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近代史異聞

東條英機異聞

 東條英機は極悪人だった、という印象を戦後の日本人は持っています。いや、持たされています。極東国際軍事裁判によって有罪とされ、絞首刑に処せられた東條英機は、軍国主義によって日本を戦禍に陥れ、世界を侵略しようとした独裁者と評されてきました。悪く言われることはあっても決して誉められることのない日本近代史上の人物です。

 そんな戦後の東條評は、江戸時代における石田三成評に似ています。徳川幕府は政権の正統性を誇示するため、いわゆる三成悪人説を流布させ続けました。これと同じように日本を占領した連合国は自己正当化のため、東條をはじめとする日本の指導者を戦争犯罪人として世界に印象づけたのです。戦後日本の言論人は、江戸期の御用学者や戯作者が三成悪人説を吹聴したように、東條を悪党として酷評しつづけています。

 しかしながら、真実はこれとは異なるようです。東條英機という人物のなによりも際立った特徴は、真面目の一語に尽きるのです。その言動と実績からは、ただ生真面目さだけが読みとれます。そこには悪の要素がまったく見当たりません。東條に対する悪評は掃いて捨てるほどありますが、そのいずれもが真面目さの裏面としての些細な軋轢です。極端なまでの真面目さゆえに堅物として嫌われ、敬遠されただけのことです。

 東條英機の真面目さを証拠づける証言は多々あります。しかし、東條の悪事を証明する根拠は皆無です。あるのは、ただ、戦勝国によるプロパガンダのみなのです。


  ―*―


「努力即権威」

 これが東條英機の座右の銘でした。ともかく真面目に努力し続ける男でした。真面目といっても、ひ弱で内向的なマジメ人間ではありません。なにしろ軍人です。周囲にまで真面目たることを強制するような烈々たる闘争心を基底とする攻撃的かつ自己顕示的な真面目人間でした。

 少年期の東條は喧嘩ばかりしていたようです。身体は小さくとも激しい闘争心で相手を圧倒するような喧嘩をしたといわれます。学生のあいだでは目立つ存在だったらしく、東京陸軍幼年学校時代、二十名ほどの先輩によって袋だたきにされたことがあったようです。これがよほど悔しかったらしく、東條は喧嘩をやめました。そして、それまで見向きもしなかった勉強に精を出しはじめます。腕力での敗北を勉学で取り返そうとしたようです。

 東條の勉強方法はメモです。ありとあらゆる事柄をメモにとり、そのメモを几帳面に整理しました。同じ内容のメモを三種類つくり、アイウエオ順、時系列順、分類別で検索できるようにメモ集をつくりあげました。東條流のデータベースです。そして、時に応じて引用しては繰り返し読んで暗記し、確認しました。メモの内容に誤りを発見した場合には徹底的に調べ直して修正しました。この勉強法を東條は晩年まで続けたのです。驚異的な努力家といえるでしょう。努力の甲斐はありました。東條は難関の陸軍士官学校に入学し、さらに陸軍大学校へと進みました。陸軍という組織内の選抜集団に仲間入りしたのです。

 東條は努力の信奉者になりました。早朝から深夜まで刻苦勉励の日々を送ります。東條がやや異常だったのは、他者に対して強烈に努力を強要したことです。自分と同じように努力しない者を嫌悪し、侮蔑し、遠ざけました。友人であれ、同僚であれ、有能な部下であれ、家族や親類縁者であれ、努力せぬ者には容赦しませんでした。しかも、人並みの努力では満足しませんでした。そのため多くの人々が東條に説教され、譴責され、排斥されました。その結果、多くの人々が東條を敬遠しました。怠惰や遊興はもちろんのこと、息抜きの娯楽でさえ東條にとっては悪だったようです。

「貴様はなぜ努力せぬ。なにを遊び呆けておるか」

 闘争心のままに東條は叱責します。言われた方は腹が立ちます。そもそも余計な御世話です。酒を呑もうが女を抱こうがこっちの勝手です。

「ほっとけ」

 と東條に反抗する者が多かったようです。その場では畏れ入ってみせる者も、内心では不愉快です。東條のいないところで悪評を流しました。

「東條は酒も呑まぬ。女も抱かぬ。小心者の一穴居士だ」

 東條には奇癖がありました。酒も呑まず、女も抱かず、歌も唄わないくせに宴席に招かれれば律儀に出席しまいた。東條英機個人が招かれているわけではなく、官職ゆえに招かれていたからです。酒席が嫌いならば「都合が悪い」とでもいって欠席すればよさそうなものですが、東條は生真面目に出てきました。仏頂面で宴席に座り、酌婦を追い払い、同僚の乱痴気騒ぎを苦々しい顔で睨みつけます。やがて起ち上がると酔っ払いたちに向かって説教し、言うだけ言って帰っていくのです。まるで悪者退治でした。ひょっとしたら自分の克己心をそんなかたちで試していたのかもしれず、あるいは欲求不満をそんな奇妙な形態でしか発散できなかったのかもしれません。

