第178話 不良市民の災難【中】
前回のあらすじ)ライアンとつるんでいた不良市民がゼノスに絡んできたが、近衛師団を呼ばれて慌てて退散することになった
その日の夜も、ライアンの姿は繁華街の遊技場にあった。
一晩中やむことのない喧噪に身を委ねながら、ぼんやりと考える。
子供の頃から優秀な兄と比較され、落胆され、諦められる日々。
誘われるように立ち寄ったこの場所に通い始めてもうすぐ一年になる。
ここには親も兄もおらず、代わりに仲間がいる。
家に居場所のない自分にとっては、唯一心が休まる場所だ。
勿論、家だけではなく、学校にだって居場所はなかった。特にFクラスになってから現れる教師が、まるで父親と同じような目で自分を見るのが気に食わない。
ゼノという五人目の担任も今までと同じように少し怖がらしてやろうと思ったが、ひらひらとかわされて全く手ごたえがない。
腹立ちまぎれに、仲間のグルドの誘いに乗って、昔の制服と特区への一日通行許可証を準備してやったが、グルドはやりすぎるところがあるのが今になって少し気になっていた。
グラスを手に店内を見まわしたところ、取り巻きを引き連れたグルドの姿を見つけた。
「よぅ、グルド。どうだったんだよ」
「……」
グルドは何も答えず、ゆっくりと近づいてくる。
その暗い瞳にわずかに寒気を覚えた。
「どうだったのか聞いてるだろ」
もう一度尋ねると、グルドはライアンの向かいに腰を下ろして静かに言った。
「俺ぁ……完全に切れたぜ」
「どういうことだ?」
「軽く痛めつけるだけのつもりだったが、気が変わった。坊っちゃん学校の教師ごときが、この俺をコケにしやがって」
ライアンはグルドとその取り巻きを眺め、軽く息を吐く。
「まさか、失敗したのか? はっ、だから言っただろ。あいつは妙に素早いから――」
最後まで言うことはできなかった。グルドが懐から取り出したナイフを目の前に突き付けてきたからだ。
「心配すんなよ、ライアン。そのままにしておくつもりはねえ。俺らの世界は舐められたら終わりだからな」
「……」
ライアンはしばし黙った後、刃先を睨みながら口を開いた。
「どうするつもりだよ?」
「俺らは警戒されてるからな、もう学園には近づけねえ」
「だったら――」
「大丈夫だよ。それなら、あいつに出向いてもらえばいいんだ」
「だから、それをどうやって」
「なに、簡単さ」
グルドは右手のナイフをライアンに向けたまま、左手でぱちんと指を鳴らした。
直後、取り巻き達がライアンに飛び掛かって、その身体を押さえつける。
「なっ、お前らっ……!」
「悪いな、ライアンちゃん。今まで稼がせてくれてありがとうよ。実は俺、貴族ってやつが大嫌いでよ」
「グ、グルド……」
呆然とするライアンを、グルドは冷たい目で眺めて笑った。
「あいつは教師なんだよな? 生徒の身に危険が迫っていたら、誘いに応じるしかねえだろ?」
+++
翌日の放課後、いつものようにイリアとシャルロッテを伴って、ゼノスは寮へと戻った。
「今日も宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします、イリア先生!」
いつも礼儀正しいイリアに、リリが右手を掲げて挨拶する。
「それじゃあ紅茶をもらえる?」
シャルロッテも普段通りだが、最近は紅茶に合うお茶菓子を持参するようになったので、リリも楽しみにしているようだ。
「今日は王宮御用達の洋菓子店から取り寄せた最高級の材料を使ったチョコレートクッキーよ。庶民が手に入れるには最低でも十年は待つ逸品、有難く頂きなさい」
「イエッサー!」
クッキーの箱をわくわく顔で覗き込んだリリは、敬礼しながら台所に走る。
そんな様子を苦笑しながら眺め、ゼノスはテーブルの上に鞄を置いた。
「あ、そういえば」
そこでふと思い出し、中から一枚の封筒を取り出す。
「ゼノ先生、お手紙ですか?」
「ん? ああ、昼過ぎに学園に届いたんだが、見るのを忘れてた」
イリアに答えながら、封を破る。
「……」
中身を読んで、ゼノスは動きを止めた。
「どうしたの?」と、リリ。
「ゼノ先生、何が書いてあったんですか?」と、イリア。
「まさか恋文じゃないでしょうね」と、シャルロッテ。
近づいてくる女子達に、ゼノスは溜め息をついて文面を見せる。
