第190話 教師ゼノス【前】
前回のあらすじ)怪物化したハンクスの手で、ゼノスは食糧庫に取り残されてしまった
その頃、シャルロッテを含むFクラスの生徒四名は、ようやく地上階への階段を昇り切ったところだった。
イリアが恐る恐る背後を振り返る。
「今、獣の鳴き声みたいな音がしませんでした……?」
ライアンも眉をひそめて耳を澄ませた。
「なんか聞こえたな……おいおい、今になって学園七不思議か?」
「とりあえず先にやるべきことをやりましょう」
エレノアが二人を促す。
確か担任は他の教師か近衛師団を呼んで来いと言っていた。
一行はまず近衛師団を呼ぶことにし、校庭へと飛び出す。Dクラス担任のハンクスがこれまでの教師失踪事件を裏で誘導していたのだとしたら、学校関係者よりは別組織の者のほうが信用できるとの判断だ。
近衛師団は外部からの侵入者への警備を担当しているため、詰め所は門のそばにある。
昼休みが終わり、他の教室では午後の授業の真っ最中のようだ。
中天を過ぎた太陽の下、四人は近衛師団の詰め所を目指して校庭を横切ろうとする。
異変が起きたのはその時だ。
耳をつんざくような獣の咆哮が、辺りに響き渡った。
「えっ……?」
一同は立ち止まって振り返る。
今しがた四人が出てきたところ――すなわち校舎一階出口のすぐそばに、何かが立っていた。
手があり、足があり、胴体があり、二足歩行をしているところから人間のように思える。
しかし、全身の筋肉がはちきれんばかりに膨らんでおり、背丈は成人の倍近くはありそうだ。
「な、なにあれ……」
エレノアが絶句したのは、肩や背中から触手のようなものが飛び出しうねうねと動いているからだ。
膨張した胴体の上には頭部が申し訳程度に乗っており、それは綺麗に撫でつけられたブラウンヘアーをしていた。
「ハンクス……?」
ライアンが茫然とその名を呟く。
「ゴルウウウウウッ!」
それはまるで肉食獣のように獰猛な唸り声を上げて、ゆっくりと近づいてきた。
「どうしてあんな……じゃ、じゃあ、ゼノ先生は……」
「……」
青ざめるイリアの横で、シャルロッテはきつく唇を噛みしめる。
「ガアアアアアアっ!」
こちらの姿を認めたのか、ハンクスが突然駆け出してきた。
「なんだあの怪物っ」
「ま、まさか魔獣っ?」
「わ、わかんないよ、そんなの見たことないものっ」
咆哮に驚いた授業中の生徒達が、校舎の窓から次々と顔を出す。
シャルロッテが気づいたように声を上げた。
「駄目よ、戻りなさいっ!」
動くものに反射的に反応しているのか、ハンクスは急に方向転換をして、飛び上がりながら校舎の壁に体当たりをする。
轟音とともに石壁に亀裂が走った。ハンクスの全身から伸びた触手が、窓ガラスを次々と割って這うように校内に侵入していく。
悲鳴、怒号、金切り声。
学園は突如ハチの巣をひっくり返したような騒ぎに包まれる。
異常を察知した近衛師団兵が、呼びに行くまでもなく詰め所から何人も駆け出してきた。
「あれはなんだ?」
警備の専門家も一様に戸惑った表情を浮かべるが、すぐに自らの職務を思い出したのか、隊列を組んだ。
「君達、下がって!」
彼らは素早く魔法銃を構え、一斉に発砲する。
幾つもの弾丸が赤い筋を描いて、校舎の壁にとりついた異形の怪物へと突進した。
三発、四発、五発。魔力のこもった弾がハンクスの胴体に命中し、膨らんだ筋肉を抉る。とりついた壁からずるりと滑り、怪物は地面へと落下。間髪入れずに無数の弾丸がそこに襲い掛かった。
だが――
「ガルルルアアアアアッ!」
弾幕の奥から再び雄たけびが響き、大気がびりびりと振動する。
白煙が晴れると、そこには無傷の怪物がいた。いや、肉片は周囲に飛び散っている。
だから、無傷ではない。
再生しているのだ。
「なんだって……?」
近衛師団の団員達が驚愕の声を上げる。
「ゴアアアアッ!」
大地を蹴って、ハンクスは敵と認識した団員達に突進した。
「き、来たぞっ!」
「応戦しろっ」
咄嗟に接近戦の構えを取る近衛師団だが、膨張した筋肉をまとった拳一つ、蹴り一つが、常軌を逸した破壊力を伴っている。さらには鞭のようにしなる触手の波状攻撃に、団員達はなすすべなく次々と打ち倒されていった。
