六.
靄が路上を覆っている。まるで雲の上を歩いているように思える。中学校の裏通りには、僕のほかに歩いている人はいない。中学校は、何年か前まで通っていた小学校の隣だから、ここは小学校の裏通りでもある。
ああ、これは夢だ。路上を歩いている僕ではない、別の意識がそれを認識している。ここには、前にも何度か来たことがある。この先、小学校の裏手辺りから入る横道に、古びた本屋さんがある。夢を意識していない僕の足は、そこに向かっている。そこに本屋さんがあることを最初に知ったのは、小学生の時だったな。小説雑誌が見つからなかった時、その本屋さんでやっと見つけたんだった。見つけられなかったら毎月買っている雑誌に穴が開くところだった。
・・・あれ? 見つけた本屋さんは夢の中だった、よな。今も夢を見ていることを自覚しているし。けれど、雑誌を入手したことは夢ではなかった。夢で買ったものが現実で手に入るわけはないし・・・まぁ、気にしないことにしよう。手に入れることができたのだから、それで充分だ。
いつの間にか、僕は靄の中に浮かぶ古びた書店の前に立っている。相変わらずくすんでいるガラス戸は、昔よりも力のついた今でもまったく動かせず、空いている隙間から滑り込むように中に入る。髪の長い多分女性店員もいつもと同じようにカウンターの中にうっそりと佇んでいる。書棚に並べられた本は、店の雰囲気とは違って皆新しいのも普段通り。
壁に並ぶ二つの本棚の間に隙間がある。その向こう、カーテンで隠された奥にも本棚があることに気付いたのはいつのことだったか。奥まった場所にある、いつ見ても空っぽの目隠しされた本棚。これに気付いて以来、もったいない、と思っていた。古い割には綺麗だし、埃もない。使わないのなら、僕に使わせてもらいたい。
(あの)
店の入口に戻ってカウンターの店員に声をかける。会計でもないのに声掛けしたのは初めてだ。彼女は俯けていた頭を上げて僕を見た。手入れしているようには見えない黒い長い髪が顔を覆っていて、本当に僕を見ているのかどうか判らないが。
(あの、あの奥に、使っていない本棚、ありますよね。ええと、あそこに僕の本を置かせてもらいたいんですけど、あ、売り物ってわけじゃなくて、部屋が本で狭くなっちゃったから、普段読まない本を置かせてもらえないかなって)
いつになく饒舌に僕は喋った。我ながら無茶なことを言っていると思う。けれど、思いついた勢いのままに僕は喋っていた。
店員は黙ったまま、僕の指差した書棚の方をゆっくりした動作で振り向き、またゆっくりと僕に顔を向けた。そして、微かに僕に頷く。
(良いんですか?)
自分からお願いしたのに、相手の反応に驚いてしまう。たまに来る客に空いている本棚を貸してくれるなんて、なんて寛大なのだろう。彼女はまた、頷いた。
(ありがとうございます。えっと、保管料もお支払いします)
今度は彼女は、首を横に振った。
(え? お金は良いんですか? でも、無理を言って置かせてもらうんだし)
店員は微かに首を振り、僕を見て──本当に見ているのか相変わらず判らないが──今度は頷いた。
(ありがとうございます。じゃ、今度から使わせてもらいます)
これで、僕の本を何冊か、何十冊か、あそこに置かせてもらえる。店構えは薄汚れているし、店自体も古いけれど、本を保管する環境としてはあの本屋さんは最高だと思う。余計な光は入ってこないし、いつも視界の外側は靄がかかったように霞んでいるのに湿度もそれほど高くない。あの本屋さんの書棚は、まさに理想の書庫だ。