 世の中に努力家は少なくありませんが、人知れず努力するのが粋というものです。しかし、東條は努力を隠しませんでした。むしろ誇示しました。おのれの努力を証明するため、他者の小さな過誤をけっして許しませんでした。書類にわずかでも間違いを見つけると責任者を呼びつけ、雷を落としました。部下の報告に矛盾があれば、それを見逃さずに叱りつけました。

「貴様は某月某日、このように報告したが、今日の報告と違っておるではないか」

 自慢のメモを動かぬ証拠として叱責したのです。まさに野暮な正義漢でした。

 東條の自信の源泉は努力であり、その努力はメモの蓄積として具象化されていました。この自信はときに過剰となりました。専門外のことに口を出し、アレコレと解ったような顔で質問したり、意見したりしました。その素人論を専門家に嘲笑されることもありましたし、専門家の意見を無視して失敗するという弊害もありました。ですが、良い意味で専門家に呑まれることがありませんでした。東條にとって失敗は小事だったのです。努力信奉者の東條にしてみれば、成功するまで努力すればよいだけのことでした。

「努力家ですね」

 人からそう言われると東條は相好(そうごう)をくずして悦びました。しかし、「頭が良いですね」とか「世間ではカミソリ東條と言われていますよ」などと言われると、激怒して口を利かなくなりました。必ずしも自惚れ屋ではなかったらしく、阿諛追従(あゆついしょう)が大嫌いでした。


 東條英機の努力信仰に辟易(へきえき)させられた人は少なくありません。山田玉哉(たまや)もそんな一人です。山田玉哉は東條の(おい)にあたります。不幸なことに、この伯父(おじ)と甥は正反対の性格でした。伯父の東條英機は歩兵科で、勤勉と努力の信奉者です。甥の山田玉哉は騎兵科で、心のゆとりと人間性をつねに大切にしていました。ふたりは年令も階級もはなれていたし、山田の方が意識的に口うるさい伯父を避けていたので、めったに顔を会わせることはありませんでした。

 それでも同じ陸軍に勤務していれば時には遭遇してしまいます。この両者が顔を会わせるとき、それは東條の叱声が飛ぶときでした。山田玉哉にとっての不幸な邂逅(かいこう)の数々を列挙すれば次のとおりです。

 山田玉哉がまだ少尉になりたての頃、趣味人の山田は、隊務を終えると料亭やダンスホールに通い、社交ダンスや三味線や尺八を習いました。ときには仲間と共に芸者をあげてドンチャン騒ぎをすることもありました。

 ある日、東條伯父から山田少尉に呼び出しがかかりました。山田が顔を出すと伯父に大喝されました。

「お前は夜な夜な芸者をあげて騒いでおるが、いったい何をやっとるか。不届きなヤツだ。それでも帝国軍人か」

「いったい誰がそんなことを言いましたか」

「地元の憲兵隊長に調べさせておいたのだ」

 憲兵隊長に身内の素行を調査させるというのはやや常軌を逸しています。

 こんなこともありました。山田玉哉が陸軍士官学校の馬術教官だった頃、東條伯父が同校の監事でした。ある日、ふたりは偶然に校内で出くわします。

「お前!こんなところへ何で来とるか!」

 怒鳴りつけたのは東條です。しかし、山田にしてみれば馬術教官を務めているのですから、ここに居て当然なのです。叱責の理由がわかりませんでした。東條伯父は甥のことが気になって仕方がないらしく、歩兵科出身であるにもかかわらず、なにかと騎兵畑の事柄に口を出すようになりました。馬匹(ばひつ)検査がどうの、馬蹄(ばてい)がどうのと、東條は口うるさく素人論をまくし立てます。騎兵科の将校には異議がありました。しかし、監事の面子を人前でつぶすわけにもゆかず、無表情に押し黙っていました。山田玉哉もそうしていました。

(いろいろ細かいことを言うなあ。監事たる者は士官学校の大綱だけをつかんでおればよいのに。東條伯父はそもそも歩兵科だろう)


 支那事変が勃発すると、関東軍参謀長だった東條英機は兵団を率いて山西省に作戦します。東條兵団は電撃的に張家口を制圧すると、さらに西進して大同市街に司令部を置きました。一方、板垣兵団に所属していた山田玉哉も騎兵中隊長として山西作戦に参加し、一足おくれて大同に到達しました。

「臨時東條兵団司令部」

 という大標札が山田の目に止まりました。山田は中隊に小休止と下馬を命じ、司令部の前まで行きました。東條伯父に、というより東條兵団長に申告しようと思ったのです。しかし、山田はきびすを返します。急に気が重くなったのです。会えば怒鳴られるに決まっています。

