第183話 エレノアの事情
前回のあらすじ)エレノアは音楽室で浮遊体にひどい目にあわされた
「最悪……」
翌日の休み時間。エレノアは一人机で頭を抱えていた。
結局、学校側は幽霊の話を信じてくれず、最終的には、音楽室で気分転換にピアノを弾こうと思ったが、暑さで朦朧となり幻覚を見たのだろうという話に落ち着いた。
服を脱いだのも熱気で頭がおかしくなっていたということで一応説明はついたが、教師を罠に嵌めるはずが、自らの半裸を大衆の目に晒すだけの結果になってしまった。
顔を上げると、斜め前の席のライアンと目が合う。
「なんつうか……大変だったな」
「う、うるさいっ」
「おい、エレノアっ」
呼び止める声を無視して廊下にとび出る。
事件のことは噂で伝わっているようで、教室にいづらい。
それでもあの家にいるよりはましだ。
「……」
両親との関係も、親戚との関係も、学校生活も、何もかもがうまくいかない。
今はクズ扱いしてくる担任を追い出した時だけが、達成感を得られる数少ない機会になっている。
だが、痴漢に仕立てる手段は失敗したし、あんなことがあった以上は同じ手は使えない。
廊下をとぼとぼ歩いていたら、後ろから声をかけられる。
「おぉ、エレノアじゃないか」
「……ああ」
振り返ったエレノアの目に映ったのは、ブラウンヘアーの爽やかな笑顔の男だ。
Dクラスの教師ハンクス。
もともとエレノアはDクラスに所属していた。その時の担任でもある。
ハンクスは両手に荷物を抱えたまま、穏やかに言う。
「話すのは久しぶりだな。Fクラス行きを止められなくて悪かった」
「別に……」
顔をそむけるエレノアに、ハンクスは続けて尋ねる。
「それで元気にしてるか?」
「元気にしてると思う?」
「ああ、そうだな。まあ、無事が一番だよ。ゼノ先生に聞いたけど、熱中症は意外と怖い病気らしいから」
音楽室の噂はやはり伝わっているらしい。
しかし、ハンクスに変にフォローするような態度は見られない。
この学園では、貴族出身ではない教師は生徒に舐められる傾向があるが、ハンクスは言うべきことは言うが余計なことは口にせず、親しげではあるが必要以上には距離を詰めてこない。一方でここぞという時には生徒の話を聞いて味方をしてくれるため、比較的多くの生徒に信頼されていた。
「……何やってんの」
エレノアは、ハンクスの抱えた大きな箱を見て言った。
「ああ、雑用だよ。備品や食料の手配や在庫管理をやらされてるんだ。ビルセン教頭は市民出身の教師に厳しいからなぁ」
わざとらしく渋面を作った後、ハンクスはやれやれと肩をすくめる。
「さっきも地下の食糧庫に行った時に扉が閉まりかけて、危うく閉じ込められるところだった。建て付けが悪くなってるんだ。中からドアを開ける装置も壊れてるし、危ないところだったよ。もしかしたら教頭の陰謀かもな」
「あ、そう」
「相変わらず反応が薄いな」
ハンクスは苦笑して、抱えた箱をよいせと持ち直した。
「ま、雑用の多さで言えば、そっちのゼノ先生に比べたら大したことはないけどな。体を壊さないように気を使ってやってくれ。じゃあな」
箱を重そうに抱えて廊下を行くハンクスの背を、エレノアは黙って見つめる。
そして、ふと気づいたように呟いた。
「教頭の、陰謀……」
思いついた。
担任を思いきり怖がらせ、追い出せるかもしれない方法を。
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計画の詳細を頭の中で詰めながら、エレノアは貴族の邸宅が並ぶ通りをゆっくり歩く。
敢えて徒歩を選んでいるのは、馬車に乗るとすぐに家についてしまうからだ。
「エレノアお姉様」
ふいに名を呼ばれ、顔を横に向ける。
