第109話 分かれ道
前回のあらすじ)リリと亜人達は雨の中、ゼノスとリズがいる孤児院へとひた走る
「リリ、この山かい?」
「うん、確かそのはず」
亜人の女首領達とリリは、ようやく貧民街の外れにある山に足を踏み入れた。
「ここは……。まさかゼノス殿はダリッツ孤児院の出身?」
「知っているのか、リンガ」
リンガとレーヴェが走りながら言葉を交わす。
「あまり評判のよくないところだ。と言っても、貧民街に評判のいい孤児院なんかないけど」
苔むした石段を一同は駆け上がる。
ますます勢いを増す雨が、山の斜面を濡らしていた。
「先生は大丈夫かねぇ?」
「大丈夫、とリンガは言いたいが、今回は少し嫌な予感がする」
「あの女は男を惑わす妙な力を使うらしいからな」
「妙な力……」
不安げなリリをちらりと見て、ゾフィアが口を開く。
「もしかしたら、あの女は【混ざり】かもしれないね」
「【混ざり】?」
「正式な名前は忘れたけど、あたしらはそう呼んでる。突然変異的に魔物の力の一部を使えるようになった人間が稀にいるんだ。原因は大量の魔素の被ばくとか、特異体質とか色々言われてるけどさ」
三百年前の人魔大戦で、魔王率いる魔族は滅びたと言われている。
だが、魔王の残り香を含んだ魔素が今も世界中を漂い、魔獣や魔物を生み出している。
「リリ、知らなかった……」
「そもそも【混ざり】は数がすごく少ない上に、迫害の対象になるから本人も隠していることが多いとリンガは聞いている。ある日突然なって、本人もしばらく気づかないこともあるみたいだ」
「ただ、地下ギルドにはそういう者達も少なからずいるらしいな」
リンガとレーヴェが補足をした。
「男を惑わす……ってことは、あの女が使うのはサキュバスの力かねぇ」
「ゾフィアさん、それって……?」
「夢に現れて男を誘う魔物さ。混ざり方によって力の使い方や程度は変わるみたいだけど――」
ゾフィアは少し考えて、こう続ける。
「少なくとも言えるのは、貞操を奪われた男は、完全な操り人形になるはず」
「ええっ」
「そんな真似は許さない。ゼノス殿の貞操をもらうのはリンガ」
「ぬかせ、それは我の役目だ」
「リリも! ……え?」
リリが自身の発言に頬を赤らめると同時に、前方から大きな音が近づいてきた。
巨大な丸太が、激しく回転しながら勢いよく迫ってきている。
「え、わ、わわっ」
「やっぱり一筋縄ではいかないようだねぇ」
ゾフィアはぺろりと唇をなめ、丸太を飛び越えた。
「ふんっ」
レーヴェが肩にリリを乗せたまま、丸太を片手で跳ね飛ばす。
一抱えもある丸太が、小枝のようにくるくると灰色の空を舞い、森の中へと吸い込まれていった。
「はっはー、やるじゃねえか」
前方を見上げると、石段の途中に緑がかった肌の大男が仁王立ちになっていた。
更に、木々の間からも男達がぞろぞろと姿を現す。
ゾフィアは大男を薄目で睨んだ。
「あんた、祭りの襲撃の時の男だね。怪我をしたくなきゃそこをどいてくれないかねぇ?」
「くははっ。はいとでも言うと思うか? リズ様から邪魔者を近づけるなって言われてるんでなぁ。てめえら、かかれぇっ」
男達が一斉に石段を駆け下りてきた。
「ちっ、迎え撃つよ」
「今回リンガは手加減できそうにない」
「リリ、しっかり我に捕まっていろ」
「う、うんっ」
地下ギルドの勢力と、貧民街の覇者達が激しくぶつかる。
肉と骨を穿つ音が辺りに鈍く響き渡った。
身体能力は亜人が上。
雪崩のように押し寄せる男達の攻撃をかわし、的確に反撃をくらわせる。
だが――男達は殴られても殴られてもすぐに起き上がって来る。
まるで痛みや恐怖を感じていないようだ。
降りしきる雨に体温を奪われ、体力も徐々に削られていく。
「こいつら……」
「おそらく操られてると、リンガは思う」
「あの女の傀儡部隊、というわけか。ダイエットなどするんじゃなかったな」
三人の亜人達は肩で息をしながら、互いに素早く目配せした。
「こうなったら、わかってるね」
「仕方ない。ここで全員が足止めを食う訳にはいかないとリンガは思う」
「では、決まりだな」
亜人達の会話に、リリはきょとんとして首を傾げる。
「あの、みんなどう……え、え、えええぇぇぇ?」
言い終わる前に、レーヴェがリリの首根っこを掴んで、大きく振りかぶった。
「え、あの、ちょっと、レ、レーヴェさぁぁぁあぁ」
「頼んだぞ、リリっ」
「ひゃあああああああーーーっ」
レーヴェが思い切り腕を振り、リリの身体が放物線を描いて雨天を舞う。
「は、わ、わあぁぁぁぁぁ―――!」
小さな身体は足止めの男達の遥か頭上を飛び越え、遠く石段脇の腐葉土に尻から着地した。
