第133話 廃屋の思い出【後】
前回)ヴェリトラは師匠との日々を回想していた
――一体、どうしたら……。
孤児院の夜。紙のような薄い毛布にくるまってヴェリトラは悶々と思案していた。考えても答えが出ないことはわかっている。自分はまだ子供だし、お金だってない。
隣の部屋では教官の怒号が聞こえるが、日常的な光景なので雑魚寝をしている他の子供達が目を覚ます様子はない。内容は今月の上納金が足りないということのようだ。孤児院は子供達に様々な違法行為をさせ、金を吸い上げている。
しかし、だからと言って環境が改善されることはない。
それらの金は全て院長であるダリッツの元に行くと聞いたことがある。
「そうだ……!」
ヴェリトラは目を開けて、つぶやいた。
金は、あるのだ。
子供達が必死に稼いだ金は、院長室の金庫におさまっているはずだ。
それは、まるで天啓のような閃きだった。
――お金があれば。
ここを出ても生きていける。師匠にもいい家を買ってあげることもできる。そうすれば師匠のもとでもっと魔法の訓練もできる。そして、いつか一流の治癒師になれば、師匠はきっと――
速くなる鼓動を覆い隠すように、ヴェリトラは胸を押さえた。
決行の日は、一ヶ月後に訪れた。
ダリッツ院長の行動パターンを調べ、特定の時間帯は趣味の賭博に出かけるために留守にすることを探り当てた。大人達のいるスペースは常に見張りがいるが、中には怠慢な者もいて煙草を吸いに持ち場を離れることがあることも調べ上げた。その隙をついてダリッツが留守の時間に、院長室のドアの前までたどり着くことに成功する。
ダリッツは用心深い性格で、不在の時はドアに必ず鍵をかける。だが、鍵については昔、空き巣の真似事をさせられていたことがあるので、ある程度開け方はわかっていた。用心のために三つも鍵がついていたが、何度も訓練をしたおかげで、どうにか見張りが戻ってくるまでに針金を使って解錠することができた。
ヴェリトラは広々とした優雅な部屋へと身を滑らせ、中から鍵をかける。そして、クローゼットの奥にある金庫を確認した。これが最後の関門だ。金庫は数字のダイヤル式。おそらくそうだと思っていたので、この一ヶ月の間、誕生日や孤児院の開業日など、院長にまつわる数字をたくさん収集してきた。
数字を設定してボタンを押す。しかし、思いつく数字を全て試しても金庫は開かない。少し数字をずらしたり、逆にしてみたり、くっつけたりと工夫を凝らしてみたが、それでも反応はない。
ふいに鍵が差し込まれる音がして、ヴェリトラの心臓が跳ねた。部下が勝手に部屋に入ることはないから、対象となる人物は一人しかいない。
壁の時計を見ると、もうダリッツが戻る時間になっていた。
――まずい、まずい……。
押し入れの中に、咄嗟に身を隠すと同時にドアが開いた。
無機質で単調な足音だけでダリッツだとわかる。
空気がぴんと張り詰めた。
口を押さえて息を殺していると、気配がどんどんと近づいてきた。ダリッツが次の用事で立ち去るまでここに身を隠しておこうと思ったが、その判断が大いに誤っていたことをすぐに悟る。外から戻ってきたダリッツが真っ先に確認するのは金庫なのだ。
クローゼットのドアが薄く開き、ヴェリトラは死を覚悟する。だが――
「ダリッツ院長、よろしいでしょうか」
部屋の外で教官の声がして、ドアの動きが止まる。
「なんだ」
「お留守の間に、人買いのヴィンセント氏が来訪されたのですが、こちらの指定金額は出せないと言い始めまして」
「なんだと? 交渉は終わっているはずだ。金を受け取り、ガキを渡す。私がいなくてもできることだろう」
「それが、最近頭がぼけてきて値段を忘れたと言い出して、結局決裂しまして……」