「おい、逃げるぞっ」
ライアンがイリアの背を押し、エレノアの手首を掴んだ。一目散にその場から離れ、そして気づいた。
「なにやってんだ!」
シャルロッテは一歩も動かず、元の場所に佇んだままだ。
近衛師団は既にほぼ全員が打ち倒されている。
ハンクスと思われる怪物は少しだけ周囲を警戒しているのか、低く唸りながら、ゆっくりとシャルロッテとの距離を詰めている。
ライアンは大声で呼びかけた。
「早く来いっ」
「私は、逃げないわ」
「シャルロッテ様っ」
「しまった。あいつ腰が抜けてんだ」
イリアが悲痛な声で名を呼び、ライアンはクラスメイトの元に駆け出そうとする。
「失敬ね、腰は抜けてないわよっ」
そう言いながらも、シャルロッテの声はかすれ、膝はがたがたと震えている。
それでもその場を動かず、シャルロッテは視線を校舎に向けて言った。
「ここで私達が逃げたら、あの怪物はまた校舎の生徒を襲う。中等部や初等部の教室もあるのよ。私の学園を蹂躙させる訳にはいかないわ」
「お前の学園じゃねえだろ……って、そんなこと言ってる場合か!」
「ここから去るのは私達ではなくあいつでしょ。弱みを見せない。涙を見せない。一流の貴族の背中を見せるのも、私がFクラスに来た理由でもあるのだから」
「だからって――」
「なんとかするって言ってたわ」
シャルロッテの一言に、ライアン、イリア、エレノアは瞬きをする。
「は……?」
「うちの担任よ。こいつは俺がなんとかするからって言ってたでしょ」
「い、いや、言ってたけどよ。なんともならなかったからこうなってんじゃねえのか」
「私の頬の腫瘍を治したわ」
「……は?」
シャルロッテは殺気をまとわせて近づいてくるハンクスを睨んだまま言った。
「イリアが治癒魔法を使えるようになった」
「え……?」
イリアが両手を合わせる。
「沢山の不良からライアンを救った」
「おい……お前」
ライアンが思わず駆け出そうとした足を止める。
「エレノアはもう一度火炎魔法を使えるようになった」
「……」
エレノアが息を呑む。
「なんとかしてきたのよ、あいつはなんとかするのよっ」
シャルロッテは喘ぐように言った。
ハンクスはもう数歩の距離まで近寄っている。全身から伸びた触手が空中で互いに巻き付き、一つに束ねられ、それがゆっくりと振り上げられた。
「しまった」
ライアンが再び駆け出した直後、シャルロッテは虚空に向けて叫んだ。
「この私が見込んだ男なんだから、なんとかしなさいよっ!」
「ガルルルルアアアッ!」
大木のような一撃が頭上から振り下ろされ、シャルロッテは反射的に目を閉じる。
束の間、脳裏をよぎったものはなんだったか。
亡き母のこと。世話焼きの父のこと。初めて舞踏会で踊った日のこと。
そして、風にひるがえる漆黒の外套ーー
「遅くなって悪かったな。なんとかしにきたぞ」
「……え?」
――手術は無事に終わったぞ。よく頑張ったな。
頬の手術の時と同じ優しく穏やかな声が耳に届き、シャルロッテはゆっくりと瞼を開けた。
幻ではない。目の前には確かに担任の黒い外套が風にはためいている。
「お、遅いわよ、私が怪我でもしたらどうするの」
泣きそうになるのをこらえながら、シャルロッテは言った。一流貴族は人前で涙を見せたりしない。
それでも拳をきつく握っておかなければ、涙腺が決壊してしまいそうだ。
「ったく、無茶するな。思った以上に脱出に時間がかかった。でも、とにかく無事でよかった」
「ゼノ先生っ」
「てめえ、無事なら無事って言えよ!」
「生きてた……」
イリア、ライアン、エレノア達もようやくシャルロッテの元へとやってくる。
担任は生徒達を見渡して言った。
「怖い思いをさせて悪かったな。正直、俺はいまだに教師のことはわかってないし、担任の仕事が生徒の挑戦を受けるのか、雑用をやるのか、人生相談に乗るのかも曖昧だが――」
そして、Fクラスを退学に追い込もうとしたハンクスに向き直る。
「少なくともお前が間違っているのはわかるぞ」