「乗馬」

 山田は騎兵中隊を次の作戦地へと進軍させました。


 そののち東條英機は累進し、昭和十五年七月、陸軍大臣に就任します。山田玉哉は東條伯父の陸相就任を危ぶみ、忠告しました。

「伯父さんのように世の中の裏表も知らず、清濁あわせ呑むの雅量に欠ける人は汚い政治になどかかわらない方が良いですよ」

「うるさい!キサマに何がわかるか。黙っていろ」

 陸軍大臣となった東條は、身内を依怙贔屓(えこひいき)することをまったくしませんでした。身内を贔屓している、と他人から疑われることさえ避けようとしました。そのために極力、親類縁者の存在を無視しました。山田玉哉も無視されました。

 その頃、山田玉哉は陸軍省兵務局課員として勤務していました。幸い、伯父と甥は、あまりに身分が違いすぎていたので、めったに会うことはありませんでした。ところが、ある日、急ぎの大臣決裁を要する案件が兵務局内に持ち上がりました。

「君は大臣と親類だろう。頼むよ」

 山田にお鉢が回ってきました。山田は大臣決裁を得るべく、書類を手に陸軍大臣室のドアをノックしました。山田の顔を見るなり東條は怒鳴ります。

「お前!こんな所へ何で来とる!」

「大臣、急ぎの案件がございますので、お邪魔いたしました」

 山田は書類を示し、内容を説明し、決裁を求めました。東條大臣は、なぜかカンカンになって怒り、普段ならば綿密に書類を検討するはずなのに、このときばかりは検討もソコソコに決裁してくれました。即座に決裁してくれたのはありがたかったのですが、理由もないのに叱責されて山田は不愉快でした。とはいえ、東條には理由がありました。依怙贔屓してはならないという自己規律を極度に遵守していたのです。

 東條英機陸軍大臣が東京陸軍幼年学校を訪問したときのことです。ここは東條の母校です。東條陸相は生徒全員を前にして講演し、そののち校内巡視をしました。幼年学校の校庭には「十二階」と呼ばれる階段状の台が置かれています。この台を使って生徒たちは飛び降りや中抜きをして心身を鍛えるのです。

 巡視のために東條陸相が「十二階」のそばを通りかかったとき、ちょうど山田玉哉が教官として飛び降りの指導をしていました。東條陸相が山田を呼びつけます。

「ちょっと来い」

 呼ばれた山田が歩き出すと、東條がおっかぶせます。

「駆け足!」

 山田は生徒のように駆け出さねばなりません。生徒の前で面子(めんつ)をつぶされたようなものです。ふてくされ気味の山田に東條は意外な質問をしました。

「あの十二階の高さはどのくらいある?」

「はあ、だいたい七、八メートルくらいでしょう」

 山田は不満げに返答しました。すると東條は間髪を入れずに怒鳴りつけました。

「キサマッ、でしょう、とは何だ。だいたい、とは何だ。そんないい加減なことで軍人がつとまるか。何メートル何センチ何ミリか!」

 これほどひどい過干渉を受け続けた山田玉哉でしたが、伯父と甥という縁の遠さが心の平衡を保たせてくれました。また、心のゆとりをモットーとする山田は、東條伯父を激しく憎んだりはせず、煙たがりながらも伯父の美点にまで観察をゆきとどかせていました。

 カミナリ親父で怒りん坊の東條伯父ではありますが、その勤勉と努力には確かに敬服せざるを得ません。現場指揮官としての有能さは山西作戦で実証されていました。官僚としても、事務処理の迅速さと正確さは群を抜いていました。

 朝から晩まで公務に邁進する東條伯父は、囲碁将棋ていどの趣味さえ持ちませんでした。そして質素倹約でもありました。少食の東條は、わずかの粗食で長時間の任務に耐えました。支那事変が始まると東條家には全国各地から様々な物産品が送られてくるようになりました。東條は家人に命じ、それらの贈り物に礼状を添え、ことごとく送り返させました。そこまで徹底して私利私欲とは無縁だったのが東條です。

 東條伯父は、努力しない者や不真面目なものを強く嫌悪する反面、懸命の努力をする者には惜しみない支援を物心両面から与えました。過酷な演習を強いられる兵隊たちにとって東條は温情あふれる隊長でした。

 ガミガミと口うるさい東條伯父とて、もちろん木石ではありません。きびしく叱りつけながらも気にかけている、という風でした。任務多端の折りにもかかわらず山田玉哉の結婚式に出席してくれました。葬式に出席すれば涙を流し、ときに嗚咽(おえつ)をもらすこともありました。

 部下が金策で苦しんでいると、東條家の苦しい家計から金をひねりだして面倒を見てやりました。そのたびに妻の勝子は親類から借金せねばなりませんでした。部下が病気をして入院すると、家族に命じて重湯(おもゆ)を届けさせました。

 連隊長時代の東條は、頻繁に兵舎の裏を見回りました。いじめられて泣いている兵がいるからです。風呂を見回ることもありました。初年兵が入る頃には湯がぬるくなっていることがよくあったのです。そんなとき東條は追い焚きをさせました。

