第179話 不良市民の災難【後】
前回のあらすじ)不良にとらわれたライアンを、育ちの悪い男が助けにきた
――こいつ、何を考えてんだ。
不良市民の巣窟となっている旧遊技場に、たった一人で乗り込んできた担任教師を、ライアンは椅子に縛られたまま茫然と見つめる。
あまりにも無謀で、あまりにも考えなしだ。
治癒魔法学の教師の割には多少身のこなしに自信があるのかもしれないが、グルド達はそんな甘い奴らじゃない。狼の群れに兎が一匹で飛び込むようなものだ。
状況がわかっていないのか、担任はのんきな声色でグルドに語り掛けた。
「なあ、お互い疲れるし、無闇に争う必要はないだろ。ライアンを返してくれれば大人しく帰るぞ」
「……馬鹿が、やっちまえ!」
グルドの号令で、不良達が一斉に襲い掛かった。
案の定、担任はもみくちゃにされ、あっという間に暴力の渦に飲み込まれてしまう。
「あんた、どうして来たっ」
ライアンは大声で叫んだ。こうなることはわかっていたはずだ。それなのに――
思わず歯噛みした瞬間、不良達の数人が呻いて崩れ落ちた。
「え……?」
その奥で、涼しい顔の担任が呆れた顔で言った。
「あのな、仕事だから来たんだよ。まだ教師をクビになる訳にはいかないからな。本来俺は後衛タイプでこういうのは好きじゃないっていうのに」
その拳にはうっすらと青い光がまとわりついている。
すぐに不良達が飛び掛かるが、担任はそいつらをたった一撃でのしていく。
強い。
しかし、それでも百人以上を相手に持つはずがない。
「もう俺のことはほっとけよっ。どうせ生まれた時からろくな人生じゃねえんだっ」
「ろくな人生じゃない……?」
思いのたけを吐き出すと、担任の肩がぴくっと揺れた。
襲い掛かった三人を即座に殴り倒した後、教師は言った。
「ライアン。お前、自分の誕生日を知ってるか?」
「は? あ、当たり前だろ?」
「うおりゃあっ」
「邪魔」
後ろから角材で殴りかかってきた男を肘打ちで悶絶させ、担任はゆっくりと近づいてくる。
その進行を止めようと次々と不良達が襲い掛かるが、彼らはただ順番に悲鳴と呻き声を響かせるだけだ。
「飯は何日に一回出てくる?」
「ま、毎日だろ、普通」
「風呂は一年に何回入ってるんだ?」
「なんで年単位で聞くんだよ、毎日入らねえと汚えだろ」
「寝室は狭い石牢で、紙みたいな毛布を分け合って二十人くらいで寝るんだよな?」
「そんな訳ねえだろ、どこの話だよ」
「そうか……」
短く溜め息をついた担任に、これまでの雑魚とは明らかに違う屈強な体つきの五人が立ちはだかる。不良チームの幹部達だ。
同時に床を蹴って襲い掛かる男達をちら見すると、治癒魔法学の教師は拳をわずかに引いて言い放った。
「十分、ろくな人生じゃねええかぁぁぁっ!」
「ごへえええっ!」
とんでもない速さで突き出された拳に、立ち塞がった幹部五人が次々と吹き飛んだ。
床で悶絶する男達を見下ろした後、担任はじろりとこっちを睨む。
「そもそも貴族に生まれてろくな人生じゃないとか、お前は人生を舐めてるのか」
「え、あ、う……」
奇妙な迫力に、うまく言葉が出せない。隣で引きつった声を上げているはグルドだ。
「なんなんだ……てめえはなんなんだよっ」
「しがない治癒魔法学の教師だよ」
「お、おい、動くなっ。それ以上近づくと、こいつの命はねえぞ」
グルドは額に汗を浮かべ、ナイフの刃先をライアンの首筋に当てた。
「坊ちゃん学校の教師の分際でてめえは調子に乗りすぎた。俺はまじでやるぜ」
「好きにしろ」
しかし、脅し文句を意にも介さず、担任は平然と足を進めてくる。
