第198話 プロローグ【前】
前回のあらすじ)貧民街に学校を作るため貴族学園の臨時教師になったゼノス。Fクラスの解散も免れ、無事に任期を全うしたが、学園長である七大貴族アルバート・ベイクラッドに目をつけられ―ー
鏡のように磨かれた床に、若い男の美顔が映り込んでいる。
すらりと伸びた背筋。無駄のない優雅な所作。深みのあるダークグレイの髪が、涼しげな瞳の上で揺れている。一流の気品をその身にまとった男の歩く廊下を、壁際に飾られた一級の美術品たちが華やかに彩っている。
精緻な花模様の装飾が施された扉の前に男が立つと、脇に控えた使用人がゆっくりと扉を押し開けた。
「アルバート・ベイクラッド様が到着なされました」
貴族の頂点に君臨する七つの名家が一つ、ベイクラッド家の次期当主は、室内に足を踏み入れると、右手で胸を押さえ、おもむろに頭を下げた。
「遅くなり失礼しました。父に代わって参りました」
遥か頭上にある天窓から、明るい陽射しが室内に降り注いでいる。
白を基調とした部屋中央の円卓には、既に六名の大貴族が腰を下ろしていた。
アルバートが席につくと、向かいの細目の男が咳払いをした。
「ご機嫌よう……と言いたいところだが、七大貴族筆頭とはいえ、あくまで貴公は次期当主。我々を待たせるとはどういう了見かな」
「大変申し訳ありません、ギース卿。直前まで父と押し問答をしていたものですから。体調を崩しているのに行くと言って聞かないもので、なだめるのに随分と手を焼きました」
アルバートが釈明を口にすると、ギース卿と呼ばれた男は再び軽い咳払いをした。
「あぁ、そうでしたな。お父上の具合はいかがかな」
「加齢と過労ですね。長年の重圧がたたったのでしょう」
「加齢と過労か。そうだといいが」
「何がおっしゃりたいのです?」
「なんせ貴公の家は【謀略】のベイクラッド家だ」
ギース卿は体温を感じさせない瞳をアルバートに向けた。
ベイクラッド家の次期当主は朗らかに笑う。
「あはは、買いかぶりです。僕はまだまだ若輩者。父には到底適いませんよ」
「そう願いたいものだな」
静かに応じた後、ギース卿は口の端をわずかに持ち上げた。
「ところで、レーデルシア学園の学園長の仕事はどうかね」
「意義深い仕事ですね。青少年たちと接していると心が洗われます」
「そうかね。わざわざFクラスを作って問題児を隔離したのに、誰一人退学にすることなく、クラスを解散したと聞いたが」
「さすがに耳が早い。集中教育の甲斐があって素晴らしいクラスになってくれました」
「貴公のことだ。てっきり次期階級調整会議に向けてクラスごと退学に追い込むつもりだと思っていたが」
「あはは、ギース卿も人が悪い。 若者の未来を守るのが教育者の役割ですよ」
「面白い冗談だ。貴公は教育者ではない。貴族社会の秩序の調停者だろう」
アルバートは微笑を浮かべて言った。
「ギース卿、我々大貴族は権力を使って影響力を行使します。しかし、世の中には地位も名声もなく、信念と実力のみで影響力を与える者がいるのですよ。ままならない、というのは貴重な経験でした。貴公にも是非体験して欲しいですね」
普段胸の内を見せない若き大貴族のどこか嬉しそうな表情に、ギース卿は細眉をひそめた。
「……何の話だ?」
「ギース卿、それくらいにしておきましょう」
耳触りのいいバリトンボイスが会話に入ってくる。
穏健派として知られるフェンネル卿だ。
愛娘のシャルロッテと、アルバートが許嫁関係にあるという噂が独り歩きしているが、宴席での冗談の一種であり、正式なものではない。そもそも七大貴族同士の結婚は、国家の勢力図を左右しかねず、当事者だけで決定できるものではないのだ。
シャルロッテも本気にしていない様子だが、アルバートの本音を聞いた者はいない。
フェンネル卿は円卓を見回して言った。
「ただでさえ今月は重要な議題があると聞く。我々が一枚岩にならねばなりません、ギース卿」
「……わしは常々そう思っていますよ」
ギース卿は目を閉じ、背もたれに体を預ける。
場が一旦落ち着いたのを見て、部屋の隅に控えていた使用人がおずおずと前に出て来た。
「それではご一同、宜しいでしょうか。今期の七大貴族会議を始めさせて頂きます」
七大貴族会議。
貴族の最高権力者たちの集いであり、国家の方針を議論する場。
フェンネル卿がギース卿とアルバートのやり取りに水を差したのは、この会合での雑談一つが国家の舵取りに影響を与えかねないことを知っているからだ。
「本日はミネルヴァ卿から議題の提案がありました」
指名されたのは、ヴェール付きの帽子を頭に乗せた貴婦人だ。
妖艶な色香をまとった声で、彼女は言った。
「久しぶりに聖女様の予言があったわ。病が近づいている、と」