 東條の部下が妻を亡くしたことがあります。難産が原因でした。さいわい乳飲み子だけは無事でした。

「お前、育てろ」

 その赤子を妻の勝子に手渡しながら東條は言いました。

 家庭内では子煩悩な父親でした。犬好きの東條はいつも犬を飼っていましたが、子供にせがまれて猫も飼うようになりました。妻の勝子のことは「おい」と呼んでいましたが、姑のいじめから妻をかばう優しい夫でした。


 東條英機が陸軍大臣になった頃、すでに日本は存亡の危機にありました。アメリカの対日経済封鎖が強化され、ついに在米日本資産凍結と対日石油輸出禁止が実行されたのです。

 アメリカ合衆国が日本に対する石油輸出を禁止して二ヶ月が経過した昭和十六年十月十二日、荻窪の近衛文麿邸に近衛内閣の主要閣僚があつまりました。近衛文麿総理、東條英機陸相、及川古志郎海相、豊田貞次郎外相、鈴木貞一企画院総裁です。いうまでもなく対米交渉について議論するためです。

 口火を切った東條陸相は豊田外相に問いました。難航している日米交渉に妥結の目途があるのか、それとも無いのかをです。豊田外相が答えます。

「それは条件次第だ。支那への駐兵に多少のアヤをつければ交渉はまとまる可能性がある」

 支那から撤兵するという条件をアメリカ側に提示すれば交渉妥結の余地がある、というのが豊田外相の意見です。これに近衛総理が賛意を示しました。支那事変は拡大の一途をたどっており、しかも決着する見込みがありませんでした。いっそのこと支那から撤兵して戦線を縮小し、あわせて日米交渉もまとめられるなら万事が丸く収まります。

 これに東條陸相は猛然と反論しました。人並み優れて几帳面な東條は、日米双方の外交電文を誰よりも熟読し、交渉過程の詳細については豊田外相以上に知悉(ちしつ)していました。東條は、これまでの交渉経過からみてアメリカ側には譲歩の態度が欠片もないとし、自説を開陳します。

「交渉妥結の見込みはないと思う。およそ交渉は互譲の精神がなければ成立するものではない。日本は今日まで譲歩に譲歩を重ね、米側の要求を認めてきた。しかるに米側の現在の態度には妥結する意思がまったくみられない」

 日本人は外交を互譲の原理で考えます。互いに譲り合い、我慢し合い、それでまとめていくという日本的論理です。しかし、互譲はあくまでも日本の原理であるに過ぎません。欧米列強の外交原理は弱肉強食であり、相手が譲れば、さらに追撃するのが外交セオリーでした。

 日米交渉の難航は、一面、日米の文化の相異に根本原因があったともいえるでしょう。アメリカだけでなく世界の外交原理はホッブス的略奪原理であり、その原則は優勝劣敗です。勝者が一方的に敗者を支配するのです。この点が日本人には感覚的に理解しきれていなかったようです。

 アメリカ的な外交感覚を例外的に身につけていたのは前外相の松岡洋右(ようすけ)でした。アメリカ仕込みの松岡は、力の論理を信奉しているアメリカに対し、力の論理で対応しました。日独伊三国同盟と日ソ中立条約を成立させ、対米ユーラシア同盟を形成しようとしたのです。この松岡外交は半ばまで成功しました。その証拠に、それまでかたくなに交渉を拒んでいたアメリカが日米交渉に応じてきたのです。ですが、そののちドイツとソ連が戦争を始めてしまったため、松岡外交は破綻(はたん)します。するとアメリカは対日姿勢を急激に硬化させました。

 そうした顛末(てんまつ)を陸相として眺めてきた東條は、アメリカ側には交渉妥結の意思がないと判断し、アメリカ側の要求を峻拒(しゅんきょ)すべきだと意見したのです。これに対して就任したばかりの豊田外相は、外交的解決に対する希望と意欲を多分にもっており、日本が譲ればアメリカも譲るはずだと考えていました。

 外交論とは全く別の次元から発言したのは及川海相です。

「今やわが国は外交で進むか、戦争の手段によるかの岐路に立っているものと考える。その何れを選ぶかは総理が判断してなすべきものである」

 和戦の決定を総理に一任すると言ったのです。この発言の裏には、早く決断して欲しいという海軍の底意がありました。戦争をするなら早い方が有利である、というのが海軍の判断だったからです。

「それは内閣制度に反する」

 東條陸相は及川海相に反論しました。日本の内閣制度は総理の独裁権を認めておらず、全閣僚の合意によってはじめて内閣は意思を決定することができます。法規に詳しい東條らしい発言です。

「及川大臣はそうおっしゃるが、そう簡単にはいかない」

 及川海相は黙りました。海相にしてみれば、内閣制度のことなどは百も承知でした。そのうえで総理の決断を促したのです。それを杓子定規(しゃくしじょうぎ)な制度論で否定されたので発言意欲を失ってしまいました。これとは対照的に東條陸相は大いに陸軍の事情を弁じます。