――ライアンの身柄は預かった。無事に返して欲しければ、今夜街区の旧遊技場に来い。なお近衛師団を連れて来たらライアンの命は保証しない。
「ええっ?」
「ライアン君がっ……」
「……なんなのこれ?」
それぞれの反応を示す三人を眺め、ゼノスはぽりぽりと頭を掻く。
「うーん、俺もよくわからないが……」
そういえば今日、ライアンは欠席だった。イリアが心配そうに両手を合わせる。
「……ライアン君、不良の市民の子達と付き合ってるって噂があるんです。も、もしかしたら何かトラブルに巻き込まれたのかも……」
「不良市民……?」
思い当たることがある。明らかに人相の悪い男達に昨日絡まれたばかりだ。
そのうちリーダー格の男は、レーデルシア学園の制服を持っていた。
「……ったく、先生って大変なんだな。授業やって、雑用やって、攫われた生徒の救出までするのか」
ゼノスは溜め息をつきながら、黒い外套に袖を通した。
「悪いが今日の放課後授業は延期だ。ちょっと出掛けてくる」
ドアに手をかけると、イリアに呼び止められる。
「待って下さい、ゼノ先生。私も連れて行って下さい」
「いや、ここは俺だけで行くよ」
ドアを開けようとしたが、イリアは食い下がってくる。
「お、お願いです、先生」
「どうしてそこまで?」
尋ねると、イリアは一度俯いて答えた。
「ま、前に裏庭で他のクラスの子にからかわれた時に、ライアン君が助けてくれたことがあったから。私も何か力になれたらって……」
そういえば、そんなことがあった。
シャルロッテが細い眉をわずかに寄せる。
「イリア、あなたもしかしてあの大男のこと――」
「あ、いえ、そういう訳ではないです」
「そこはあっさり否定するのね……」
「で、でも、私ずっと自分に自信がなくて、今までちゃんとお礼も言えなくて。Fクラスの私達ってみんな何かに自信がないんです……だけど、先生が来て、少しだけ変われた気がして……だから、そのライアン君も……」
震えそうになりながらも、視線を逸らすことなくこっちを見てくるイリアを、ゼノスはじっと眺める。
気弱そうに見えて、頑固なところがある。
感覚派で細かいことを気にしない自分に、繊細で理屈っぽいヴェリトラ。師匠は子供の特徴をよく見て指導のやり方も変えていた。師匠ならこんな時どうするだろうと、ふと思う。
ゼノスはイリアに体を向けて、ゆっくり頷いた。
「……わかった。ちなみに街区の旧遊技場ってどこかわかるか?」
勢いで飛び出そうとしたが、よく考えたら場所を知らなかった。
「あ、はい。私は元市民なので。繁華街の外れにある場所で、親からは近づかないほうがいいとよく言われてました」
「じゃあ、悪いが案内を頼む。ただ一つ約束だ。現地に着いたら、俺がいいというまでは離れたところに隠れておくこと」
「は、はいっ」
イリアが大きく頷いてついてくると、シャルロッテが慌ててやってきた。
「ちょっと待ちなさいよ。私も行くわ」
「え、なんで?」
「なんでって、二人だけで夜の繁華街に行かせる訳にはいかないでしょう」
「……どういうことだ?」
「な、なんでもないわ」
シャルロッテはそっぽを向いた後、ふと思い出したようにリリに言った。
「あ、そうだ。折角だからクッキーを三枚包んでくれる? 残りは好きにお食べなさい」
「イエッサー!」
リリが敬礼をして高級クッキーを紙に包んだ。なんだかすっかり餌付けされている。
シャルロッテは受け取った紙包みを肩掛けバッグに忍ばせ、意気揚々と言った。
「さあ、行くわよ」
「遠足じゃないんだがな?」
+++
夏の空が夕闇に沈む頃、街区にある繁華街は眠りから覚めたように華やかに彩られる。
しかし、その通りから二区画ほど外れた位置には、繁華街の賑やかさとは正反対の街灯もまばらでひとけの消えた通りがあった。
そこに古びた遊技場がひっそりと佇んでいる。
別の場所に新店舗ができたことで、現在は使われていない建物だ。今はやさぐれた若者達がここを根城にしており、近隣の住民に近づく者はいない。
そのがらんとした無機質なフロアの中央で、大柄な青年が椅子に座らされていた。
両手足を縄で縛られ、胴体も縄で椅子に括り付けられている。抵抗した際に何度か殴られたことで目の端は腫れ、唇は切れ、口の中にも血が滲んでいる。
「てめえら、俺にこんな真似をしてただで済むと思ってるのか」
ライアンはどすの効いた声で、そばに立つグルドを睨みつけた。
