第187話 極寒の手術【後】
前回のあらすじ)エレノアの事情が明らかになり、極寒の食糧庫で火傷の手術が行われることになった
「イリア、助手をやってくれるか」
「は、はいっ」
食糧庫内にあった木箱を並べて即席のベッドを作り、エレノアを寝かせる。
向かいに立ったイリアと目を合わせ、横たわった少女に語りかけた。
「右腕を見せてくれ」
「……」
エレノアは若干の逡巡を示しつつ、袖を肩口までまくり上げた。
手首から上腕にかけて広範な火傷痕がある。表皮が剥げ落ちて、赤い皮膚がヒダ状にただれており、一部は黒ずんでいる。
生徒達の息を呑む音が聞こえるが、誰も言葉を発しようとしはしない。
――さて、どうするか……。
腕ごと切り取って再生することもできなくはないが、繊細な魔術を操る魔導士にとって、魔力を放つ腕は非常に重要だ。血管や神経の走行が少し異なるだけで、感覚が変わり魔力の伝導にも影響する。特にこれだけ寒い状況だと細胞の回復機能も限定されるだろう。
であれば傷は極力小さくし、再生する範囲を最小限にしなければならない。
「《執刀》」
白く発光する魔力の刃物を手に、ゼノスは言った。
「エレノア。準備はいいか」
「だ、大丈夫」
エレノアはそう答えるも、唇が青く変色しているのは、寒さだけのせいではないだろう。
いつも使う眠り薬は持参していなかったので、手術は覚醒状態で行うことになる。
魔法で痛みは感じさせないつもりだが、十代の少女には恐怖感が大きいだろう。
ゼノスは後ろで心配そうな顔をしている大柄な男子生徒に言った。
「ライアン、エレノアの左手を握っておいてくれ」
「はっ? な、なんで俺がっ」
「クラスメイトだろ? イリアには手術を手伝ってもらうし、急に動いた時に押さえてもらうためにも力のあるお前がいい」
「……」
ライアンは口をもごもごと動かした後、エレノアのそばにやってきた。
「し、仕方ねーな。エレノア、握るぞ」
「…………ん」
エレノアはそっぽを向いたまま左手を差し出す。ライアンがその手を取った。
この冷気にかかわらず、心なしか両者の頬が少し赤くなっている気がする。
「どうしたんだ、イリア。なんかにやにやしてないか」
「あ、いえっ、そんなことありません」
「……ま、いいや。じゃあ今度こそ始めるぞ。《治癒》!」
エレノアの右腕全体が白い光に包まれる。
ゼノスは一度深呼吸をして、メスの刃先を火傷と正常皮膚の境界に当てた。
火傷の深さを確認しながら、表皮、その下の真皮と肌を切り開いていく。
傷口を素早く防護魔法で保護して、疼痛と出血、感染リスクを最小限に抑える。
そして、すぐに回復魔法に切り替え、削った皮膚の部分を再生していく。
白色光がきらきらと瞬きながら辺りを舞い、皆の吐く白い息と合わさって幻想的な光景が室内に広がっていた。
「すごい……」
向かいで微小な出血をハンカチで拭き取っているイリアが小さく呟いた。
だが――
「まいったな……」
ゼノスは一度手を止め、右腕をぐるぐると回した。
一旦メスを消し、指を何度も開閉する。
時間とともにメスさばきが鈍っていくのを感じる。これまで様々な治療をしてきたが、さすがにこれほど寒い空間で手術をしたことはなかった。指先がかじかんで思ったように動かない。
「ゼノ先生」
すると、目の前のイリアが、緊張した面持ちで言った。
「よ……よかったら、手を握りましょうか」
「ん?」
「あ、いえっ、変な意味ではなく。温めたほうがいいのではないかと。助手として何かお手伝いができれば……」
「ああ、なるほど。できるなら助かるが」
イリアはよく見ている。治癒師としては必要な能力だ。
右手を前に出すと、イリアは恐る恐るその手を取った。
「これが……治癒師の手」
「何言ってるんだ?」
「あ、す、すいません。なんだか感動して」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、イリア。わ、私も――」
なぜか慌てた様子のシャルロッテが、残った左手のほうをぐいと掴んできた。
ひんやりとした冷たい感触が指先に絡まる。シャルロッテは顔を反対側に向けて言った。
「か、感謝しなさい。この私に触れることができるなんて、本来は百回生まれ変わっても起きえないことなのよ」
「ああ、感謝するよ……って、なんでまたにやついてるんだ、イリア?」
「い、いえ、なんでもありませんっ」
今、患者であるエレノアの手をライアンが握り、術者である自分の両手を二人の女生徒が握っている。傍から見ると、訳のわからない状況だ。
しかし、おかげで指先に少し熱が戻ってきた。
「ありがとう、二人とも。なんとかいけそうだ、中断して悪かったな。エレノア」