ベレー帽を被ったエレノアより少し背の低い少女が、塀に背を預けて立っていた。
レーデルシア学園の中等部に通う一つ年下の従妹、ミリーナだ。
「なに?」
エレノアは抑揚のない声で言った。昔はよく一緒に遊んでいたが、中等部の途中から疎遠になっていた。
従妹のミリーナはくすくすと笑う。
「久しぶりにお顔を見ようと屋敷に伺ったのですが、いらっしゃらなかったので。まさか歩いて通っているとは思っていませんでした。まるで庶民のようなことをなさるんですね」
「それで……何の用?」
冷たく返すと、ミリーナは口元に手を当てて言った。
「やだ怖い。そろそろお姉様の十六歳のお誕生日でしょう。お祝いを言いに来たのですわ」
誕生日、という単語で胸の奥に鈍い痛みが走る。
「嫌味のつもり?」
じろりと睨むと、従妹は笑った顔のまま首を横に振った。
「いいえ、心からの祝福ですわ。ようやく嫌いなおうちから離れられるじゃありませんか」
「……」
壁から背を離し、ミリーナはゆっくりと近づいてきた。
「私たちフレイザード家は、もともと火炎魔導士の家系。代々の当主は直系の長子が選ばれることになっていますが、当主になるには血筋以外にもう一つ条件がある」
従妹は人差し指を立て、唇を小さく開いた。
「《火炎輪》」
ぼぅと淡い炎が空中に浮かびあがり、従妹の指先のまわりで円を描く。
「……っ!」
エレノアが目を見開くと、従妹は炎を見せつけるように指を掲げた。
「それは十六歳の誕生日の儀式で火炎魔法を使うこと。もし、直系の長子が火炎魔法を使えない場合、分家の中で火炎魔法が使える年長の者が次の当主になるというルールがあります。つまり、私ですわ」
「いつの、間に」
「エレノアお姉様は子供の頃から息を吸うように火炎魔法を操っていました。私は正直絶望していましたわ。このまま一生分家の身分なんだって。お姉様は知らないと思いますけど、本家と分家の扱いの差はすごいんですよ? だけど、お姉様がある日急に魔法が使えなくなって、チャンスだと思いました。幸い少し魔力はありましたから、特訓したんですわ、死に物ぐるいで。この私が」
「……」
指先の炎を消すと、ミリーナはエレノアの脇を通り過ぎながら、囁くように言った。
「魔法が使えなくなった上に、Fクラスなんて聞いたこともないクラスに入れられるなんて可哀そう。音楽室では醜態を晒したんですって? もし素行不良で退学にでもなれば、もうお姉様の居場所はどこにもなくなりますね」
「そんなことは――」
「それではご機嫌よう。フレイザード本家は私に任せてください」
「……」
夕闇に消えゆく従妹の背中に、エレノアは手の平を向ける。
精神を集中し、呼吸を整えて。魔力を種火のようにして、ゆっくりと燃え上がらせ――
「……」
エレノアは首を振って、無言で右手を下ろした。
額には汗がびっしりと浮いている。
ルールは知っていた。
誕生日まで時間がないことも知っていた。
でも、きっとそのうち火炎魔法が使えるようになる、そう思っていた。
だけど、そうじゃなかった。
当主の座にそれほどこだわりはないが、魔法が使えなくなった後の両親の落胆した顔が今も忘れられないでいる。まるで腫れ物を触るような扱いへと変わり、それが嫌であまり顔を合わせなくなった。これ以上落胆させるのは嫌だった。
Fクラスは期間限定のクラスだ。あと少しで終わりだが、今の担任が最後の最後で落第点を連発してこないとも限らない。教師なんてそんなものだ。
従妹の言う通り、音楽室で半裸になった件は学園の求める生徒像には反している。
担任がその気になれば、あれに大量の落第点をつけることだって可能なのだ。
「やられる前に、やってやる……」
エレノアは静かにつぶやいて、拳をぎゅっと握った。