しかし、グルドは悪びれる様子もなく、両手で長髪をかきあげる。
「あ~、思ってるぜ。ライアンちゃん。どうせ親にも見放されてんだろ? 出来損ないの不良息子が家に戻らなくても気にしねえんじゃねえの」
「……」
ライアンは奥歯を噛み締めた。おそらくその通りだ。あの父親が自分を心配して誰かに探しに来させるとは思えない。押し黙ったライアンを見て、グルドは口の端を軽く持ち上げた。
「貴族が俺らの仲間面してんのには虫唾が走ってたぜ。もうちょっと金をせびってからにしようと思ってたがもういいや。むかつく教師に思い知らせてやったら、お前は用済みだ。お前の家が身代金でも払ってくれりゃいいが、それも期待できねえか」
グルドが馬鹿にしたように言い放ち、取り巻き達も一斉に笑い始める。
ライアンは彼らを睨みつけながら、胸の内から何かが抜け落ちていくような感覚を味わっていた。
仲間なんて、いなかったのだ。
最初から体のいい金蔓としか見られていなかったことが今になってやっとわかった。
家では疎まれ、学校に馴染めず、ようやく辿り着いた安息の地にも自分の居場所はない。
ライアンは拳を握りしめ、そして、低い声で言った。
「……馬鹿が」
「あぁ?」
「来ねえよ。教師なんて」
「……」
目を細めたグルドに、ライアンは半笑いの顔を向ける。
「お前の言う通りだよ、グルド。親父は俺に興味がない。学校の教師だってそうだ。落ちこぼれクラスの不良生徒のことなんざ誰も気にかけねえ。俺の身が危ない? そんな確証もない手紙ごときで担任がわざわざ来るかよ」
諦念とともに腹から空虚な吐息が漏れる。
「ざまあみろ。お前は坊ちゃん学園の一教師に舐められっぱなしで……ぐっ!」
最後まで言う前に、グルドに髪を掴まれ、顔を強引に下に向けられた。
「なあ、ライアン。よく考えたら五体満足である必要はねえよな。手紙だけで確証が持てないなら、次は指でも添えて送るか」
グルドは懐から鈍く光るナイフを取り出し、ゆっくりと近づけてくる。
「そういやお前んとこは騎士の家系ってやつだっけ? 剣を握るには親指が大事なんだよな」
冷たい刃先が、後ろで縛られている親指の付け根に添えられる感覚。
「くっ……」
ライアンは思わず目を閉じる。
こんなもんだ。生まれた時から何もかもうまくいかない。
親に諦められ、教師に蔑まれ、仲間と思っていた相手は仲間じゃなかった。
もうどうなったって構わない。絶望が身体にまとわりついて眼前を黒く塗りつぶす。
だが――
ふとグルドの動きが止まった。
入り口の辺りが妙に騒がしい。ゆっくりと顔を上げると、取り巻きの一人が飛んできた。
「うおっ!」
グルドが慌ててその場を飛びのき、男は背中から激しく床に落ちる。
その後も叫び声とともに、数人がこちらのほうへ吹き飛ばされてきた。
背中を押さえて悶え苦しむ男達。
人垣が左右に割れ、その中央を悠々と進み出てくる男がいた。
「よう、ライアン。無断欠席はよくないぞ」
「あ、あんた……」
現れたのは、担任だ。
しかし、闇よりも濃い黒い外套をまとい、不敵に笑うその姿は、正義の味方というより悪の組織の大幹部のようで、ましてや貴族学園の教師にはとても見えない。
「な、なんで……」
「面倒事は本来勘弁なんだが、一応、今は教師だからな」
担任教師はゆったりした口調で言って、視線をグルドに向ける。
「やっぱりお前か。指定通りにやってきたぞ。うちの生徒を返してもらおうか」
グルドはようやく我に返ったようにナイフを目の前に掲げた。
「くくく……馬鹿が。のこのことやってきやがった。俺は宵闇のグルドだ。この名前を知らねえ訳じゃねえだろ」
「知らんが?」
「くはは、強がりやがって。この辺りの不良チームを束ねる王だ。俺が一声かけりゃ、すぐに百人の悪どもが集まる」
「だから、知らんが?」
グルドは額に青筋を浮かべる。
「よっぽど死にてえらしいな。いいだろう、ライアンともども魚の餌にしてやるよ」
「ん? 話が違うぞ。ここに来たらライアンを返してくれるんじゃないのか」
「悪いな。俺らろくな育ち方をしてねえもんでよ」
グルドは瞳に残虐な光を宿らせ、ナイフの刀身をべろりと舐める。
しかし、漆黒の外套を羽織った男は、微塵も怯む様子を見せず、肩を押さえてこきこきと首を鳴らした。
「そうか。悪いけど、俺も育ちの悪さには自信があるんだ」