第170話 個人授業【中】
前回のあらすじ)シャルロッテの機嫌も直り、寮の部屋でイリアの授業が始まることになった
イリアがテーブルの上で鞄をひっくり返すと、中から大量の本がどさどさと出て来た。
「とりあえず初等部の教科書を一通り持ってきました」
「おお~」
「うわ~」
ゼノスとリリは感動とともに教科書をしげしげと見つめる。
「初等部の教科書がそんな珍しい訳?」
シャルロッテがテーブルに頬杖をついて言うが、貧民にとっては貴重な品だ。
イリアは椅子に腰を下ろし、ゼノスに目を向ける。
「えっと、妹さんの家庭教師をやればいいっていうことですよね」
「ああ、そうしてもらえると助かる」
そういう形にして、ゼノス自身もそばで聞いて学ぶつもりだ。
「それじゃあお願いしますっ、お姉さんっ」
リリはびしぃと右手を挙げた。
「あ、はい、お願いします。あの、苦手な分野はありますか?」
「全部ですっ。全部教えて下さいっ」
「ぜ、全部ですか。わ、わかりました。じゃあ、順番にやりましょう。まずは数理から」
イリアはリリの勢いに若干のけぞりながら教科書を開いた。
「……」
シャルロッテは退屈なのか、席を立って室内をぶらぶらと歩きまわっている。
だからと言って、なぜか帰る様子はない。
そのうちに壁際に立てかけてある杖の前で腰を下ろし、じろじろと眺め始めた。
「ふぅん……なんだか古臭い杖ねぇ」
「シャッ!」
「ひ、ひいっ!」
シャルロッテが短く叫んで尻もちをついた。
「どうしたんだ、シャルロッテ」
「い、今この杖が喋ったのよ!」
「……多分、気のせいじゃないか、ハハ、ハハハ……」
ゼノスは空笑いを響かせながら、杖を睨みつける。
一方、テーブルではイリアによる講義が順調に進んでいた。
「そうです、合ってます。すごい。飲み込みが早いですね!」
「えへへぇ、先生の教え方がいいです」
リリはもともと賢い娘だが、イリアの教え方が非常にわかりやすいのも確かだ。
講義が一段落したところで、ゼノスはふとした疑問を口にした。
「なあ、イリア。一つ聞いてもいいか?」
「は、はい。なんでしょうか」
「他クラスの奴ら、教科書捨てられたみたいな話をしてたけど、本当なのか?」
植え込みを漁っていたのは、なくなった教科書を探していたのだ。
「は、はい……」
イリアは俯いて、おずおずと言った。
「私の家はもともと市民だったんです。父の代で貴族になったんですけど、新参者だからなかなか受け入れてもらえなくて……」
この国では王族と貴族が圧倒的な権力を有しているが、市民が貴族になる手段がわずかながら用意されてはいる。冒険者として最上位のブラッククラスになった場合や、王立治療院などの国家機関の長官になった場合、それに基準以上の資産を国に納めた場合などである。圧倒的な実績を上げた前者に比べ、資産で貴族になる方法はあまり好意的に受け取られないとイリアは言う。
彼女に貴族らしくない雰囲気が漂っていた理由がわかった気がした。問題児クラスと聞いていたFクラスに、どう見ても問題児ではなさそうなイリアがいるのもおそらく家柄が原因なのだろう。
杖から露骨に距離を取ったシャルロッテが横から口を挟んだ。
「なっさけないわねぇ。おどおどしてるから標的にされるのよ」
「す、すいません……」
「じゃあ、教科書を千冊買えば? それなら捨てる奴だって大変でしょ」
金持ちの発想はなかなかにすごい。
「で、でも、もったいないですし……」
「お前とは気が合いそうだな、イリア」
「ちょ、ちょっと、なんでイリアとあなたが気が合うのよ」
「くくく……」
最後の笑い声は聞こえなかったことにして。
しかし、最下層の貧民からすれば、貴族というだけで天上人のような存在なのに、貴族になったらなったで新たな階級に悩まされるとは気の遠くなるような話だ。
「階級、か……」
「どうしたのよ?」
「いや、なんでもない。じゃあ、そろそろ約束通り治癒魔法の練習をするか」
「あ、はいっ。お願いしますっ」
ゼノスは立ち上がって、イリアをテーブル脇のスペースに促した。
初等部の教科書はこのまま寮に残してくれることになり、リリが万歳をする。
緊張した面持ちのイリアにゼノスは問う。
「ちなみに魔力はあるんだよな?」
魔力がなければ、そもそも魔法は使えない。また、魔力があってもその絶対量や発現できる度合はかなり個人差が大きいと聞く。
「あ、はい。中等部の時の検査で確かあると言われた気がします」
「私はないわっ」
そばにやってきたシャルロッテがなぜかえらそうに腕を組む。
「でも、私にはこの美貌と財力と権力と踊りがある」
「そういえば、舞踏会で踊るの好きだったんだよな」
かつて奇面腫の手術でシャルロッテの部屋に入った時、あちこちに舞踏会の写真があったのを思い出す。
「ま……どうしても私の踊りが見たいというなら、見せてあげない訳でもないけど」
「それはまた今度」
「ちょっと興味持ちなさいよっ」
「くくく……」
杖がぷるぷると振動する中、ゼノスは直立不動のイリアに力を抜くように伝え、まずは魔力の発現の仕方を教える。師匠の教えを思い出しながら、丁寧に手順を伝えた。
イリアは両手を前にかざし、何度か深呼吸を繰り返す。
しばらくすると、ぼんやりした薄い光が手の平にかすかに現れた。
「あ、ああ、あのっ、先生っ」
「ああ、そう。そんな感じだ」
驚いた様子のイリアに、ゼノスは優しく言った。シャルロッテが腕を組んだまま目を細める。
「ふぅん、これが魔力? 随分と薄いのね」
「最初はこんなもんだ。出力と持続力が安定すれば、これが魔法の種火になる」
「ちなみに私は魔力はないけど、美貌と財力と権力と踊りがあるわ」
「はいはい」
「だから、聞きなさいよっ」
今回は杖から笑い声は聞こえない。
極度の集中のせいか、イリアの疲労が強く、本日はこれでお開きになった。不満げなシャルロッテと恐縮するイリアの二人を寮の入り口まで見送る。
部屋に戻ると、リリとカーミラが神妙な顔つき佇んでいた。
「どうしたんだ、二人とも」
首を傾げて尋ねると、リリが確認するように答える。
「ゼノス……イリアさん、魔力が出てたよね?」
「そうだな。ま、最初はあんなもんだろ」
すると、リリの後ろのカーミラが首を横に振った。
「貴様は何もわかっておらんな。これだから天然のど天才は」
「なんの話?」
「やり方を軽く習っただけで、すぐに魔力を出力するなんて一般人には無理じゃ。普通は数か月、下手をすれば何年もかかる」
「え、そうなの?」
確かに、貧民街の孤児院にいた頃、行き倒れの蘇生を独自に試みた時は白い光が死者を取り巻くまで数年かかった気がする。だが、あの頃は魔法のことすらよく知らなかった訳で、師匠と出会ってコツを習ったら魔力の出力は即日で倍増した。
「そもそも独学で蘇生魔法を完成しかけたり、治癒魔法しか習ってないのに防護魔法と能力強化魔法を勝手に体得した規格外天然男の基準で考えるのは間違っておるが……」
最高位のアンデッドは閉じたドアを眺めて、にやりと笑う。
「あの娘。ただの脇役その一と思っていたが、なかなか面白い素材かもしれんの」