「すでに陸軍は先月の御前会議の決定に基づいて兵を動かしつつあるのだ。ただ単にやってみるという外交では困る。統帥(とうすい)部の要求する期日内に交渉を成立させるという確信が持てるならば、外交で進むがよろしい。しかし、あやふやなことではこの大問題は決められぬ。まさか、お忘れではあるまい。帝国は自存自衛を全うするため対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとに概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」

 東條陸相は、先月の御前会議で決定された帝国国策遂行要領の一文を声高に暗唱しました。ここでいう対米英蘭戦争というのは南方作戦のことです。石油途絶という最悪の事態に直面している日本軍は、軍事作戦によって石油を確保するため南方作戦を立案し、各部隊の編成と訓練を終え、すでに動員しつつありました。その見通しは「勝算あり」です。東南アジア所在の英米蘭軍を撃破し、ほぼ半年で南方の油田地帯を確保することは可能だと予想されていました。

「交渉妥結の目途がなければ開戦すると九月六日の御前会議で決めてあるのに、どうしてそれを今になって躊躇(ちゅうちょ)するのか」

 東條陸相にとって対米英蘭戦争は既定事項でした。すでに御前会議で決定されていたからです。「対米英蘭戦争を辞せざる決意」という文言を東條陸相は開戦決定と解釈していたのです。しかし、豊田外相の見解は違いました。

「決意は決意であって、決定がなされたわけではない」

 こう反論した豊田外相は、九月の御前会議の際の裏事情を言い添えました。

「こんなことを今さら言うべきではないが、遠慮ない話を許されるならば、どうも九月六日の御前会議決定は軽率であった。前々日に書類をもらって、それで」

 当時、外相に就任したばかりで十分な吟味の時間がなかったのだ、と豊田外相は正直なところを言いました。この発言は、生真面目すぎる東條陸相を激怒させるに十分でした。

「そんな甘い考えじゃ、いかんじゃないか」

 東條陸相の判断根拠は、何よりも勅語や勅諭であり、御前会議の決定事項であり、国是国策です。東條陸相は、支那事変に関する勅語も(そら)んじており、この戦いを聖戦であると信じて疑いませんでした。「八紘一宇(はっこういちう)」も東條にとっては単なる標語ではありませんでした。関東軍参謀長時代の東條は、八紘一宇の精神に基づいて「現下における対ユダヤ民族施策要領」を決定し、ソ満国境で窮迫していたユダヤ人を満州経由で上海へと逃れさせ、その命を救いました。ドイツ政府から抗議が寄せられたものの、東條は断乎としてこれをはねつけました。官僚生命を賭しての決断でした。

 そのように謹直な東條にしてみれば、御前会議の決定を十分に吟味していなかったなどという豊田外相の発言は、その神経からして東條には信じられないものでした。

「御前会議で決定されたことは粛々と遂行しなければならない」

 東條陸相の真面目な頑固さに、近衛総理と豊田外相は閉口してしまいます。決まったことだと言われてしまえば議論の余地はありません。しらける両人を尻目に東條陸相は発言を続けます。

「わが国では統帥は国務の圏外にある。総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可である。総理が決断しても陸軍大臣としては盲従することはできない」

 統帥権の独立を東條陸相は主張しました。おのれの正しさを信じて疑わぬ東條陸相の態度は近衛総理に対して威圧的でさえありました。

 結局、何事も決まらぬまま五相会議は終わりました。この後、大本営政府連絡会議が開催されましたが、結論は出ず、十月十四日の閣議でも同じ議論が蒸し返されました。

「支那大陸から撤兵すれば交渉妥結の見込みがある」

 豊田外相は、日米交渉になお可能性があるとし、妥結のためには支那および仏印からの一部撤兵が不可欠だと説きました。これに反論したのは例によって東條陸相です。

「米国の主張のままに屈服したならば、支那事変の成果は壊滅に帰する」

 事変勃発以来の戦死傷病者はおびただしく、戦死十九万人、戦傷五十二万人、戦病四十三万人でした。実に百万を超える損害です。その全ての将兵に家族のあることを思えば、その影響の甚大さに愕然たらざるを得ません。損害ばかりではなく、すでに莫大な国費が投じられてもいました。国家は総動員態勢を余儀なくされており、はやくも困窮しつつあったのです。それを今さらやめられようか。さらに、日本軍が撤兵すれば支那大陸の赤化がいっそう進み、排日侮日の気運が高まり、在支邦人の生命や財産がますます危うくなります。その影響は満洲や朝鮮や本土にまで波及すると考えられました。