「くそっ、あの強欲じじいめ。待ってろ、わしがもう一度交渉に行く」
ダリッツは吐き捨てると、勢いよくクローゼットのドアを閉めた。
「わしはここの王。王の言葉は絶対だ。あのじじいに目にものを見せてくれる」
呪詛のように呟いたダリッツの気配が部屋から消え、ヴェリトラはようやく息を吐いた。
震える足で押し入れを這い出して、再び金庫の正面に立つ。
何度か深呼吸をしてダイヤルをゆっくりと回した。
揃えた数字は一と三。つまり、十三。至って単純な数字。
急に思いついたことがあったのだ。
師匠には時々賭博に付き合わされることがあり、一から十三までの数字が並んだカードがよく使われるのを見た。中でも十一と十二と十三にはそれぞれ絵柄が割り当てられている。十一はジャック、十にはクイーン、そして、十三はキング。
王を自認するダリッツの金庫が、かしゃんと音を立てて開いた。
うず高く積まれた金貨や書類を麻袋に突っ込み、ヴェリトラは孤児院を飛び出す。
「やった……やった!」
貧民街に向かって一目散に駆けた。まるで足に羽が生えたようだった。
ゼノスに企みを気づかれないよう、この一ヶ月はあまり顔を合わせないようにしていた。
そうして辿り着いたあばら家で、ヴェリトラは頬を上気させて師匠の元へと駆け寄った。
だが――
「悪いが、その金は受け取れないな」
師匠は厳しい顔つきで首を横に振った。
「でも、師匠……」
「何の金かは聞かないが、まっとうに稼いだものじゃないだろう。少なくとも俺はそんな大金を受け取る訳にはいかない」
「だ、だけどっ、これがあれば師匠にもっといい家も……」
「ヴェリトラ、お前の気持ちは嬉しいよ。ただ、俺は腐っても一応お前らの師匠なんだ。弟子がまっとうじゃない手段で持ってきた金を、喜んで受け取る師匠って、大人として駄目だろ」
「……」
師匠はにやりと笑った。
「ほんとは毎日ひもじくて大変なんだが、少しくらいはかっこつけさせてくれ」
「師匠……」
ヴェリトラは唇を噛んだ。ついさっきまで未来すら買えると思っていた大金が、ただ重いだけの無価値なものに見えてくる。
「おーい、おっさん。今日も生きてるか? お、ヴェリトラも来てたのか」
入り口に姿を現したのはゼノスだ。顔にはなぜか痛々しいほどの青あざが無数にある。
師匠は怪訝な表情を浮かべた。
「その顔はどうした?」
「いやぁ、金庫泥棒に間違えられてえらい目にあったんだ。治癒はできるけど大人の前で魔法を使う訳にもいかないし。リズ姉が助けに入ってくれなかったら今頃死んでたな」
ゼノスは頬を押さえながら、ふとヴェリトラの持つ麻袋に目を向けた。
「ヴェリトラ、それは?」
「――っ!」
ヴェリトラは麻袋を胸に抱え、咄嗟に家を飛び出した。
「ん、どうしたんだ?」
「待て、ヴェリトラっ。そんなもん抱えてうろうろするなっ。ゼノスも止まれっ」
後ろでゼノスと師匠の声が聞こえたが、ヴェリトラは立ち止まらずに駆けた。
馬鹿みたいだ、と涙が滲む。
必死の思いで院長の金を盗んだのに、師匠に受け取ってもらえず、ゼノスが代わりに疑われることになった。そんなことを師匠に知られては、弟子ではいられなくなるかもしれない。
薄々感づいていた。
おそらく本人は認識していないと思うが、ゼノスの能力は飛びぬけている。
そして、自分はそうじゃない。
理論を駆使し、工夫を凝らし、魔法の発動に心血を注ぎ、そうしてやっと肩を並べられるかどうか。天才に勝つには、もっと長い時間、師匠のそばで訓練をする必要がある。そうすればきっと。
この金が、それが叶えてくれるはずだったのに――
「がっ」
突如、背中に冷たい衝撃を覚えた。目を下に向けると、胸から刃物が突き出している。
――刺された……?
