第106話 それぞれの思惑
前回のあらすじ)ゼノスを落とすつもりのリズだが、リリは意外と手強かった
翌日は朝からどんよりとした曇り空が広がっていた。
受付で頬杖をついたリリが、窓の外に広がる薄暗い空を見ながら言った。
「ねえ、ゼノス。ゾフィアさん達どうしたんだろうね?」
ゼノスは闇市で手に入れた古い医学書から視線を上げる。
「何の話だ?」
「もう一週間も治療院に来てないよね。こんなことあまりなかったから……」
「道理で静かで過ごしやすい訳だ」
「もうっ。ゼノスは心配じゃないの?」
「うーん……」
不安げなリリに、ゼノスは医学書を閉じて答えた。
「俺に心配されるほどヤワな奴らじゃないと思うけどな」
「それならいいけど……」
リリははぁと溜め息をついた。
「リズさんもなかなか記憶が戻らないし……孤児院時代のことは大分思い出してるみたいだけど」
今、リズは買い物に行って不在だ。
ゼノスは診察机に置いた医学書をぼんやりと見つめる。
「そうだな……リズ姉は、もしかしたら……」
言いかけると、リリが振り返った。
「もしかしたら?」
「ああ、いや……なんでもない」
ゼノスは立ち上がると、リリの隣に並んで窓の外を眺めた。
「今日は一雨来るかもしれないな」
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重く垂れこめた灰色の雲は、貧民街の上にまで広がっている。
ワーウルフのアジトでは、リンガが膝を抱えてぼうっと天井を見上げていた。
「ボス、最近元気がなさそうですが、どうしたんですか」
部下達が心配して声をかけてくる。
リンガは膝を抱えたまま気のない返事をした。
「……やる気がでないのだ」
「何かあったんですか?」
「……リンガは針なんか入れてない」
「何の話です?」
「なんでもない……」
はぁ、と溜め息をついてごろごろと地面に転がる。
「おい、ボスはどうしちまったんだ?」
「わかんねぇ……」
「貧民街のワーウルフはどうなっちまうんだ」
部下達が不安げに言葉を交わしていると、一人のワーウルフがアジトに姿を現した。
足早にリンガのそばにやってきて耳元で何かを囁く。すると、ぺたんと折れていたリンガの獣耳が、ぴくりと立ち上がった。
「……ふん、なるほど。そういうことか」
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その頃、オークの居城のある岩山では、レーヴェがぼんやりと虚空を見つめていた。
頬はわずかにこけ、その顔に生気が感じられない。
「あの、首領、ちょっとおかしくないですか?」
部下達が不安げに周りを取り囲む。
レーヴェは緩慢な動作で、部下に視線を向けた。
「別に、我はどうもしてないぞ」
「いや、おかしいですよ。首領が一週間も食事をしないなんて。好物の握り飯も食べてないじゃないですか」
「……我は、ダイエットをしているのだ」
「ダイエット? 首領が?」
周囲がおおいにざわついた。
「悪いか。我はか弱き乙女を目指しているのだからな」
「そんなっ。か弱い首領なんて、首領じゃないですよっ」
素直な忠告にレーヴェは軽くショックを受ける。
「ひ、ひどい言われようだ……ちなみに我は今腹が減って気が立っているぞ」
「す、すいませんっ」
部下達がすごすご引き返すと、別の部下がやってきてレーヴェに何かを告げた。
生気のないレーヴェの瞳に、かすかに光が宿った。
「……そうか、危うく騙されるところだったな」
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同時間帯、リザードマンのアジトでは、ゾフィアが足を組んで何かを考えていた。
「どうしたんだ、姉さん?」
「ああ。戻ったのかい、ゾンデ」
弟の姿を認めて、ゾフィアは目を細めた。
人差し指で自身の腕をとんとんと叩き、おもむろに問う。
「ねえ、ゾンデ。ちょっと聞きたいんだけどね」
「なんだい?」
「あんたは仲間を信用しているかい?」
「そりゃ勿論だよ、姉さん。ずっと一緒にやってきたんだ」
「じゃあ、ワーウルフとオークのことは?」
「……」
ゾンデは少し黙った後、こう続けた。
