここは正規軍の救護テントだ。貧民ごときが立ち寄っていい場所ではない。貴様はさっさと持ち場に戻れっ!」
しかし、男は動じることなく口を開いた。
「なあ、聞きたいんだが、正規兵はここで治療を受けられるんだよな? でも、貧民はどこで治療を受ければいいんだ? 俺の持ち場では怪我人を出さないつもりだが、一次防衛線になっている橋は複数ある。どうしたって他の持ち場では怪我人が出る。怪我人をまとめて治療できる場所が必要だ」
「……」
グレースは貧民らしき男の声をぼんやり聞いていた。
第二防衛線の正規軍ですらこんな状況なのだから、第一防衛線で壁となっている貧民たちは想像を絶する状況だろう。
しかし、男が自分の持ち場では怪我人を出さないつもり、と今言ったのはどういう意味だろうか。
兵士は相変わらず居丈高に声を荒げていた。
「あん? 怪我をした貧民は橋の下の川岸で横にでもなればよかろう」
「それは下策だ。衛生状態だってよくないし、血の匂いをかぎつけた魔獣が直接川を渡って狙いに来る。そうなれば第二防衛線のあんた達だって困るはずだ」
「う、うるさいっ。貴様は何様のつもりだっ」
「何様でもない。俺は一介の治癒師だよ」
「はっ、馬鹿を言うな。貧民ごときが治癒師だと?」
「治癒、師……?」
兵士は鼻で笑ったが、グレースは思わず立ち上がった。
「ね、ねえっ、あなた治癒師なのっ⁉」
男の目がグレースを向く。身なりは小奇麗とは言えないが、澄んだ瞳をしている男だった。
その男は軽い調子で頷いた。
「一応な。正式な治癒師じゃないけど」
よくわからないが、この際正式だろうが非正式だろうが何でもいい。
治癒魔法が使えるならば、もはや猫の手だって構わない。
グレースはよろよろと男に近づいて、黒い外套を掴んだ。
「て、手伝ってくれないっ?」
兵士が慌てた様子で口を挟んだ。
「ハボット先生、勝手に決められては困る。私が将軍に叱られ――」
「じゃあ、あなたが今すぐ彼らの出血を止めてくれる訳っ!」
普段温厚な自分にこんな大きな声が出るとは思わなかった。
でも、幾つもの命が、目の前で失われようとしているのだ。
「そ、それは――」
兵士と押し問答する横で、治癒師の男は冷静な声で言った。
「治療を手伝うのは構わないが、条件がある」
「条件?」
「このテントを拡張して、貧民も使えるようにしてくれ。正規軍だの貧民だのをいちいち分けている余裕はない。一カ所に集めて治療したほうが断然効率がいいんだ」
「わ……わかったわ」
「ハボット先生、独断はまずい。それに貧民ごときが――」
「「そんなこと言ってる場合かっ!」」
男とグレースに同時に怒鳴られた兵士は、一瞬言葉に詰まった後、わざとらしく咳払いをした。
「か、考えといてやる」
――治療開始。
グレースは男を伴って、テント内を移動する。
「私はグレース・ハボット。軍の中級治癒師よ。あなたは?」
「ゼノス」
「重傷者は手前に、軽傷者はテントの奥にいるわ。あなたは中等症の怪我人の治療をお願い」
しかし、ゼノスと名乗った男は、その場で足を止めた。
「いや、その前にあっちの奴が死にそうだ。治療を急いだほうがいい」
彼が指さしたのは、テントの端で横たわっている怪我人だ。
「あそこは……」
最重症の中でも助かる見込みが薄い者たちを集めているエリア。
医療資源が限られたこの状況では治療の優先順位をつけざるを得ないのだ。ついさっきまでグレースがそばについていた男がいるのもあの区画だった。
彼の息はもう細い。今にも命が尽きそうだ。
できることは、さっきのように気休めの言葉と治療を施すだけ。
自らの無力感に打ちのめされながら唇を噛むと、ゼノスという男は不思議そうな顔で言った。
「優先順位が必要なのはわかるけど、別にあそこの奴らだって救命不可って訳じゃないだろ。さっさと助けるぞ」
「え……?」
次はグレースが怪訝な表情を浮かべる番だった。
「あ、あなた本当に治癒師?」
「そう言っただろ。正式じゃないけど」
「だったら、彼らの救命が難しいことくらい一目でわかるでしょ」
「簡単とまでは言わんが、難しいことが命を諦める理由にはならないだろ」
グレースは拳を握って、声を荒げた。
「わ、わかったような口をきかないでくれないっ? 私だって助けたい。でもっ――」
「《高位治癒》」
ゼノスが怪我人のそばで右手をかざして唱えると、溢れ出した温かな白色光が重傷者の脇腹をまるで包帯のように優しく包み込みこんだ。
温かな慈愛の光が、真っ白な粒子を飛沫のように散らしながら渦を巻き、血管、神経、筋肉に皮膚組織が瞬く間に再生されていく。
「……え?」
あっけに取られるグレースの目の前で、失われた臓器までがみるみるうちに深部から修復されていき、今にも天に召されようとしていた兵士は、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
「はい、終わり」