第130話 黒の治癒師【後】
前回のあらすじ)地下ギルドの大幹部、黒の治癒師に会いに来たゼノスの前に、かつての幼馴染が姿を現した
深夜の旧治療院は、重苦しいほどの沈黙に包まれている。
数年ぶりの邂逅だというのに、二人の間には張り詰めた緊張感が満ちていた。
「……」
姿を現した【黒の治癒師】は無機質な仮面をゼノスに向け、冷えた声色で言った。
「妙な依頼だとは思っていたが、お前が絡んでいたのか」
「まあな」
「【黒の治癒師】様、お気をつけ下さい。この男は危険ですっ」
床に伏した部下が、大声で【黒の治癒師】に忠告する。
「黙れと言ったはずだ」
「は、ははぁっ」
部下が再び勢いよく床に頭をこすりつけると、【黒の治癒師】はもう一度顔を上げた。
仮面の奥の瞳は、陰になってよく見えない。
「どういうつもりだ?」
「と言うか、俺が急に現れてもあまり驚かないんだな」
「多少の噂は聞いている。地下にもそれなりに情報は集まる」
喜びも驚きもない淡々とした声色だった。
「そうなのか? だったら会いに来てくれてもよかったんじゃないか」
「なぜ?」
「理由が必要か? 敢えて言えば旧交を温めるためかな。美味い紅茶を用意しておくぞ」
「……」
返事はない。
ゼノスは肩をすくめた後、左手の人差し指を立てて見せる。
「ほら、料理で指を怪我したんだ。だから、噂の【黒の治癒師】に治してもらおうと思ってな」
相変わらず反応がないので、ゼノスは頭をかいて続けた。
「いや、悪かったよ。色々忙しいだろうところを呼び出して。そんなに怒らないでくれ。こうでもしないと地下ギルドの大幹部には会えないみたいだからな」
「それで、どういうつもりだと聞いている」
「この前、リズ姉に会ったんだ」
「リズ……」
今度は少しだけ反応があった。
「孤児院が火事になって、皆ばらばらになっただろ? 誰かに会えるとは思ってなかったけど、偶然リズ姉と会ったことで、他の仲間はどうしてるか気になってな。なんにせよお前が生きててよかったよ」
生きて再会できるということ自体が、奇跡のようなことである。
それほどまでに厳しい環境で育ってきた。
しかし、仮面の奥の思惑は、相変わらず少しも読み取れない。
「用件はそれだけか」
「悪いが、もう一つある」
背を向けかけたヴェリトラを、ゼノスは呼び止めて言った。
「お前、師匠の手記を持ってないか?」
「……!」
明らかにこれまでと異なる反応があった。
だが、それもわずかな時間で消え、【黒の治癒師】はおもむろに口を開いた。
「……もし、持っていると言ったら?」
「本当か? 俺にもそれを――」
「ゼノス」
冷たい声で、言葉は遮られた。
「用事は終わりだ。指の治療はしておいた」
言われて左手を見ると、人差し指の先は傷などなかったように綺麗に完治していた。
「相変わらずの腕だな。お前はどうして――」
呼びかけようとした時、ヴェリトラが仮面を外した。
海のような藍色の癖毛に、中性的な顔立ち。
涼し気な目元は昔のままだが、瞳の奥は見通せない。
黒い仮面をしていた時よりも、更に濃く、暗い。
「ゼノス。お前の前にいるのは、地下ギルドの大幹部だ」
「らしいな。地下の事情はよくわからないけど、短期間で上り詰めたんだろ。大したもんだ」
「地下では素性を明かすことは不利に働く。特に大幹部となればなおさらだ。だから、仕事の時も常に仮面をつけている」
再び仮面を装着し、ヴェリトラは言った。
「つまり、素性を知る相手に存在してもらっては困るんだ」
「ヴェリトラ」
【黒の治癒師】に戻った幼馴染は、いまだ床に額をつけたままの部下に声をかけた。
「エルゲン、後始末をしろ。うまくいったら今回の勝手な行動は不問にしてやる」
「はっ、ありがたきっ」
エルゲンと呼ばれた男が弾けるように立ち上がった。
「おい、待て。ヴェリトラ。手記は――」
しかし、ヴェリトラは背を向けたまま、廊下の奥に消えて行く。
立ち塞がるように両手を広げたのは、部下のエルゲンという男だ。
「さっきは少し油断したが、次は確実に始末してやる」
「悪いが、俺の用事はまだ終わっていない」
相手の脇を駆け抜けようとしたが、その前にエルゲンは壁のへこみ部分に手を当てた。
「ふははっ、ここは我らの実験場だ。貴様には奴らの生贄になってもらうぞ」
「……奴ら?」
ごごごご、という轢音とともに、足元の地面が急に落下を始めた。建物自体に何らかの仕掛けが施されているようだ。能力強化魔法で足の筋力を強化、咄嗟に飛び上がろうとしたが――
