第102話 破格の力
前回)ゼノスが支配者ではなく治癒師だという事実が判明し、リズはショックを受けた。
「どうしたんだ、リズ姉?」
「大丈夫、リズさん?」
「い、いや、なんでもないわ」
ゼノスとエルフの少女に心配そうに覗き込まれ、リズはゆるゆると首を振った。
貧民街の散策中に思わず判明した事実。
ゼノスは支配者ではなく、単なる治癒師。
だから、亜人達が慕っていたのだとようやく気づいた。
――私の苦労は何だったのよ……。
あまりの徒労感に膝をつきそうになる。
決死の思いで相手の懐に飛び込み、濃い女達に囲まれ、肌に悪い徹夜までして手を尽くしたというのに。
「リズ姉、なにか嫌なことでも思い出したか?」
ゼノスは困った様子で言った。
「なんか、無理に連れて来て、すまん。ちょっと急ぎすぎたかもな」
「う、ううん、ゼノスちゃんは気にしないで。ありがとう」
心で泣いて、顔で笑う。
寝ている時にゼノスに傷をつけようとしたが、防護魔法とやらで全く傷がつかなかった。
血を飲ませる方法も昔試したことがあるが、薄まってしまってあまりうまくいかない。
なんとか隙をつけないかと思っていたが、ゼノスが支配者でないならば、全ては無意味だ。
そもそも支配者の存在自体が怪しくなってきた。
――あれ? でも、ちょっと待って。
リズはふと顔を上げた。
「ねえ、ゼノスちゃんは防護魔法を使うのよね?」
「ああ、そうだけど」
「それなのに治癒師ってどういうこと?」
「ん? 防護魔法も治癒魔法も使うってだけだが」
「そうなの? そんなことってできるの?」
「前にも誰かに言われたけど、どっちも身体の機能を強めるという意味では一緒なんだけどな」
「ふぅん……」
そういえば祭りの時、ゼノスは部下のガイオンが投げた爆弾の魔石を素手で受け止めたと聞いた。防護魔法は相当なレベルだ。メインはあくまで防護魔法で、回復魔法は初級程度のものなのだろうか。
「まあ、とりあえず一回戻ろうか、リズ姉」
「あの……私は、もうちょっとここで思い出してみるから先に行ってて」
「そうか、付き添いは大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ちょっと一人で考えたいの」
「わかった。でも、あまり無理はするなよ」
ゼノスはエルフの娘を引き連れて、通りの奥に消えていった。
リズは脱力したようにその場に佇んでいた。
こうなった以上、もはや行動を共にする意味はない。
今後の身の振り方も含めて考え直さなければ。
「ここで功績を上げておきたかったのに……」
リズは呻くように言って爪を噛んだ。
「リズ様」
崩れかけた煉瓦の壁の後ろから、ふいに名前を呼ばれた
隙間から顔を覗かせているのは部下のガイオンだ。
リズは周囲を確認して、壁の後ろにまわりこんだ。
「私達をつけてたの?」
「え、ええ。一応様子を……」
「って、あなた、その顔どうしたわけ?」
よく見ると、顔も身体も青あざだらけだ。
「そ、それが、上にやられました」
「……」
リズは押し黙った。
唇があちこち切れたガイオンは、少し怯えた顔で口を開く。
「リズ様、上は焦れています。貧民街はいつ手に入るんだと」
「そんなこと言われても……」
注意しながら最短でやってきたつもりだ。
「というか、そもそも彼は支配者じゃなかったのよ」
「ええっ、本当ですかい?」
「だから、そう簡単に――」
言いかけると、ガイオンは小さく首を振った。
「リズ様。上の指示は変わりません」
「……」
そうだ。言い訳が通じる相手ではない。
一体、どうすれば――
その時、通りの奥で物々しい叫び声が響いた。
「刺されたぞっ」
「通り魔だっ」
リズはガイオンを睨みつける。
「あなた何かした」
「お、俺じゃねえです。ですが、もしかしたら……」
その場を駆け出し、リズは騒ぎのほうへと向かった。
リザードマンが一人、脇腹を押さえて仰向けに倒れている。
「おい、大丈夫かっ」
「犯人はどこに行った?」
「わ、わかんねえ」
「後ろから急に刺されたみてえだ」
混沌とした現場で、リズは倒れているリザードマンのそばに一枚の紙が置いてあることに気がついた。