「おい、俺はやるって言っただろうが。後悔しても遅えぞっ!」
グルドが声を荒げ、首筋の冷たい感触が圧を増した。
思わず観念したが、グルドのナイフは薄皮一枚傷つけることなく止まっている。
「な、ど、どうなってやがるっ?」
「無駄だよ。防護魔法をかけてるからな」
一歩、二歩、三歩。
担任は淡々と距離を詰めてきた。
「なんとなくわかったよ、ライアン。要はそいつらを仲間だと思ってたけど、そうじゃなかったってことだろ? ぶっちゃけ三食風呂付きの生活を送ってる時点で、お前が何に悲観してるかよくわからなかったが……」
「う、うああああああああっ!」
ナイフを手に襲い掛かるグルド。突き出された刃先を軽々とかわすと、担任はグルドの腹部に拳を叩き込んだ。
「仲間に裏切られた苦痛だけは共感するぞっ!」
「ぼぐああぁぁっ!」
吐しゃ物を盛大にまき散らし、膝から崩れ落ちるグルドの横を、担任は悠然と通り過ぎる。
「ま……でも気にするな。生きていればそんなこともある」
「あ、あんた一体……」
ライアンが唇を震わせると、グルドが小さく呻いた。
「ま、待てよ……」
担任がふと足を止める。
グルドは息も絶え絶えになりながらも、床に座り込んだまま、腹を押さえて言った。
「俺に……こんな真似をして、ただで済むと、思ってんのか……」
「少しは悪いと思ってるよ。そもそも俺だってこんな真似をしたくはないんだ。生徒をさっさと返してくれれば大人しく帰るって言っただろ」
「ぐはは……お前は、終わりだよ」
「……どういうことだ?」
「聞いて驚くなよ。俺のバックには地下ギルドに出入りしていたお方もいるんだぜ」
グルドは嗜虐的な笑みを浮かべる。
地下ギルドと言えば、魑魅魍魎渦巻く貧民街の奥にあるという伝説的な悪の巣窟だ。まさかグルドが地下ギルドに繋がっていたとは。身体の芯が冷えるのを感じながら担任に目をやると、相変わらず平然とした様子で首を傾げていた。
「地下ギルド?」
そして、むしろ申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ああ……悪いが、あそこは俺の友達が無茶やったせいで、ほとんど機能停止してるぞ」
「は? ば、馬鹿言ってんじゃねえ」
「いや、まあ形を変えて幾つかの派閥は残ってるって噂は聞くか……」
担任は憎悪を剥き出しにするグルドに淡々と言った。
「ま、いいや。もし【獣王】に会ったら、闇ヒーラーが宜しく言ってたと伝えておいてくれ。しばらくご無沙汰してるからな」
「え、あ……は?」
ぽかんと口を開けたのはグルドだ。
「あの……【獣王】って、まさか……え?」
「聞いたことくらいはあるだろ? 地下ギルド大幹部の【獣王】だよ。そういえば最近は人助けの仕事もしてるらしいから、もし俺も会うことがあったら紹介してやろうか。お前達の根性を叩き直してくれると思うぞ」
「え、あ、あの……」
倒れ伏した不良仲間達をゆっくりと見渡した後、グルドは額を床にこすりつけて大声で言った。
「す、すいませんでしたぁぁぁぁぁっ! もう二度と近づきませんっ! チームも解散して、明日から真面目に働きますぅぅっ! だから、命だけはぁぁぁっ!」
グルドは顔面蒼白のまま腹を押さえ、足をもつれさせながら旧遊技場を逃げ出していく。
ようやく身を起こし始めた取り巻き達も次々と命乞いをした後、ふらついた足で必死にグルドの後を追っていった。
後には治癒魔法学の教師と、椅子に縛られたライアンだけが、ぽつんと残される。
担任は腰を曲げて、床に落ちたグルドのナイフを拾い上げた。
「あ……あんたは一体」
