第173話 旧第三校舎の怪【前】
前回のあらすじ)イリアの教科書を返してほしくば深夜に旧第三校舎に来るよう手紙が届いた。現地に向かうゼノスだが、浮遊体も寮から姿を消しており…?
その頃、旧第三校舎の裏庭では、生い茂る藪の後ろに、E クラスの生徒が五名ほど身を寄せ合っていた。
使い古された光の魔石による頼りない光源がまばらにあるだけで、辺りは暗闇と静寂に包まれている。
「イリアの奴、来やがったぜ」
一人の生徒が言った。視界の先には、両手を擦り合わせながら、不安げに周囲を見渡すイリアの姿がある。
「はっ、本当に来るとはな」
「市民上がりはせこいからな。一冊の教科書も大事なんだよ」
「で、どうするのよ」
女生徒の声に、リーダー格の男子生徒がにやりと笑って言った。
「旧第三校舎の裏庭の端に、猟犬の墓があるのを知ってるだろ」
レーデルシア学園では、貴族のたしなみでもある狩りの授業がある。その時に使う猟犬や猛禽類を学園が飼育しているのだが、ここには老いて生を終えた猟犬の墓地があった。
男子生徒は、懐から鈍く光る銀色の小さな笛を取り出す。
「こいつは犬笛だ。吹き方次第で色んな犬の鳴き声を出せる。これを吹いてびびらせるんだよ」
「うふふ、なるほどね。こんな深夜に、猟犬の墓地で犬の声が響いたらたまげちゃうわね」
「きっと泣きながら、逃げ惑うだろうな」
「それをこいつで激写するって訳だ」
別の生徒が、小型の魔導映写機を鞄から取り出す。
生徒達は顔を見合わせ、楽しそうに含み笑いをした。
直後、一人の生徒が顔を上げた。
「ん……?」
「どうした?」
「いや……今あっちの木の陰から、黒い服の女がにやにやしてこっちを見てたような……」
不安げな表情を浮かべる生徒に、他の生徒が口々に文句を言う。
「やだ、変なこと言わないでよ」
「そうだぞ、何もいねぇじゃねえか」
「そ、そうだよな……悪い、俺の見間違いだよな」
生徒は自身の腕をさすり、リーダー格の男子生徒に言った。
「ちょ、ちょっと俺、気味悪くなってきた。さっさとやって帰ろうぜ」
「ちっ、臆病者が」
リーダー格の生徒が舌打ちをして、犬笛を咥えると――
「ぐるるるるうぅぅっ!」
低い唸り声が周囲に響き渡り、視界の先にいるイリアがびくっと肩を震わせた。
「あはは、びびってるわ。もっとやりましょうよ」
女生徒が小さく笑って言うと、リーダー格の男が眉をひそめて犬笛を口から離した。
「どうしたのよ……?」
「いや……俺まだ笛を吹いてねえぞ。っていうか、あんな音出ねえし」
「……」
一同は無言で、互いの顔を眺める。
次の瞬間――
「ぐるるるうっ!」
「ごるああぁっ!」
背後から獰猛な唸り声が迫ってきた。
反射的に振り向いた生徒達は、五匹の犬がよだれを垂らし
ながら駆け寄ってきているのを目撃する。薄闇ではっきりとは認識できないが、それはただの犬ではなかった。
眼球がなく、皮膚がただれ、骨や内臓が露出している。
ヘルドッグ――犬のゾンビだ。
「ぎゃああああああああっ!」
靴に噛みつかれ、リーダー格の男子生徒は大声を上げた。裸足になって藪から飛び出し、他の生徒達も我先にと犬のゾンビから逃げる。
突然出てきた元クラスメイトの姿を見て、イリアは目を丸くした。
「え? え、え?」
「助けてくれええぇぇっ!」
生徒達はイリアのもとに転がるように駆けてくる。五匹のヘルドッグ達は生徒達とイリアの周囲を、獲物を品定めするように、ゆっくりと弧を描くように回っていた。
「な、なんでこんなところに犬のゾンビがっ」
「お前、生贄になれよっ」
「馬鹿っ、お前がなれっ」
「ママ~、助けて」
半泣きの生徒達に五匹のヘルドッグが同時に襲い掛かった。
「がるるるるっ!」
「うわああああああああっ!」
生徒達の悲鳴が夜空に鳴り渡った直後、
「高位治癒!」
男の声が響いて、生徒達の前を白い熱風が通り過ぎる。
光の粒が残照のように瞬いた後には、ゾンビの姿は綺麗になくなっていた。
「え……?」
「た、助かった……?」
腰を抜かしたまま茫然とつぶやく生徒達に、黒い外套をまとった男が近づいてくる。
「ヘルドッグか。一体何が起こったんだ?」
「ゼ、ゼノ先生っ」
イリアが担任の姿を認めて驚いた顔で言った。
「ど、どうしてここに?」
「ん? ええと、深夜の見回りだよ」