「はわあああああっ」
背後で聞いたことのある声がした。
見ると、【情報屋】のピスタが、地階に飲み込まれそうになっている。おそらく柱の陰にでも隠れて様子を見ていたところ一緒に巻き込まれたのだろう。
「くっ」
ピスタのもとにダッシュ、抱え上げて床が落ち切る前に飛び上がろうとしたが、そこにエルゲンの放ったナイフが連続で飛んでくる。
防護魔法と能力強化魔法は同時には使えない。仕方なく防護魔法に切り替える。
「うわ、わ、わあっ、死ぬにゃっ」
「大丈夫だ。ちゃんと防いでる」
立て続けに鋭利な先端がゼノス達に直撃し、ピスタが大声でわめいた。防護魔法のおかげで大したダメージは受けないが、落ち行く床から跳び上がることができなくなってしまった。
そのまま床ごと地下空間に落下し、足元で轟音が鳴る。
暗さで周囲の状況がわからないが、ものが腐った匂いが鼻腔をかすめた。この地下はゴミ捨て場のような場所なのだろう。
地上は高く、ピスタを抱えて跳び上がるのは難儀しそうだ。
「ふん、鼠が入り込んでいたか。つまらん用事で大幹部様を呼び出した罰を受けるがいい」
上からエルゲンの細目が覗いている。
「貴様らはここで朽ちる。二度と会うことはあるまい」
エルゲンは高笑いを残して立ち去った。後には腐臭と静寂だけが残される。
「うぅ……失敗した。やっぱり迂闊に地下の大幹部なんかに近づくんじゃなかったにゃ。もう終わりだにゃぁぁ……」
【情報屋】のピスタは、がっくりと膝をついた。
「そうなのか?」
「そうにゃっ。あんなに高いところ猫人族でも登れないにゃ。ここは日中でも人通りがほとんどないし、大声を出しても誰にも届かない。あたし達はここで飢えて死ぬしかないにゃあああっ」
泣きそうな顔で吠えた後、ピスタはこっちに顔を向ける。
「闇ヒーラーちゃん……その目はなんにゃ。ま、まさかあたしを食料にする気かにゃ」
「いや、飛躍」
「やめろ、やめるにゃっ。猫人族は美味しくないにゃあああああ」
「とりあえず落ち着け」
錯乱するピスタをなだめて、ゼノスは頭上にぽっかり開いた出口を見上げた。
「まあ、頑張れば登れないことはないぞ」
「え、ほ、本当かにゃっ」
「朝になって日が差せば、足場も確認できるし。それは大した問題じゃない」
「さ、さすが闇ヒーラーちゃん、頼もしいにゃ! 惚れそうにゃ。ぺろぺろしていいかにゃ?」
「ぺろぺろがどういう行為かよくわからんが、とりあえず却下」
「くぅん」
「なぜ犬の鳴き声?」
どうでもいい会話で、ピスタも少し元気を取り戻したようだ。
ただ、気になることはある。
エルゲンという男は、「奴ら」という単語を口にしていた。地階で飢え死にを待つだけなら、そんな言葉は使わないだろう。
とりあえず辺りの状況を確認しようと一歩を踏み出すと、足下がぼうっと光った。
「ん?」
見ると地面に魔法陣のような複雑な模様が描かれている。人の気配に反応して発動したのか、その輪郭が青白い光を発していた。
「これは何の……?」
もう一度周辺に目を向けると、地面のあちこちが盛り上がっていた。土がもぞもぞと蠢き、土くれが爆ぜる。中から人の形をした何かが這い出してきた。
「あ、わわわわわあああ!」
ピスタが悲鳴を上げて、後ずさった。
それは髪が抜け、歯が欠け、目が零れ落ち、ただれた緑色の皮膚に覆われた醜悪な怪物だった。
ゾンビ。
何体もの歩く腐乱死体が、いつの間にか周りを取り囲んでいる。
「な、なんで急にゾンビが来たにゃっ」
「さあ……さっきの魔法陣が何か関係しているのか?」
「や、やっぱり終わりだにゃああっ。猫人族は美味しくないにゃああ。闇ヒーラーちゃんのほうが美味しいにゃあ」
「今さらっと生贄に差し出した?」
「だって、ゾンビに食べられるなんて嫌だにゃあああ」
「まあ、大丈夫だ。心配するな、ピスタ」
取り乱すピスタの両肩を掴み、呼吸を落ち着かせる。
「で、でも、闇ヒーラーちゃん、後ろっ」
「ガルルゥッ!」
一体のゾンビが背後から襲い掛かってきた――が、ゼノスの「《治癒》」の一言でそれは灰になって霧散する。
「え?」
目を瞬かせるピスタを横目に、ゼノスは肩をすくめて大量のゾンビに向かい合った。
「大丈夫だって言っただろ。アンデッドは得意分野なんだ」
得意分野だ…!
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