第168話 裏庭にて
前回のあらすじ)教師になったはいいものの教育を学ぶ機会がなかなか得られないゼノスは、誰か基礎教育を教えてくれる人がいないか考えていた
それからの一週間は出欠を取り、ごく基本的な治癒魔法学の授業をし、教頭から指示された雑用をするだけで終わった。
相変わらずFクラスの生徒達はよそよそしく、時に敵意のようなものは感じる。シャルロッテだけはちょくちょくと絡んでくるが、彼女は本来Aクラス所属ということもあり、今のクラスメイトと馴染む気もなさそうだ。
「まいったな……」
昼休み。
裏庭のベンチでリリに作ってもらった弁当を口に運びながら、ゼノスは溜め息をついた。
貧民街に学校を作るために、教育のなんたるかを学ぶつもりでやってはきたが、他の授業を見学することもできず、今のところ順調とは言い難い。
「そんなところで何やってるのよ」
艶やかな栗色の髪を風に揺らしながら、少女が近づいてくる。
「ああ、シャルロッテか」
「ああ……って何? この私がわざわざ声をかけてやったのよ。もっと嬉しそうにしなさいよ」
「でも、毎日会ってるし」
「この私と毎日会えるのよ。神に感謝するがいいわ」
シャルロッテは自身の胸に右手を添えて、得意げな表情を浮かべた。
この自己肯定感の高さは、きっと生まれによるものだろう。
ゼノスは魚肉の香草焼きを口に運んで言った。
「教頭に裏庭の掃除を言いつかったんだよ。広すぎて午前中いっぱいかけて、やっと一割が終わったところだ」
「裏庭の掃除? そんなの用務員の仕事じゃない。教師がやることじゃないわ」
「……やっぱりそうだよな?」
なんせ普通がわからない。
生徒から挑まれるのが教師。雑事をこなすのが教師。一体、正しい教師像とは何だろう。
すると、シャルロッテはわずかに口の端を上げて言った。
「ね、私からお父様に言ってあげようかしら。余計な仕事を増やさないようにって」
「……」
しばらく黙った後、ゼノスは首を横に振った。
「気持ちだけ有難く受け取っておくよ」
「……え? 私の申し出を断るの?」
「ま、一応教師だからな。生徒にただで助けてもらう訳にもいかないだろ。代わりに差し出せるものがあればいいけど、お前が持ってないものなんてないだろうし」
見ると、シャルロッテは不満げに唇を引き結んでいる。
まさか提案が拒否されるとは思ってみなかったようだ。
何度か深呼吸をした後、シャルロッテはゼノスの持つ弁当箱に白い指先を向けた。
「なんなの、そのお弁当。随分と質素なものを食べてるのね」
「別にいいだろ」
「うちの執事に頼んで、もっと豪華なものを用意してあげましょうか」
「なあ、シャルロッテ」
ゼノスはフォークを持つ手を止めて、少女を見上げた。
「俺はこの弁当を気に入ってるんだ。お前は全てを持ってるんだろうが、豪華なものがいいとは限らないよ。相手がそれを喜ぶかは考えたほうがいいぞ」
「は……?」
シャルロッテの顔色と声色が変わった。
指先が小さく震え、淡雪のような真っ白な肌が紅潮している。
「こ、この私に、説教するつもり……?」
「いや、説教って言うか」
「パパにも怒られたことないのに、こんな教師は初めてだわ。不愉快よっ」
「……え?」
シャルロッテは肩を怒らせ、背を向けて去っていく。
「お、おぉ……」
――子供と言えど相手は貴族です。くれぐれも対応には注意して下さい。
意識はしていたつもりだが、早くもベッカーの懸念が現実になりそうだ。
校舎に消えたシャルロッテの背中を眺めて、ゼノスは呟いた。
「教育って難しいぞ、師匠……」
まだここに来て一週間だが、思った以上に難しい。当時の師匠はどうして見ず知らずの貧民の子供相手にこんなに手間のかかることをしたのだろう。
そんなことを考えていたら、ふと不思議な光景が目に入った。
繁みの手前で、女生徒が地面に這いつくばっている。
「……イリア?」
「あ、はいっ」
普段Fクラス最前列に座っている少女が、慌てて立ち上がった。
少女は制服についた土を払いながら、おどおどした様子で言った。
「あ、ゼノ先生ですか。こんなところで何を……?」
「それはこっちの台詞だ。前もやってたそれ、何やってるんだ?」
尋ねると、イリアは少し困った顔をした。
「あの……探し物をしてて」
「ああ、木の実でも探してるのか? 残念ながら、そのタルカナの木にできる実は棘もあるし、硬くて苦くてかなり頑張らないと食べられないぞ」
「く、詳しいですね。というか食べたんですか?」
「まあ、木の実は昔一通り試したからな。で、何を探してるんだ?」
「木の実は一通り試した……? あ、いえ、あの……教科書を探してて……」
「教科書? 教科書って木の実みたいに落ちてるものなのか?」
すると、いつも怯えた表情をしていた少女が、ぷっと噴き出した。