ゼノスはそう答えて、へたりこんだE クラスの生徒達に目を向ける。
「で、お前達はここで何をしてるんだ?」
E クラスの生徒達は露骨にゼノスから顔をそらした。
「べ、別に何でもねえよ。ちょっと仲間で集まってただけだ」
「こんな時間に、こんな場所にか?」
「う、うるせえな。あんたF クラスの担任だろ。用事が済んだならさっさと帰れよ」
ゼノスはぽりぽりと頭をかく。
「そうか……ちなみにあそこにもう一匹いるんだけど、用事が済んだから帰るわ」
「は?」
ゼノスの指さした先には、警戒するようにゆったりと近づいてくるヘルドッグの姿があった。
「ちょ、ちょちょちょっと待て。助けろよっ」
慌てて引き留める生徒達に、ゼノスは素っ気なく答える。
「でも、帰れって言われたしな。もう眠いし」
「ふ、ふざけんなっ。大事な生徒が襲われるかもしれないんだぞっ」
「ちなみに俺以外にも治癒魔法を使える奴がここにいるぞ。助けて欲しかったら、こいつにお願いしてみたらどうだ」
「ええっ、私ですか?」
ゼノスがイリアの肩を叩く。驚いたイリアを、E クラスの生徒が更に驚いた顔で見つめた。
「イ、イリアが……?」
「ああ、急がないとヘルドッグがやってくるが」
「わ、わかった。た、頼むっ。イリア助けてくれっ」
「お、お願いっ。今までのことは謝るからっ」
何人かの生徒がイリアに手を合わせて懇願する。
そうしているうちに、ヘルドッグはもう数メートル先まで近づいてきていた。まばらに生えた牙の隙間から、へどろのような粘液が零れ落ちている。
「ゼ、ゼノ先生、私っ……」
「大丈夫だ。やり方は教えたはずだ」
「……」
イリアは唇を引き結び、ゆっくりと頷く。両手を前にかざし、精神を集中させる。
「がるるうっ!」
申し合わせたように、ヘルドッグが襲い掛かってきて――
「治癒!」
イリアの詠唱とともに、その手の平から白い光が溢れ出した。
正面から治癒魔法を浴びたヘルドッグが「ぎゃうっ」と鳴いて飛び下がる。続けてイリアの手から二度治癒魔法が放たれ、ヘルドッグは塵となって浄化された。
「で、できた……」
荒く息を吐いたイリアは自身の両手を見つめる。
「た、助かったの……?」
「や、やるじゃねえか、イリア」
数人の生徒から賞賛の言葉を浴び、イリアは戸惑った表情を浮かべた。そして、ふと思い出したように一枚の便箋を取り出し、元クラスメイトの前にかざす。
「あ、あの、教科書の隠し場所、教えて欲しいんですけど」
「……」
何人かが顔を見合わせ、口を開こうとしたところ、リーダー格の男子生徒が横柄に答えた。
「おい、言うなよ、お前ら。なんで市民上がりなんかの言うことを聞かなきゃいけねえんだ」
俯きかけたイリアは、しかし、無理やり顔を上げ、胸に手を当てて何かをぶつぶつと呟いた。
「私は……素晴らしい……私は素晴らしい……」
そして、男子生徒を上から睥睨し、冷えた口調で言った。
「別に構いませんけど、踵を怪我してませんか?」
「……だ、だからなんだよ」
「早く私が治さないと膿んでゾンビ化するかもしれませんね」
「ひっ」
「それに……よく見たら、股間が濡れてませんか? 怖くて漏らしちゃったんですね。明日みんなに教えてあげましょう」
「こ、これはっ、ち、ちげえよっ」
他の生徒から一斉に視線を浴び、男子生徒は泣きそうになって喚く。
イリアは生徒の前に腰を落として言った。
「教科書の隠し場所、教えてくれますね?」
結局、隠し場所を吐いた元クラスメイト達は、ほうほうのていで旧校舎から逃げ出した。
その場に立ちすくむイリアに、ゼノスが優しく声をかける。
「ヘルドッグが現れたのはちょっと驚いたが、なかなかやるじゃないか。危なかったら手助けするつもりだったが、練習の時より精度がよかったぞ。お前は意外と実戦向きかもしれないな」
しかも、シャルロッテの謎の帝王学が意外なところで役に立った。
「い、いえ、先生のおかげで……敢えて私に任せてくれたんですよね……?もしかして、手紙のこと知ってたんですか?」
「さあ、何の話だ?」
とぼけると、イリアは突然すとんとその場に座り込んだ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
近づいて尋ねると、イリアは半分泣いて半分笑ったような顔でゼノスを見上げる。
「い、今ごろ腰が抜けました」