「うっ、あっ、わっ……」
二、三度、土の上で跳ねた後、リリは混乱しながら立ち上がる。
「ちっ、行かせるかっ」
後を追おうとした大男の目と鼻の先に、飛んできた丸太がどぉんと突き刺さった。
振り返る男の視界に入ったのは、首をこきこきと鳴らすレーヴェだ。
「我らに背中を見せるほどの余裕があるのか?」
「ちっ」
「み、みんな……」
緊迫する光景を見つめたリリは、はっと気づいて踵を返した。
みんなが時間を稼いでくれたのだ。
ここで立ち止まる訳にはいかない。
視線の先にあるのは錆びの浮いた金属の門。
おそらくあの先が孤児院だ。
雨が視界を曇らせる。
顔を何度も腕で拭いながら、リリは懸命に走った。
奴隷商人から買い取ってくれた主であり、一緒に治療院を立ち上げた同居人であり、それを家族みたいなものだと言ってくれた男の名を口にしながら。
「ゼノスっ……」
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灰色の空からは、相変わらず雨が涙のように降り注いでいる。
心臓は激しく脈打ち、肺が空気を欲して喉に鋭い痛みを届ける。
しかし、リリは止まらない。
止まれない。
皆が作ってくれた時間を無駄にしないためにも。
こうしている間にも、地下ギルドの刺客――リズの手がゼノスにせまっている。
必死に腕を振り、息を切らし、わずかに開いた孤児院の門を駆け抜けた。
「ここ、が、ゼノスがいた孤児院……?」
荒く息をするリリの前に現れたのは、黒く炭化した建物の残骸。
随分前に火事にでもあったのか、もはや孤児院の原型は留めていない。
「ど、どこ……?」
視界の中にゼノスの姿はない。
唯一といっていい屋根の下にも。抜けた歯のように寂しげに立つ柱の裏にも。
「ゼノスっ、どこっ……!」
大声を呼び掛けても返事はない。
先ほどとは違う意味で、心臓が早鐘を打ち始めた。
まさか、そもそも行き先を間違っていたのだろうか。
リリはすぐに首を振った。
「ううん、カーミラさんがここだって言ったんだもん。きっと合ってるはず……!」
それに男達の待ち伏せがあったのが何よりの証拠ではないか。
では、どこに――
――女が勝負を決めるなら、向かうのはきっと二人にとっての思い入れのある場所じゃろう。
治療院でのカーミラの言葉がふと脳裏をよぎる。
「秘密、基地……」
いつぞやの食事時。
二人は山中に秘密基地があったという話をしていた。
特別な場所、というならそこかもしれない。
「でも、それって……」
リリは焦った顔で辺りを見回す。
確か秘密基地の近くに泉があるという話もしていた。
しかし、ここからではそれらしきものは見えない。
大人達に見つからないように、孤児院から離れた場所にあるのかもしれない。
「どうしよう……どうしよう……」
リリは頭を抱えて座り込んだ。
諦めてはいけない。せっかく皆が時間を作ってくれたのだ。まだできることがあるはず。
そう自分に言い聞かせ、辺りを丁寧に観察すると、ぬかるみの中に二人分の足跡らしきものがあった。
「あ。これって、もしかして」
リリは跳ねるように立ち上がって、足跡を追うことにした。
それは孤児院の裏門の奥に続いているようだ。
しかし、裏門を出ると伸びた草がぬかるみを覆い隠しており、足跡はそこで途切れていた。
「うぅ……」
今度は獣道とも言えないほどの細い筋が三つ、それぞれ違う方向に伸びている。
きっとこのどれかがゼノスの居場所に続いている。
リリはその場にしばし佇んでいた。
雨音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じる。
「ゼノス……」
瞼の裏に浮かんでくるのは、闇営業の治癒師と出会ってからの日々だ。
奴隷商に矢で撃たれたのを助けてくれたこと。
お腹いっぱいと嘘をついて、なけなしのお金でリリにだけご飯をご馳走してくれたこと。
ぼろぼろだった治療院を、二人で煤だらけになって綺麗にしたこと。
亜人抗争が勃発し、コロシアムで亜人達を治療し続けていたこと。
近衛師団のクリシュナがやってきて、一緒にはらはらしたこと。
みんなで温泉旅行に行ったこと。
王立治療院の寮でシチューを食べたこと。
冷えた夕食を美味しいと言ってくれたこと――
「まだあるもん、まだまだいっぱいあるもん……」
想い出は後から後から溢れ出して止まらない。
過ごした時間の長さは、幼馴染のリズには勝てない。
でも、過ごした時間を大切に思う気持ちは、絶対に、絶対に負けていない。
やがて、瞼を開き、リリは真ん中の道に飛び込んだ。
「この先にゼノスがいる……きっと」