第181話 朝の裏庭にて
前回のあらすじ)Fクラスのエレノアはどうにかゼノスを追い出そうと画策を始めていた
夏とはいえ、朝の空気はひんやりとして涼やかだ。
うっすらと靄のかかる校舎の裏庭で、深紅の髪色の少女がベンチに腰を下ろしていた。
エレノアはこの時間帯が好きだった。
まだ世界が目を覚ます前。日常のわずらわしさに振り回されることもなければ、夜のような孤独を覚えることもない。この時間の学校は、少なくとも家よりはずっと居心地のいい環境だ。
以前はクラスメイトのライアンと時々ここで鉢あうこともあった。さして会話が弾む訳ではないが、なんとなく他に居場所がない者同士の連帯感を覚えてはいた。
ただ、一年ほど前から、ライアンの姿は見なくなった。
気づいたら随分と荒れ、誰にでも突っかかるようになり、そして、最近急に大人しくなった。
「……」
無言で足を組んだエレノアは、そこでふと気づく。
校舎の壁に妙な落書きが描かれているのだ。
「なに、これ?」
落書きは黒い服を着た長い髪の女で、その隣に黒い服を着た黒髪の男がいる。
そして、女はなぜか男の頭にチョップをしており、勝ち誇ったような顔をしている。
何を表現したいのかさっぱり分からない。
「下手くそな絵……」
一体誰が描いたのだろう。初等部の悪ガキが忍び込んだのだろうか。
エレノアはベンチに腰を下ろしたまま、右手をゆっくりと持ち上げる。
あの落書きは、静謐な朝の雰囲気に似つかわしくない。
手の平を壁の絵に向け、薄く目を閉じる。
体内を巡る魔力の波動を感じ、その規則的な律動に呼吸を徐々に同調させていく。器に水が注がれていくように、魔力が少しずつ溢れ出していく感覚。血を巡らせるように、それを手の平へと集めていく。
「……っ!」
エレノアは突如目を開け、荒く息を吐いた。
脳裏によぎる記憶。痛み。しびれ。体の中の魔力が乱れ、心臓が脈打っている。
何度か深呼吸をした後、ようやく立ち上がって、落書きのそばに行った。そばの流しでハンカチを濡らすと、下手くそな落書きをごしごしと拭いて消す。
「何やってるんだ、エレノア」
「っ!」
振り返ると、そこには担任の姿があった。
なぜか手に箒を持った治癒魔法学の教師は、どこか嬉しそうに言った。
「壁を綺麗にしてくれたのか、ありがとう。助かるよ」
「……助かる?」
「教頭に裏庭の掃除を押し付けられてるんだ。これだけ広いから、朝からやらないと終わらないんだよ。壁まではなかなか手がまわらないからな」
「別に……下手な落書きがあったから消しただけ」
すると、担任は急に真顔になった。
「壁に落書き……? あいつ、ひっそりやりやがった……!」
「は? どういうこと?」
「いや……なんでもない。こっちの話だ。それ何度消しても出てくるかもしれないが、できれば明日もめげずに消してくれ」
何が言いたいのかよくわからないが、貴重な朝の一人時間が終わったことはわかった。
無言でその場を立ち去ろうとしたら、背中から声をかけられる。
「エレノア。いつも長袖着てるけど、暑くないのか」
「冬服のほうがデザインが好きなの。問題ある?」
「別にいいけど。あと、お前魔法を使ったか?」
「……っ」
エレノアは足を止めて振り返った。努めて冷静な口調で答える。
「使ってない」
「そうか、ちょっとこの辺りの魔素が乱れてる気がしたからな」
エレノアは拳を握り、担任をにらみつける。
「使ってないって言ったでしょ。私は魔法使えないから」
「そうなのか……?」
きょとんとした顔の担任に背を向け、今度は振り返らずにその場を立ち去る。
焦燥が胸の中で渦を巻いていた。
朝が来て、昼が来て、夜になり、季節は確実に巡っていく。
もう誕生日まで時間がない。このままでは――
十分に離れた場所でエレノアはふいに立ち止まった。首を後ろに巡らせると、木々の隙間から物凄い速度で裏庭を箒で掃く担任の姿が見える。なぜかうちの使用人よりも動きが玄人じみている。
だが、所詮は教師。
仮面を被るのがうまいだけで、今までの担任と同じように、落第点をつけるために小さな粗を見つけ出そうと躍起になっているに違いない。教師なんてそもそもが信用できないのだ。
「どうすれば……」
教室に入った後も、エレノアは一人思い悩んでいた。
Fクラスのメンバーは多かれ少なかれ、教師から不当な扱いを受けてきている。
表立って反発していたのがライアンだったが、そのライアンが態度を変えたこと、Aクラスのシャルロッテとある種不遇の象徴でもあった市民上がりのイリアが担任に懐いていることで、クラスに醸成されてきた教師への反発心が薄れ始めているのを感じる。ゼノという担任はどうせ任期終了も近いが、最後に妙な行動をしないとも限らない。
――私がどうにかしないと。
焦りとともに使命感のような思いが沸き上がる。
ただ、これまでも小さな嫌がらせを仕込んできたが、あの担任は敏感なのか、逆に鈍感なのか、さっぱり堪える様子がない。一体、どんな過去を持っているのか訝しんでしまうほどだ。
考えながら何気なく机の下に手を入れると、指先がふと何かに触れた。
引き出してみると、それは新聞だった。生徒の中には新聞を購読している者がいて、朝のうちに机に配達されるのだ。間違って入れられたのだろう。
嘆息して取り出そうとした時、ふと目に飛び込んできた記事があった。
それは街区にある学校の教師が、女子更衣室に侵入して処分されたという内容だ。
紙面をじっと見つめたエレノアは、やがて口の端のわずかに引き上げた。
「……使えるわ」
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「おかえり。手紙が来てたよ」
放課後、寮の部屋に帰ると、リリが封筒を手渡してきた。
「ゼノ先生に、お手紙ですか?」
「まさか恋文じゃないでしょうね」
「ほう、どれどれ」
「こら、お前ら、当たり前のように覗くな」
いつもの三人を押しのけて、ゼノスは手紙に目を通す。
文面は明日の放課後、人生相談があるので音楽室に来て欲しいというものだった。
差出人名は書かれていない。
「人生相談……?」
ゼノスは手紙を手にしながらつぶやく。
「先生は生徒の人生相談にも乗るのか?」
イリアが大きく頷いた。
「はい。この学園は少し特殊だと思いますが、街区の学校では生徒の進路相談に乗ったり、家庭の悩みを聞いてくれたりすることもあります」
「人生相談という名目で告白でもするつもりじゃないでしょうね。見に行こうかしら」
「だ、駄目ですよ、シャルロッテ様。個人的な相談かもしれないですし」
「わかってるわよ。冗談に決まってるわ。この私がそんなはしたない真似をする訳ないでしょう」
二人のやり取りを耳にしながらぼんやり思う。
師匠からは確かに治癒魔法も教わったが、生き方に関しても多くのことを学んだ。
教育とはそういう側面もあるのかもしれない。
「人生相談、か」
学園に来て一か月と半分が過ぎた。
自分も遂に人生相談をされるような立場になったと思うと、少し感慨深い。
もう一度文面を眺めていると、無人の空間からぼそりと声がした。
「音楽室、のぅ」