第230話 剣聖の事情【前】
前回のあらすじ)カイザーコングを退けたゼノス達。戦いがおわって水浴びをするアスカのもとに男達が向かったとの情報が浮遊体からもたらされ――
森の奥の泉に、美しき剣聖の姿があった。
枝葉の隙間から射す薄い月光が、真っ白な肌をぼんやりと照らしている。
右手で泉の水をすくうと、波紋がゆっくりと水面の上を広がった。
「……何か用?」
泉に肩まで浸かったまま、アスカは静かに言った。
やがて繁みががさがさと揺れ、四人の男が姿を現した。先頭に立っているのは、髪をトサカのように逆立てた目つきの悪い男だ。
「くはは、さすがだな。俺らは盗賊あがりで、気配を消すのは得意なんだがな」
「誰?」
「くくく、いい眺め……って、いい加減覚えろやあっ!」
男はその場で地団駄を踏んで声を荒げた。
しばらくふーふーと鼻息を吐いていたが、やがてゆっくりと足を踏み出す。
「まあいい。【髑髏犬】のリーダー、ビーゴ様のことは今日を境に忘れられなくなるぜ」
にやにやと笑いながら泉のほとりへと近づいてきた。
「なあ、【銀狼】さんよ。今回の魔獣討伐の手柄を譲ってくれねえか? 元凶の魔獣を倒したのは俺らって、この場で念書を書いてくれりゃあいい」
「なんで?」
「おっと、断ってくれてもいいんだぜ。だが、その場合はどうなるかわかるよなぁ?」
「さあ?」
首をひねると、男は目を細めてじろじろとアスカを眺めて言った。
「おいおい、強がりはやめとけよ。さっきクミル族のガキに剣を渡していたな。剣士の命を簡単に手放しちゃ駄目だろぉ?」
「うん、その通り……ただあの娘は、あの剣に触れる資格がある」
「あ?」
男は一瞬眉をひそめた後、べろりと舌なめずりをした。
「まあ、そんなことはどうでもいい。要は剣さえなきゃ、てめえはただのひ弱な女だってことだ。ひひひ、散々俺様のことを馬鹿にしやがって」
「別に馬鹿にはしていない。印象が薄い人は覚えられないだけ」
「それが馬鹿にしてるって言ってんだよぉぉっ!」
ビーゴと名乗った男は、ぎりぎりと奥歯を噛み締め、アスカを睨んだまま仲間に声をかけた。
「もういい。思い知らせてやる。おいお前ら、この女を押さえろ」
だが、男の背後からは何の反応もない。
「おいっ、さっさと――」
振り返った男は、仲間の三人が既に草の上に倒れていることに気づいたようだ。
すぐにそばに闇に溶けるような黒い外套をまとった男が立っている。
「【銀狼】は今回の任務の功労者だ。水浴びくらいゆっくりさせてやれ」
「あ……ゼノス」
アスカが名を呼ぶと、トサカ頭は激高して叫んだ。
「って、だからなんでこいつのことは名前まで覚えてるんだよぉぉっ!」
「印象に残ってるから」
「絶対俺のほうが印象に残るだろうがよぉぉっ!」
「見た目はな?」
「てめえら、もう許さねえっ!」
湾曲した剣を手に、男はゼノスに勢いよく飛び掛かった。
そして、青い光がゼノスを一瞬取り巻いたと思ったら、【髑髏犬】のリーダーは仲間の隣に仲良く横たわっていた。
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「やれやれ……」
昏倒した【髑髏犬】メンバー四人を見下ろして、ゼノスは溜め息をつく。
洞窟でそれなりの毒を浴びた割に、元気のいいことだ。
泉に浸かったアスカが、首を傾けた。
「どうして、ここに?」
「いや、こいつらがあんたの後をつけているって情報があったからな。ロアがあんたの剣を持ってたし、丸腰なんじゃないかと思って一応様子を見に来たんだ」
「そう……別に枝の一本でもあれば倒せるけど」
「そ、そうか。出しゃばって悪かったな。じゃあ」
踵を返し、立ち去ろうとすると、「待って」と呼び止められた。
足を止めて振り返る。アスカは少し黙った後、
「……でも、なぜか悪い気はしなかった」
微笑を浮かべてそう言った。
「私は誰にも助けられたくないし、誰も助ける気もなかった。でも、今回の冒険はあなたに少し助けられた。あのロアという娘にも」
「……」
黙って頷くと、アスカはそのままざぶざぶと泉から出てきた。
薄い月明りの下に、剣聖の真っ白な肢体が浮かび上がる。
「いきなり水から上がるのやめような?」
アスカに背中を向けてたしなめると、不思議そうな口調で返事があった。
「なんで?」
「それ聞く?」
「そろそろ上がろうと思ったから、上がっただけ」
「そうか……確かにあんたはそういう感じの奴だな」