「少し前なら敵以外の何者でもなかったけど……今は違うかな。俺が大怪我した時に、リンガとレーヴェが先生のところまで運んでくれたことは忘れちゃいないよ」
「……」
「それがどうしたんだ、姉さん」
「いや、ちょっと思うところがあってね。それより――」
ゾフィアの目が弟をまっすぐ向いた。
「例の件は何かわかったかい?」
「ああ、一応……」
ゾンデの話を聞いたゾフィアはゆっくりと立ち上がり、上着を手に取った。
「なるほどねぇ、やっぱりそういうことかい。じゃあちょっと行ってくるよ」
「姉さん、どこに?」
ゾフィアは弟を振り返って言った。
「決まってるじゃないか。先生のところだよ」
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同じ頃、廃墟街の路地裏では、買い物途中のリズが、物陰で部下のガイオンと言葉を交わしていた。
「上はどう?」
「相変わらず、急げと。でなければこちらが動くと言ってます」
「ふん、少し前まで地上に興味を示さなかった癖に」
リズが苦々しい表情を浮かべると、ガイオンが心配そうに言った。
「リズ様、大丈夫ですか? 顔色がすぐれねえですが」
「……このところひどい悪夢ばかり見るのよ。おかげでまともに眠れちゃいないわ」
ここ数日、なぜか決まって生首の女が夢に現れ、ひどくうなされるようになった。
眼の下の隈をメイクで隠さなければならない状況で、上に急かされるまでもなく、これ以上長引けばこちらの身が持たない。
「そちらの塩梅はいかがですかい」
「亜人達を遠ざけるところまではうまくいったけど、エルフが意外と面倒ね」
「で、では、どうするんで?」
「勿論、考えてあるわよ。私になびかせる計画はね」
「さすがリズ様です」
今にも泣き出しそうな空を見上げ、リズは薄く笑った。
「今日勝負を決めるつもりよ。だって、絶好の告白日和だもの」
潜入作戦は、密やかに最終段階へと突入する。
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半刻後、重苦しい灰色の空の下、廃墟街の通りを歩く二人の男女の姿があった。
リズとゼノスだ。
「ごめんね、ゼノスちゃん。急に廃墟街を歩きたいなんて」
リズは申し訳なさそうな顔を、隣のゼノスに向ける。
何かを思い出しそうな気がする――エルフの少女がおつかいで留守にした瞬間を狙い、そういう理由でゼノスを散策へと連れ出した。
「いいけど、何か思い出したか?」
「まだ……でも、予感がするの……」
朽ちかけた建物群を、リズは目を細めて眺めた。
頬を撫でる風は生温く、空気はじっとりとした湿り気を帯びている。
今しがた通り過ぎた廃屋から、カタと音がした。
「きゃっ」
リズがゼノスに抱き着く。
「リズ姉、猫だよ」
にゃあと猫が鳴いて、通りを走り去って行った。
「あ、なんだ、びっくりした」
リズはほっと息を吐いて、ゼノスからゆっくり離れた。
「ゼノスちゃん、それにしても大きくなったわね。前はこんなにちっちゃかったのに」
「ま……なんとかな」
何気ない会話に感慨が混じる。
孤児院には大きくなれないまま人生を終える子供達が大勢いたことを二人は知っている。
「昔もよく抱きしめてあげてたわね、ゼノスちゃんのこと」
「そうだったっけ?」
「そうよ、夜泣きした時とか」
「俺は夜泣きなんかしてない」
「ええっ、してたわよ。たまに」
「してない。絶対してない」
「意地っぱりなのは昔からねぇ」
そのまま廃墟街を一周し、二人は治療院が見える場所に戻ってきた。
「で、何か思い出せたか、リズ姉?」
「うん、もうここまできている気がする。あと少しきっかけがあれば」
リズは頭を両手で押さえ、おもむろに言った。
「ねえ、ゼノスちゃん。もう一つ寄りたいところがあるの。つきあってくれる?」
「もう一つ……?」
ゼノスは空を見上げた後、治療院のほうへと目を向けた。
「でも、そろそろ雨が降りそうだし、あまり遅くなるとリリが心配するかもな」
「お願い、ゼノスちゃん。今を逃したらまた思い出せなくなるかもしれない」
真剣な表情のリズをじっと見つめ、ゼノスは口を閉じて頷いた。
「……わかったよ。どこに寄りたいんだ?」
ごくりと喉を鳴らし、リズは目的地を告げる。
「――ダリッツ孤児院。私達の始まりの場所」