「あはは、そんな訳ないじゃないですか。先生面白い冗談ですね」
「そ、そうだよな……そんな訳ないよな。ハハ、ハハハ……」
変な汗をごまかしつつ、ゼノスは頷く。
「じゃあ、なんでそんなところで探してるんだ?」
「それは……」
イリアは佇んだまま、口ごもっている。ちょうどその時、反対側から別クラスの生徒達がぞろぞろと歩いてきた。一団はイリアに気づいたようでそこで立ち止まる。
「あれ、イリアじゃん」
「あいつこんなところで何やってんの?」
「ほら、いつもみたいに教科書探してるのよ」
「ああ、お前が学んでも仕方ねえからな。親切な奴がまた裏庭に捨ててくれたんじゃねえか」
「……」
イリアは顔を伏せたまま、両手を握りしめている。
ゼノスが立ち上がろうとした時、大柄な男子生徒が校舎の陰からやってきた。
「おい、邪魔だ。お前ら」
Fクラスのライアンだ。獰猛な獣のような目で、集団を睨みつける。生徒達は不満げに左右に分かれ、ライアンが中央を横切る。瞬間、誰かが言った。
「ふん、落ちこぼれが」
「なんだと?」
ライアンは一人の生徒の襟首を掴み上げた。生徒は強気に口を開く。
「本当のことだろ? 家でも落ちこぼれてんのに、Dクラスからも落ちこぼれたんだ」
「黙れっ」
ライアンは襟首を掴んだ手を横に振るった。生徒は大げさに倒れこみ、地面に手をつく。すりむいた手の平に、血が滲んでいた。
「押した! こいつ押したぞ。ほら、傷があるっ。落第点だっ。誰かっ」
「おい、どうした」
騒ぎに駆け付けたのは、Dクラス担任のハンクスだ。
一瞬ゼノスと目が合った後、ハンクスは倒れこんだ生徒の脇に膝をついた。
「何があった?」
「ライアンにやられたんだ。ほら、傷があるだろ。あいつに落第点をつけてくれよっ」
大騒ぎする生徒の手をハンクスはまじまじと眺める。
「別に……どこも怪我してないぞ」
「え、あれ……?」
生徒は傷一つない自身の手の平を見て、首を捻った。
「な、なんで? さっき確かに血が出てたのにっ」
「そう言われてもないものはないからな。ほら、もう引き上げろ」
ハンクスに促され、他クラスの一団は渋々教室へと向かう。ライアンは去っていく生徒達からゼノスに視線を移すと、ちっと舌打ちをしてその場を去って行った。
残されたゼノスは、リリの弁当をしまって、ゆっくり立ち上がる。
「うーん……これでよかったのか?」
倒れた生徒の傷を一瞬で治したのはゼノスだ。その結果ライアンが罪に問われることはなかったが、彼が他クラスの生徒を倒したのは事実である。それでも、咄嗟に治癒魔法を発動したのは、ライアンの介入でイリアへの中傷が止まったからだ。
「あの、ゼノ先生」
「ん?」
気づくと、そのイリアが後ろに立っていた。
「なあ、イリア。あいつら――」
さっきの一連のやり取りのことを尋ねようとしたが、その前にイリアが勢いよく言った。
「い、今の……もしかして、ゼノ先生が治したんですかっ?」
「……なんで?」
「だ、だって、初日にゼノ先生、自分の手の傷をすぐに治したから。もしかしたら、先生ならできるかもしれないって……」
「……」
意外と鋭い指摘に答え方を思案していると、イリアは意を決したように言った。
「あ、あの……先生っ。わ、私に治癒魔法を教えてくれませんかっ?」
一瞬の静寂。暑気を含んだ風が木立を揺らす。
ゼノスは指をもじもじと絡ませる気弱そうな少女を、しげしげと見つめた。
「治癒魔法を?」
「は、はい……だ、駄目でしょうか?」
「一応、授業でも教えてるつもりだけど」
「そうですけど、その、魔法を教えて頂きたくて……」
確かに治癒魔法学の授業では基本的な人体の構造や機能を説明するだけで、治癒魔法そのものは教えていない。というのも、貴族は治癒師になる訳ではないので、それで十分だとベッカーに聞いていたからだ。実際、同僚のハンクスに見せてもらった指導要領にも、治癒魔法を教えるとは書かれていなかった。
「ちなみに、なんで?」
「その……興味がありまして……」
ぼそぼそと小声で話す少女を眺め、ゼノスはぽりぽりと頬をかく。
「教えられないことはないが、全員が魔力を持ってる訳じゃないからなぁ」
「そ、そうか……そうですよね……」
イリアは肩を落として、とぼとぼとその場を離れていく。
その丸まった背中を見た瞬間、ふと思いついたことがあった。
「ちょっと待ったぁ!」
「?」
立ち止まったイリアが、不思議そうにこっちを振り向く。
「イリア。お前、基礎教育を受けているか?」
「え、ええ、それはまあ一通りは……」
ゼノスはごほんと咳払いをして、居住まいを正した。
「放課後でよければ、個人授業で治癒魔法を教えることはできると思うぞ」
「ほ、本当ですかっ?」
ただし、とゼノスは指を一本立てる。
「代わりに、俺……じゃなくて、俺の妹に基礎教育を教えてくれないか?」