「そういえば……師匠にもさっさと服を着ろってよく怒られたな」
「師匠……?」
後ろを向いたまま眉をひそめると、若干の沈黙の後、アスカは言った。
「私は……【雷神】の弟子なの」
「え?」
驚いて思わず振り向いたところ、アスカは相変わらず一糸まとわぬ姿だったので、そのまま一回転して背中を向ける。
「……服はさっさと着ような」
「今から着るところ。なんだか師匠みたい」
わずかにむくれた口調のアスカに、ゼノスは尋ねた。
「で、【雷神】の弟子ってどういうことなんだ?」
【雷神】はアスカの前に剣聖と呼ばれた男で、ロアの父親疑惑がある人物だ。
確かに弟子がいたという噂は聞いたことがあったが、その後行方不明になり、冒険者ギルドも居場所を把握していないという。
背後から、アスカが泉のほとりにおいてあった服を持ち上げる音が聞こえる。
「私は……小さい時に親を亡くして、行き場もなくて森を彷徨っていた時に魔獣に襲われたの」
別にそのまま死んでもいいと思っていたが、気づいたら近くに落ちていた枝を手に取り反撃していたのだという。潜在的な戦闘本能が発揮された瞬間だったのだろう。
「それをたまたま通りかかった師匠が見て助けてくれた……」
アスカの身のこなしに剣の天才として感じるものがあったのか、【雷神】は弟子にならないかと誘ってきた。
「お前なら剣聖の技が継げるかもしれないって言われて。その時はよくわからなかったけど……」
それから旅と猛烈な稽古の日々が始まった。
師匠は普段はおおらかな男だったが、剣にはとことん厳しかった。だが、できることがどんどん増えていくことが楽しく、稽古も苦にはならなかったという。
しかし、そうしているうちに、【雷神】の身体は次第に弱っていったのだそう。
「最初は知らなかったけど、実は師匠は病気にかかっていて、先がそれほど長くなかったの」
「……」
ゼノスは無言で腕を組んだ。
その後ろでアスカは訥々と話しを続ける。
ようやく服を着始めたのか、衣擦れの音がわずかに響いた。
「腕が鈍っているから変だと思って問い質して……その時に聞いたの」
「病気のことを、か」
「うん。それと好きな女の人の話」
「……」
「師匠は私と出会う前に、将来を誓った人がいたけど、自分が病気を患っていることに気づいて、立ち去ることにしたって。ゆっくりだけど確実に進行していく病。だから、その人に迷惑をかけられないって」
その後は、寿命が尽きる日まで人里離れた場所でひっそりと過ごすつもりだったらしい。
だが、次代剣聖となりうる才能を持ったアスカに偶然出会ってしまったことで、余命があるうちに長年磨きあげた技を託したいと思ってしまった。
「待てよ。将来を誓った相手って……」
「クミル族。出会ったのはザグラス地方のクミル族の集落だったって」
「なるほど、【雷神】が集落にいたのは事実だったんだな。じゃあ、やっぱりロアは――」
「似てるの。顔立ちが」
アスカの肯定の言葉で、色々と納得がいった。
「そうか、それで……」
野営地でアスカとロアが決闘した時、ロアが先代剣聖の娘だと言った瞬間、アスカの態度が変わったのを覚えている。
その後、ロアに稽古をつけることにしたのは、師匠の娘だったからだ。
受け継いだものを、アスカは少しだけでも受け渡そうとしていた。
「私の修行も素振りと師匠との立ち合いが主だった。いつも容赦なくやられたけど、段々戦えるようになって……でも、それは師匠が弱ってきたからだと思う」
自分の剣は、剣聖と呼ばれた【雷神】にはきっとまだ及んでいない。
だから、今の自分が剣聖と呼ばれるのが嫌だったという。
過去を思い出すように言って、アスカはしばらく押し黙った。
「ちなみに……【雷神】はロアのことは知っていたのか?」
「私は聞いたことがなかった。多分知らなかったと思う」
ロアが生まれた時には、もう【雷神】は集落を離れていたと聞いた。
野営地でロア自身も言っていた通り、先代剣聖は子供ができていたことに気づいていなかったのだろう。もし、知っていたら状況は変わっていたかもしれない。
「病気の話を聞いて、私は師匠に言ったの。その女の人に会いに行こうって」
「命が尽きる前に、会わせたいってことか」
「それもあるけど……本当は多分、師匠がどんな人に惹かれたのか知りたかった……」
【雷神】は渋ったようだが、弱っていたのをいいことに、アスカが半ば無理やり引っ張る形で、二人はザグラス地方へと向かった。
わずかな沈黙の後、アスカはこう続ける。
「だけど、私達は少し遅かった」