拾い上げると、そこには一言、地下の暗号で「急げ」と書かれている。
「……」
時間がかかるならば実力行使で動け、という上からのメッセージだ。
これが地下ギルドのやり方。
ただ全面戦争にはまだ早いとリズは思っていた。
末端の亜人達を血で操って多少の混乱を起こすことはできるが、操れるのは血が代謝されるまでの時間であり、それほど長くはない。しかも、操り続けるには血を頻回に注入する必要があるため、同時に操れるのは数人が限度だ。
亜人は数が多い。仕掛けるには周到な準備が必要だ。
やはりトップを押さえてしまうのが最適だが、亜人の頭領はみんな女だ。
支配者の存在も疑わしくなった今、一体どう貧民街を切り崩せばいいのだろうか。
焦燥を覚えていると、黒い外套の男がエルフの少女を引き連れてやってきた。
「怪我人はどこだ?」
「ゼノス先生、ここです」
リズは手にした紙を懐にしまった。
「ゼノスちゃん」
「あれ、リズ姉もいたのか?」
「え、ええ、こっちで騒ぎがしたから……」
ゼノスは怪我人のそばに膝をついた。
倒れているリザードマンの顔色は悪い。
大きな血管に刺さったのか、脇腹からは血が溢れるように流れ出している。
地下ギルドで様々な死に触れてきたからわかる。
もうこの怪我人は助からない。
ところが――
「いやぁ、よかった。たまたま先生が通りを歩いてて」
「本当だな、危ないところだった」
今にも仲間が死にそうだというのに、野次馬達はやけに弛緩した空気を醸し出している。
いや、瀕死の怪我人すらもどこか安心したような表情をしていた。
当のゼノスも顔色一つ変えず、怪我人の脇腹に手を添える。
「まあまあ深いな。血管壁の修復、内臓壁の治癒、腹膜と筋組織、皮膚の再生、だな」
ぶつぶつと呟き、手をかざすと、煌めく白色光が周囲に舞った。
そして、鱗粉のようなきらきらとした光が消えた頃には、怪我人の傷はすっかり塞がっていた。
「は……?」
「よし、もう大丈夫だぞ。ただし、治療費は忘れるなよ」
「勿論だ。助かったよ、先生。ありがとう」
何事もなかったように立ち上がったリザードマンを眺め、リズは呆然と呟いた。
「嘘……でしょ……」
手遅れに見えた怪我人が、ほんの一瞬で復活した。
見たこともない光景に、リズは何度も瞬きをする。
畏怖とともに湧き上がるのは、暗い興奮だ。
孤児院の仲間ゼノス。
彼は貧民街の支配者などではなく、一介のヒーラーだった。
だが――
その力は破格であり、亜人達を一つにまとめられるほどのものだ。
まだ終わっていない。
この人物を操ることができれば、私の悲願が叶うかもしれない。
リズは人込みに紛れて現場を離れ、街角で待つガイオンに言った。
「もう少しだけ待って、と上には伝えて」
「え、ええ、わかりました。大丈夫ですか、リズ様?」
リズはゆっくりと頷いた。
防護魔法のせいで傷をつける試みは失敗した。
万が一うまくいっても、血を流し込む前にあの驚異的な回復魔法で修復されてしまうかもしれない。
つまり、ゼノスに血を流し込むことはもはや現実的ではない。
ただ、一つだけ手がある。
「傷がつけられないなら、女としての魅力で彼を虜にするわ」
血を使うのはあくまで代替手段。
サキュバスの本当の力は、男と身体を合わせた時に発揮される。
奥の手は、貞操を奪うこと。
そうすればもう防護魔法も治癒魔法も関係ない。
サキュバスの魔力を直接流し込んで操り人形にできる。
そうつぶやくと、ガイオンが驚いた顔をした。
「て、貞操ですか。あんな男の何がいいんですか」
どうやらゼノスのことを言っているようだ。
「なんであなたがそんなことを気にするのよ」
「い、いえ、別に……」
「私はね、ガイオン。何がなんでもここで成果を上げなければならないの」
ゼノスの周りに女はたくさんいるようだが、頭のいかれた変わり者ばかりだ。
女としての魅力では確実に勝てる自信がある。
今までは侵入して支配者に近づくのを第一目的にしていたが、ここからは方針を変える。
手練手管を駆使して、ゼノスを虜にするのだ。
リズは人差し指を口にふくんで笑った。
「待っててね、ゼノスちゃん。本気であなたを落とすから」