「ま、お前にも色々あるんだろうが、色々あるのはお前だけじゃないってことだ」
そのナイフで縄を切られ、ようやく身体の自由が戻ってくる。
だが、心のほうはいまだ重苦しく沈んでいた。
誰もいなくなった遊技場をぼんやり眺めていると、肩を担任に叩かれた。
「ま、心配するな。俺の経験上、腐らずやっていけば、そのうちいい仲間ができるよ」
「経験上って、あんた……まじで何者なんだよ」
「しがない治癒魔法教師って言っただろ。表向きはな」
「表向き……?」
担任はふいに目を細め、ライアンの顔をじろじろと見つめる。
「瞼も腫れて唇も切れてるな。随分とやられたな。じゃ、これから裏の仕事の時間だ」
「裏の仕事……?」
「そんな顔で家に帰ると大変だろ? 俺が綺麗に治してやるよ。対価は一千万ウェンでどうだ?」
「な、なんだって?」
ライアンはぎりと奥歯を噛んで、拳を握りしめた。
「……結局、お前も俺の金が目的かよ」
担任は呆れ顔で溜め息をつく。
「当たり前だろ。俺は慈善事業家じゃないんだ。労力を考えろ。顔の治療だけじゃない。これだけのならず者を片付けて、お前の命まで救ったんだぞ。むしろ、安いくらいだ」
「そ、それは……」
「待って下さい、ゼノ先生っ」
遊技場の入り口から声がして、誰かが走ってくる。フロアの薄明かりの下に現れたのは、Fクラスのイリア、そして、七大貴族の娘のシャルロッテだ。
「お、お前ら……なんで?」
驚いて目を丸くすると、担任がやれやれと肩をすくめた。
「心配だったらしい。ついてくるって聞かなくてな」
「私はなんとなくついてきただけだけど」
「そこは心配だったって言おうな、シャルロッテ?」
担任とシャルロッテがやり合う横で、イリアがずいと進み出る。
「あの、私がライアン君の傷を治します」
「……イリ、ア」
「からかわれてる時、ライアン君に何度か助けてもらったから。お礼ちゃんと言えてなくて、ごめんなさい」
「……」
イリアが手を前にかざすと、担任はわずかに口の端を持ち上げて言った。
「そうか……残念だな。せっかく大金をせしめるチャンスだったのに」
イリアの詠唱とともに、怪我をした箇所が温かい光に癒されていく。
傷だけではなく、不思議と胸の奥にもほのかな熱を感じた。
担任はがらんとした遊技場を見渡し、腰に手を当てる。
「こんな場所に仲間を求めなくても、お前にはもう仲間がいるんじゃないか。明日は登校しろよ。お前の居場所にな」
「……」
ライアンは大きく目を見開き、やがて無言でうつむく。
その前に、突如甘い香りのする黒っぽい物体がずいと差し出された。顔を上げると、シャルロッテがドヤ顔でライアンを見下ろしている。
「な、なんだよ、これ?」
「仕方ないから、あなたにも上げるわ。なんだか惨めだし。この高級クッキーをありがたく食べなさい」
「い、いや、状況考えろよ。なんで今ここでクッキー食わなきゃいけないんだよ」
「はぁ? 私の施しを断るっていうの? これなかなか手に入らないのよ」
「そういう問題じゃねえだろ」
シャルロッテと押し問答をしている様を、担任とイリアが苦笑しながら眺めている。
結局、圧に負けて一口含むと、確かに品のいい甘みと、ふんわりした芳醇な香りが舌の上に広がった。
シャルロッテは腕を組んで、得意げに言った。
「落ち込んでる時は美味しいものを食べるのよ。いいものを食べればつまんないことは忘れるわ」
「……つまんないこと……か……」
ライアンはそう呟くと、下を向いて残りのクッキーをぼりぼりと貪った。
「どう、美味しいでしょ?」
「……しょっぺえよ、馬鹿」
そう答える頬には、一筋の雫がきらりと輝いていた。