「駐兵は心臓だ。事変前の小日本に還元することは断じて許されない」

 東條陸相は言い切りました。支那大陸に駐兵するのは防共のためです。これを日本政府は防共駐兵と呼びました。それは侵略でもなければ、植民地化でもありません。防共駐兵とは、支那事変が解決したら日本は支那から撤兵するが、北支と内蒙にだけ防共のため一部の兵力を残すことでした。支那四億五千万民衆の赤化は日本にとって脅威でしたから、限定的な防共駐兵は譲れない条件だったのです。

 ところが、アメリカは日本の防共駐兵をいっさい認めようとしませんでした。それどころか、日支和平を仲介して欲しいと日本がアメリカに依頼しても、アメリカは拒絶しました。もしアメリカが日本の要求を容れていたら、支那事変は終息し、日米戦争を回避でき、支那大陸の赤化さえ防ぎ得たはずでした。しかし、アメリカにその意思はありませんでした。

 ルーズベルト大統領は、英総理チャーチルおよびソビエト連邦書記長スターリンとの連合をすでに形成していました。ルーズベルト大統領は巧妙に底意を隠していましたが、米ソによる日本帝国解体分割の腹を固めていたのです。だからこそアメリカは苛烈すぎる要求を日本に要求し続けたのです。

 日本にしてみれば、民主主義を標榜するアメリカが共産主義独裁国家ソビエトと本気で手を握っているとは想像しにくかったのです。そのため豊田外相は対米交渉に望みをつないでいました。豊田外相とて支那防共駐兵は重要な条件であると思っていました。しかしながら、その重要な項目を譲歩することで日米交渉を妥結させ、対米戦争を回避することができるなら、それはそれで大きな国益です。国益のための交渉において支那撤兵を駆け引き材料にすれば、戦争回避の可能性が出てくるのです。その意味で豊田外相の言い分にも一理ありました。そもそも支那事変は泥沼化しており、重慶に()る蒋介石政権の打倒は困難です。支那大陸赤化のリスクを冒してでも対米交渉を妥結させるという選択肢は現実的なものでした。

 この議論は延々と続きます。結局、近衛総理は外相と陸相の間で板挟みとなり、閣内の意見をまとめきれぬまま総辞職します。


 近衛内閣の総辞職が決まると、東條はさっそく陸相官邸から私邸への引っ越し作業を始めました。そこへ「参内せよ」との通知がとどきます。

(近衛内閣をつぶしたのは自分だ)

 という自覚が東條にはありました。お叱りを()けるものと覚悟して参内したところ、意外にも大命降下の御諚(ごじょう)でした。東條英機は恐懼(きょうく)して拝命しました。

 昭和天皇が東條英機に大命を降下させた理由は様々あったようです。そもそも政党政治家に人物がいませんでした。政権闘争に明け暮れ、経済失政を繰り返した政党を国民は見限っており、政党解消運動が盛んになったため、政党は自壊して大政翼賛会となっていました。ただひとり国民の期待を一身に集めていた近衛文麿公爵もついに政権を投げ出してしまいました。そんな人物払底の状況下、東條英機の発言力と生真面目さに宮中は注目しました。

 東條陸相の宮中での上奏は、ほかの閣僚に比べると実に念入りで詳細かつ真摯(しんし)でした。東條は、上奏の前日までに説明資料を必ず提出しました。上奏の前の晩、東條は資料を丹念に読み込み、御説明の練習を繰り返しました。いかなる御下問に対しても淀みなく御返答できるよう、東條は様々な想定問答を軍務局員に作成させました。軍務局員は、その膨大な作業に悲鳴をあげましたが、東條陸相は容赦しませんでした。

 こうした努力の甲斐あって東條陸相の奏上は常に懇切丁寧を極め、細部まで遺漏(いろう)がありませんでした。東條陸相の真摯な態度に宮中は好感を抱いたのです。裏を返せば、東條以外の閣僚の奏上が大風呂敷で粗雑だったのです。その悪弊に東條は染まっていませんでした。

(東條は信頼に足る)

 謹厳な東條をして陸軍を制御せしめれば、あるいは戦争を回避できるかも知れない。それが宮中の期待でした。


   ―*―


挿絵(By みてみん)


 昭和十六年十月十八日、東條英機は内閣総理大臣に就任しました。前年七月に陸軍大臣に就任してから一年三ヶ月しか経過していません。あまりにも僅少な政治経験です。

 この時期、世界の政治指導者はどうだったでしょうか。ルーズベルト米大統領とチャーチル英総理は海千山千の政党政治家であり、スターリンとヒトラーは権力闘争を勝ち抜いて成り上がった独裁者です。蒋介石さえも東條に比べればはるかに政治の玄人でした。

 国家危急の際に処女のような官僚出身の新米政治家を総理に戴かざるを得なかったことがすでに日本の悲劇だったといえるでしょう。その責任は、政党と政党政治家にこそあったというべきです。大正期に確立した政党政治は、たびかさなる経済失政と金権体質から国民の支持を失い、自壊消滅して大政翼賛会と化していました。軍部の台頭とは、裏を返していえば政党の自滅です。政党自滅の後、軍部以外に政治を担える主体はなかったのです。

