第119話 黄昏色の記憶
四章始めます
前章のあらすじ)地下ギルドの刺客かつ孤児院の幼馴染であるリズの事件を解決したゼノスは、昔孤児院で共に過ごした仲間の中に師匠の手記を持つ可能性がある人物がいることに思い至る。
名はヴェリトラ。
かつて師匠の元に共に治癒魔法を学んだ親友だった。
当時も今も、貧民街には傾きかけたあばら家が幾つも放置されている。
金目のものがあればあっという間に取りつくされるが、柱が腐り、屋根が剥げ、雨避けにすらならないような廃屋には大した価値はない。取り壊す者もいないまま、ただ自然に倒壊するのを待つだけの建物の残骸。
そんな場所の一つがあの頃の修行場だった。
「治癒!」
掛け声とともに、手を前に差し出したのは濃い藍色の髪をした子供だ。体の線は細く、擦り切れそうな汚れた服をまとっているが、髪と同色の瞳には涼やかで強い光を湛えている。
そのほっそりした腕の先に白色光が宿り、それがきらきらと弾けた。
「ほぅ、やるじゃないか。ヴェリトラ」
煤けた壁に背をつけた無精ひげの男が言った。
風雨に浸食された床に腰を下ろし、光を遮断するような漆黒の外套を羽織っている。
男の目がもう一人の子供に向いた。
「しかし、驚いたな、ゼノス。お前が連れて来た友達、やたら飲み込みが早いぞ」
「言っただろ。ヴェリトラは賢いんだ」
ゼノスは孤児院の仲間を見て誇らしげに言った。
行き倒れから金目のものを奪う仕事を孤児院から言いつけられた後、ゼノスは可哀そうな彼らをなんとか生き返らせてみようと独学で魔法を学んだ。行き倒れたあらゆる種族の身体を観察し、想像し、集中し、魔法を練り上げ、ある日蘇生がうまくいきそうに思えた時があった。
そして、見つけた行き倒れに渾身の魔法をかけていた時、
「その力は決して死者には使うな。生きてる者に使うべきだ」
そう声を荒げ、怖い顔で後ろから頭を殴ってきたのが、今壁際にいる黒い外套をまとった男だ。
男はどこか驚いた風に、しかし、何かを観念したような顔でこう言った。
「まさかこんな子供がいるとはな……お前は危なっかしい。力の制御の仕方をきちんと学ぶべきだ」
「力の、制御……?」
以来、男は貧民街の一画のこのあばら家に住み着き、ゼノスに時々魔法の指導をするようになった。あんたは誰だと尋ねたゼノスに、男は少し困った様子でこう答えた。
「俺か? 俺はしがない四流治癒師だよ」
その後――
ゼノスは孤児院の仕事を時々抜け出してこのあばら家に通っていた。
魔法の指導はともかく、男がしてくれる外の世界の話が面白かったのだ。
それが同じ班のヴェリトラに見つかり、一緒に連れてくることになった。
「これが治癒魔法……すごい」
ヴェリトラは感動した様子で、自身の両手を眺めている。
孤児院の同じ班員で、時々頑固な一面もあるが、控え目で優しい子供だ。
性格は異なるが、ゼノスとは妙にウマがあった。
「二回目の指導で、もう魔法を発動できるとは大したもんだ」
「いや、教え方がわかりやすくて……」
ヴェリトラの言葉に、壁際の男は軽く笑った。
「ははは、褒めても何も出ないぞ。お前は理論の飲み込みが早い。純粋に頭がいいんだな」
「だろ? 何度もそう言ってるだろ」
「ゼノス、なんでお前が偉そうなんだ」
男に窘められるが、親友が褒められて悪い気はしない。
ゼノスを見つめて、男はため息交じりに続ける。
「お前はヴェリトラとは正反対の感覚派だな。はまれば力を発揮するが、ムラが大きい。だからこそ、危うくもある」
「難しい理屈は苦手なんだ。治癒師っていうならそれを見せてくれたほうがわかりやすいんだけど」
男は治癒師と名乗った割に、実際に治癒魔法を披露してくれたことがない。
不満げに言うと、男はなぜかえらそうに笑った。
「ふはは、俺様の魔法を目にするのは百年早い。お前らがもっと成長したら見せてやるよ」
「はいはい……」
口だけで全く魔法を見せてくれないので、最近は自称治癒師のペテン師だと思い始めていたが、話は面白いし、指導を受けたヴェリトラが実際魔法を使えるようになっているので、ただの嘘つきでもなさそうだ。
「ゼノス、そろそろ行かないと」
「ああ、そうだな。戻ろう」
ヴェリトラと言葉を交わすと、男が口を挟んだ。
「お前らは孤児院住まいだったな。聞いた感じじゃ随分とひどい場所みたいだが、そんなところに戻る必要があるのか?」
「戻らないと連帯責任で仲間がひどい目に合わされるから」
「……そうか。……まあ、俺は口出しできる立場にはないがな」
男は時々何かを諦めたような表情をする。
「でも、また来ます」
あばら家を去る時、ヴェリトラは振り返って言った。
それはいつもより力強い声色だった。
「それで、その、あなたのことを何と呼べば……?」
ヴェリトラが控え目に尋ねると、男は途端に感動した様子で顔を上げる。
「おい、ゼノス、聞いたかっ。お前の友達ときたらなんて礼儀正しいんだ。おっさんとしか呼ばないお前とはえらい違いだ」
「いや、名前教えてくれなかったのそっちだろ……」
名前を聞いても、そんなもんはとうに捨てた、と教えてくれなかったのだ。
最初は一応「治癒師のおじさん」と呼んでいたが、最近はただの「おっさん」に変化している。
「そうだったっけな? まあなんでもいいぞ。むしろなんて呼びたい? かっこいいお兄ちゃんか?」
「うわ、おっさん面倒臭いな」
「うるせえ、ゼノス。いいじゃねえか。この歳でおっさんと呼ばれ続ける俺の身にもなれ」
「……おっさん幾つなんだ?」
「ふふふ、俺って幾つに見える?」
「面倒くさ……!」
「ゼノス、残念ながらお前を破門する日も近いようだ」
二人でやり合っていると、ヴェリトラが恐る恐る横から言った。
「えっと……じゃあ、師匠、というのは……?」
その言葉に、男は一瞬虚をつかれたような表情になった。
普段は軽口ばかり叩く男が、しばし沈黙をして目を閉じる。
だが、やがてゆっくり頷くと、口元に微笑を浮かべて続けた。
「……ああ、そうだな。俺のことは、師匠と呼んでもいいぞ」
それは黄昏色の、遠い日の思い出だ。