遅れて激痛がやってきて、ヴェリトラは前のめりに倒れ込んだ。
「おい、坊主。いいもん持ってそうじゃねえか。じゃらじゃら音がしてんぞ」
醜悪な顔の男達が、倒れたヴェリトラを覗き込んでいた。
いつの間にか、貧民街の中でも特に治安の悪い地域に迷い込んでいたことに気づく。悪名高い地下ギルドの連中がはびこっていると言われるエリアだ。
「うおっ、金貨だぜ。まじかよ、すっげー!」
取り落とした麻袋を開いた男達が、絶叫する。そして、すぐに奪い合いが始まった。
怒声と殴打音を鼓膜が捉えるが、目はかすんでもう見えない。早く傷を治癒しなければならないのに、痛みと呼吸困難でまるで集中ができない。術式が組めない。詠唱ができない。
息をしようとして、血の塊を吐いた。
――駄目、だ。
治癒師は前衛で戦ってはいけない。そんな師匠の口癖の一つを思い出す。
「ヴェリトラぁぁっ!」
誰かの声がする。だが、もうそれももう――……
――
――
……。
「……っ」
目を開けると、視界いっぱいに青空が広がっていた。その中心で、太陽がどこか空虚に輝いている。どうやら路地に仰向けに倒れているようで、ヴェリトラは呻きながら体を起こした。
背中に手を当てるが、傷はない。痛みもない。ただ、自らの吐いた血で赤く汚れた服が、あれがただの夢ではなかったことを物語っている。
辺りを見回すが、男達の姿はそこになかった。
金もない。
ただ、そんなことはどうでもよかった。
気になるのは、ゼノスが呆然とした様子で座り込んでいること。そして、師匠がその脇で倒れ伏していることだ。
「師匠、ゼノスっ。あの……」
「生きてたか、よかった」
しかし、そう言うゼノスの目はうつろだった。
「師匠、あのっ」
うつぶせになった師匠の背中を揺するが、反応がない。何度繰り返しても同じだ。
「師匠? 師匠……師匠っ」
「師匠は死んだよ」
ゼノスが虚空を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「え?」
理解ができなかった。
死、という言葉を脳が捉えられず、反対側の耳から抜けていく。
「師匠? あの、師匠っ。そろそろ魔法の訓練を――」
「ヴェリトラ。だから、師匠はもう生きてないんだ」
ゼノスは苦渋に満ちた顔で言った。
「な……何を言ってるんだよ、ゼノス」
だって、どこにも外傷はないし、いつも通りの穏やかな顔をしているじゃないか。
ただちょっと身体が冷たくて、反応がないだけで――
頭ではいまだ理解ができない。しかし、この一年多くの治療を行い、生と死に触れた。
師匠に触れている指先が、何よりも師匠の状態を正確につかんでいる。
「どう、して……」
おそらく、追ってきた師匠は、男達ともめて刺された。
さらに遅れてやってきたゼノスが、傷ついた自分と師匠を治療したのだ。
ヴェリトラは運よく息を吹き返したが、師匠は助からなかった。
「う……わ、あ、ああああ……」
引き攣れたような嗚咽が漏れる。
自分のせいだ。金を盗んでしまったから。明るい未来を夢見てしまったから。
泣き声は泣き声にならず、ただかすれた吐息が漏れるだけ。喉の奥が刺すように痛み、胸が焼けるように熱い。マグマのような感情は、この身だけに留めておけず、親友にまで飛び火する。
「どうして、ゼノスっ。どうして師匠を助けてくれなかったんだ。こんな時のために治癒魔法を学んできたんじゃないのかっ」
「ヴェリトラ、俺は――」
「自分なんてどうでもよかったのに、どうしてっ、どうしてっ! どうしてっ!」
ゼノスとは妙にウマがあって、これまで一度も喧嘩をしたことがない。
そんな相手に拳を振り上げて食ってかかる。
ゼノスは悲しげな表情のまま、ただ殴られるままになっていた。
「うわあ、あああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