 本来ならば、政党政治家の中からルーズベルトやチャーチルに匹敵する大政治家が現れ、世界の指導者と互角に渡り合い、東條英機や石原完爾や山本五十六や松岡洋右らを顎でこき使い、日本の危機を救わねばなりませんでした。しかし、日本の政党政治は、結局、明治期の藩閥政治を越えることができませんでした。日本の政党政治は何故に大政治家を生み出せなかったのでしょうか。これこそが深刻に反省されるべき日本の課題です。

 こうした経緯から、政党政治が背負うべき責任を、政治経験薄弱な軍事官僚出身の東條英機が担うことになりました。健気(けなげ)と言うべきでしょう。争うべき列国には老獪(ろうかい)な政治家と独裁者がたむろしています。戦う前から位負けです。それでも東條自身は高揚感に満ちていました。

(努力によってここまで来た)

 という満足感がありました。この先も、事の成否など眼中に置かず、ただ努力を信奉し、ひたすら精励恪勤(せいれいかくきん)するのみである、と東條は誓いました。


 大命降下の際、昭和天皇は「白紙還元の御諚(ごじょう)」を御降しになりました。九月六日の御前会議決定にこだわらず、日米和平を実現せよという意味です。東條英機は恐懼して退出し、これまでの即時開戦論を躊躇なく放擲(ほうてき)し、日米和平を目指すことを内閣の方針としました。明らかな変節でしたが、東條に迷いはありません。天皇の聖慮が和平にあるとわかった以上、私見を棄てて玉意に沿うのが臣下のつとめです。東條内閣は和平追求内閣として出発したといえるのです。

 しかしながら、日米交渉はすでに行き詰まっていました。東條総理は、外務大臣に東郷茂徳を迎え、対米交渉の打開を依頼します。東郷外相は、日本として限界の譲歩案(甲案)と、緊急避難的な暫定案(乙案)を策定し、駐米大使に訓電し、交渉に望みをつなごうとしました。ところが、これに応ずるアメリカ政府の反応は冷淡でした。回答はなかなか来ませんでした。そして、ようやく手交されたアメリカ側の回答は日本政府を絶望させるに充分な内容でした。日本側の提案には一顧をも払わず、日本側にだけ全面譲歩を要求し、アメリカ側は何一つ譲歩しないものでした。世に言うハル・ノートです。

 アメリカ政府にとって対日戦争の回避は簡単なことでした。

「石油を供給する」

 そのように日本側に提案すればよかったのです。日本政府はどんな条件でも呑んだでしょう。それほどに日本が渇望した石油供給についてアメリカは何らの言及をもしませんでした。このまま石油途絶が続けば二年後には枯渇する。そうなれば日本は石油文明から石炭文明へと退化せざるを得ません。産業力も国防力も退化します。そこを列国に侵略されたら(あらが)(すべ)はないのです。植民地にされ、男も女も奴隷にされ、経済的に搾取される。若い女は宗主国の男たちに好きなように犯され、混血児を産まされる。御皇室さえ例外とはなり得ず、むしろ最初の餌食になるでしょう。インドでもビルマでも王家は国外に追放されていました。ハワイ王室も幽閉され、根絶させられていました。そして、白人との混血児たちが植民地日本の支配層になっていく。アジア、アフリカ、南アメリカの植民地の現実がそう教えていました。そのような国体破壊を大日本帝国が是認できるはずはありませんでした。


 帝国陸海軍および日本政府は対米英蘭戦争の推移を予想し、最終的な勝利があり得ないことを知っていました。それでも開戦に踏み切らざるを得ませんでした。少なくとも南方作戦に限っては勝算がありました。ともかく南方資源地帯を抑えて石油を獲得し、あとは持久するほかなかったのです。一縷の望みをそこに賭けました。

 人並み優れて几帳面な東條総理でさえ、開戦を回避する方策を見出すことができませんでした。それほどに完璧な包囲陣によって米英蘭支の各国は日本を包囲圧迫したのです。日本は、ありとあらゆる手段を講じ、隠忍自重しました。それでも駄目だったのです。だからこそ開戦を決断したのです。

 東條内閣は全会一致で対米英蘭戦争の開戦を決定しました。東條英機総理は参内し、閣議の決定事項を上奏しました。昭和天皇からの勅許はなかなか得られませんでした。東條総理は日米交渉の経過を詳細にご説明申し上げましたが、それでも昭和天皇は(だく)とは(おお)せられず、日英同盟のことや英国王室とのご交際や滞英中に世話になった人々との思い出などを語られました。大英帝国と戦火を交えることがよほど御心痛らしかったようです。昭和天皇の御声に耳を傾けるうち、東條は米英が憎らしくなってきました。やがて英国の話題が尽きると天皇はようやく仰せられました。