二人が手を離すと、ゼノスはもう一度両手の指を何度も開閉した。
深呼吸をして、再び患者に向かい合う。
生徒のおかげか、その後は手術へ没頭できた。
指先と傷跡のみに意識を集中し、いつしか寒さすら忘れていく。
治癒魔法と、組織保護のための防護魔法。
白と緑の光が折り重なって明滅し、空間を鮮やかに彩った。
誰も言葉を発さない。瞼を閉じて耐えているエレノア以外は、およそこの世のものとは思えないゼノスの絶技に目を奪われているのだが、誰かが声を上げたとしても気づかないほどにゼノスの意識は火傷に没頭していた。
末梢神経の一本、毛細血管の一本にまで気を配り、あるべき姿へと近づけていく。
そうして――
手術は、無事に終わった。
「嘘……信じられない」
すっかり綺麗になった右腕を見て、エレノアは茫然と呟いた。
ゼノスは首と腕をまわしながら、笑って言った。
「こんな状況でよく頑張ったな。動かないでいてくれたから予想より速く終わったよ」
「あの、先生……私は、あの」
エレノアは再生した腕を左手で押さえたまま、ゼノスを見て言葉を詰まらせる。
ライアンがにやりと笑った後、エレノアの肩を軽く叩いた。
「悪いが感動に浸ってる暇はねえぞ。お前にはまだ大事な目標が残ってんだろ」
「……」
エレノアはライアンを見つめると、唇を引き結んでゆっくりと頷く。
「……やるわ」
エレノアは簡易ベッドの上で起き上がり、床に降り立った。
心臓がうるさいほどに音を立てているのがわかる。
火炎魔法。
フレイザード家の当主たる者の資格。
腕は違和感なく再生しているが、不安はあった。もう何年も魔法を使っていないのだ。
暴発の記憶が脳裏をよぎり、全身がわかりやすく震え始める。
もしこれでも魔法が使えなかったら――
その鼓膜を担任の穏やかな声が揺らした。
「大丈夫だ。魔法の出力はできなくても、魔力を錬成する練習はずっとしていたんだろ」
エレノアは赤い瞳をわずかに見開く。
「ど、どうしてそれを」
「朝の裏庭で会った時、魔素の乱れを感じたって言っただろ。体内の魔力に魔素が共鳴した証拠だ。そこまでできれば後は放出するだけだ」
クラスメイト達も後に続く。
「ま、お前ならなんとかなるだろ」と、敢えて明るく言うライアン。
「エレノアさん、きっといけます」と、両手の拳を握ってみせるイリア。
「よくわかんないけど、考えすぎなんじゃないの?」と、面倒臭そうに言うシャルロッテ。
「ぷっ」
エレノアは思わず噴き出した。ライアンが不満げに眉根を寄せる。
「おい、せっかく励ましてやってんだろ。なんで笑うんだよ」
「いや、だって、落ち着いた顔してるけど、みんな唇が紫色なんだもの」
なんだか、いい人達だなと思った。
今にも凍えそうな状況で、火炎魔法を待ちわびているはずなのに、誰も無理に急かしてきたりはしない。
魔法が使えなくなってから、ずっと居場所を失ったように感じていたけれど、殻を作って閉じこもったのは自分のほうだったのかもしれない。
エレノアはおもむろに両手を上に掲げた。
目をゆっくりと閉じ、精神を集中させる。
今胸の中に芽生えた温かな気持ちを、焚火を大きくするように少しずつ膨らませていく。
微熱を帯びた魔力が、完璧に再現された腕の、神経や血管を巡って手の平に集まっていった。
そして――
「《火炎輪》!」
これまでの鬱屈した思いを全て吐き出すように、エレノアは詠唱を口にする。
直後、深紅の光が両手の先で渦を巻き、それは赤々と燃える炎へと変幻した。
火球は一つ、二つ、と数を増やし、空中でゆっくりと円を描く。
「で、できた……?」
エレノアは燃え上がる炎を、信じられない思いで見つめる。
「できた……できた……できた、んだっ……」
その両の瞳から、とめどなく涙が零れて床へと落ちた。
冷気舞う白銀の食糧庫に、温かな暖色の空間が誕生する。
「おお、あったけえっ」
「い、生き返ります……」
「ま、なかなかやるじゃない」
それぞれに感想を言うクラスメイト達を眺めた後、エレノアは頬を拭って担任に頭を下げた。
「あの……私、これまで……その、ご、ごめんなさい」
「謝られるほど迷惑かけられた記憶はないが――」
担任はぽりぽりと頭を掻いた後、少し笑って軽く右手を上げる。
「人生相談に応えられたならよかったよ」
ライアンとイリアも釣られるように右手を掲げた。
シャルロッテは周りを見た後「どういう儀式よ、これ」とほんのわずかに手を挙げる。
エレノアは彼らと控えめにハイタッチをかわした。
どの手も氷のように冷たい。
だけど、それは殻に閉じこもっていた時に、形だけ差し伸べられたどんな手よりも、温かく感じられた。