ヴェリトラはよろよろと立ち上がり、通い慣れたあばら家へと駆けて行った。
廃材と区別がつかないほど傷んだ内壁。漂う黴臭。傍若無人に舞う羽虫達。
何もかも変わらない廃屋。ただ、そこに師匠だけがいない。
ヴェリトラは床に突っ伏して慟哭した。
ふと顔を上げた時、めくれた床板の間に黒革の手記が置いてあることに気づいた。
這うように進んで、それを拾い上げる。
涙で滲んだ目で中身をぱらぱらと眺めヴェリトラは、やがてゆっくりと立ち上がった。
藍色の瞳は、寒気がするほど冷え冷えとしている。
その夜、ヴェリトラは孤児院に火をつけ、姿を消した。
+++
時は現代に舞い戻り、舞台は貧民街の底と呼ばれる地下水路。
「なるほど……興味深い話だね」
鼠色のフードを目深にかぶった【案内人】が、場違いな甲高い声で感想を述べた。
ヴェリトラは視線を遠くに向けたままつぶやく。
「ゼノスは結局その程度の腕だった。買い被りだったという訳だ」
「ふぅん、異論はあるけどまあいいや。それで、手記には何が書かれていたんだい?」
「……」
ヴェリトラは無言で足を組む。
手記は一部が破れていたり、染みで読めなかったりしたが、簡単な日記や覚え書きから、師匠が何者で、なぜ貧民街に落ちてきたのかをうかがい知ることはできた。
そして、ヴェリトラが特に注目したのは、とある魔法に関する記述だ。
何かを察したらしい【案内人】が、饒舌に語り始める。
「【黒の治癒師】君。一時期、キミは熱心にゾンビを生み出す魔法陣を研究していたよね。今さらネクロマンサーにでもなりたいのかと思ったけど、あれは――」
「単なる研究の副産物だ」
淡々と答えると、【案内人】は大声で笑い始めた。
「わかったぞ、そういうことか。なんて面白いんだ。キミが本当にやりたいことは――」
【案内人】のフードの下で、妙に赤い唇の端がにぃと上がる。
「師匠という人物の蘇生だね」
+++
同じ頃、廃墟街の治療院では、ゼノスの話を聞いたリリ達がしんみりした顔で口を開いた。
「そんなことがあったなんて……」
「人に歴史ありだねぇ」
「リンガも驚いた」
「しかし、どうするのだ、ゼノス」
レーヴェの問いに、ゼノスはおもむろに答えた。
「もう一度ヴェリトラに会うしかないだろうな」
言いながら、自身がまとった黒い外套の襟を握る。
「師匠の手記に興味はあったけど、ヴェリトラが今元気で笑ってるなら、別にそれでよかった。だけど、もしあいつが師匠の蘇生なんてことを考えてるなら――」
師匠が全てを失う契機となった禁呪――蘇生魔法。
その再現は、きっと師匠が最も望んでいないことだ。
ゼノスは無造作に散った黒髪をぼりぼりとかく。
「面倒事は好きじゃないけど、あいつを止められるのは多分俺だけだ」
かつての親友として。そして、たった二人の弟子として。
「それに、あいつにはまだ伝えられてないことがある」
「で、でも無理にゃっ。今回のことで【黒の治癒師】にはかなり警戒されてしまったにゃ。もう一度会うなんて不可能にゃ」
慌てて言うピスタに、ゼノスは目を向ける。
「でも、大幹部に会う方法は二つあるんだよな。一つは大金を払って顧客になる。もう一つは同じ大幹部になる」
「だからー、もう幾ら金を積んでも顧客になるのは無理にゃ。治療の依頼を受けてくれるとは思えないにゃっ」
「だから、もう一つのほうだよ」
「は?」
「え?」
「まさか……」
ぽかんと口を開けるピスタとリリと亜人達。
硬直する女達を眺めて、ゼノスはこう宣言した。
「俺、ちょっと地下ギルドの大幹部になるわ」
ちょっと大幹部になるわ
次回規格外の新人が地下ギルドに潜入…!?
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