「やむを得ない」

 昭和十六年十二月一日の御前会議において対米英蘭開戦が決定されました。日本は、東條英機という生真面目な宰相を戴き、狡猾無限の欧米列強と戦うことになりました。


   ―*―


 南方作戦は成功しました。日本軍はマレー、シンガポール、フィリピン、ボルネオ、セレベス、南部スマトラ、ジャワ島、香港、英領ボルネオ、グアム、ビスマルク諸島、モルッカ諸島、チモール島、英領ビルマを攻略しました。わずか半年間での大戦果でした。日本軍は東南アジアから米英蘭の植民地派遣軍を撃退し、南方資源地帯を確保したのです。

 大東亜戦争の緒戦における帝国陸海軍の戦いぶりは日本国民を熱狂させました。将兵の勇気と敢闘と規律正しさは武士道の名に恥じぬものでした。この第一段作戦の成功は、およそ一年前から兵要地誌を調べ、作戦を準備し、訓練と演習を繰り返した精鋭部隊を投入した成果です。


 万事が順調にみえた昭和十七年四月十八日、東條英機総理兼陸相は陸軍の輸送機に乗り、宇都宮飛行学校から水戸飛行学校へ飛んでいました。晴天でした。春の陽射しが暖かく、日頃の激務のために疲れていた東條総理は機内で居眠りしていました。ちょうど偕楽園(かいらくえん)の上空に達したときです。

「なんだ、あれは」

 操縦士が声をあげました。

「あれはアメリカじゃないのか?」

「なに?」

 聞きとがめたのは陸相秘書官の西浦進中佐です。西浦中佐は操縦室に顔を出して前方を見ました。その瞬間、アメリカ軍の爆撃機がすれ違っていきました。ほんの一瞬でしたが、西浦中佐には敵機の操縦士の顔まで見えました。撃墜されたら一大事です。東條総理を乗せた輸送機は水戸飛行場に緊急着陸しました。

「やられた、やられた」

 西浦中佐から状況を聞かされた東條総理は悔しさをにじませて「やられた」を繰り返しました。帝都が空襲されたのです。その衝撃は甚大です。

「すぐに東京へ帰るぞ」

「今すぐに、ですか」

「そうだ。今すぐ参内してご機嫌を伺わねばならぬ。飛行機を飛ばせろ」

 これを西浦中佐は諌止(かんし)します。

「お待ち下さい。いまごろ東京では空襲警報が発令され、上空には警戒線が張られ、戦闘機が警戒飛行しているはずです。高射砲陣地も緊張しているでしょう。そんなところに入っていったら味方の警戒態勢を混乱させるだけです」

「そうか。わかった。すぐに汽車を仕立てろ」

 列車で帰京した東條総理は恐懼して天機奉仕(てんきほうし)しました。


 陸海軍のあいだに作戦上の齟齬が生じ始めるのは第一段作戦終了後です。第二段作戦は未定でしたから大論争になりました。海軍は短期決戦主義です。開戦から押しまくり、優勢のうちに講和することを目論んでいました。これ以外に勝利はないと考え、そのとおりに第二段作戦を立案しました。これに対して陸軍は、占領した南方資源地帯の防衛態勢を充実させ、不敗の堅陣を築き、ひたすら守り抜こうと考えていました。

 陸海軍の作戦思想の違いは、軍種の違いに由来すると同時に、講和に対する考え方の相違でもありました。海軍は、世界大戦という状況下においても講和は可能だと考えていました。考えていたというより海軍の願望だったのです。長期戦になれば海軍は消耗してしまうからです。だから海軍は日露戦争の再現を願いました。一方、陸軍の見通しは異なっていました。世界大戦が始まった以上、講和終戦は不可能であると考えました。列強諸国がことごとく戦争に参加している以上、講和の仲介者たり得る有力な第三国は存在しません。だから講和は期待できない。スイスのような弱小国家が講和を仲介しても、そんなものに大国が耳を傾ける道理は無いのです。第一次世界大戦がそうであったように、世界大戦下では中途半端な講和は成立しません。そう考えた陸軍は、長期持久態勢の構築にこだわりました。

 ともかく優勢の内に戦争を終わらせたいと願った日本でしたが、日本軍にはアメリカ大陸に侵攻する能力がそもそもありません。イギリス本国にも手が届きません。それどころか重慶さえ遠いのです。したがって、屈敵は不可能でした。だから、大東亜の占領地域を守り抜き、粘って、粘って、粘り抜くという戦略しかありませんでした。東條総理もそう考えました。だから、早期講和を建言されることがあっても同意しませんでした。

「お前の言うように簡単にはいかぬ」

 ちなみに東條は、意見具申には耳を傾ける男でした。小一時間ほどじっくり聞き、良いものは良い、駄目なものは駄目と明確に言いました。ただ、惜しまれるのは狭量だったことです。そして、その狭量さを人事に反映させたことです。

 陸軍軍務局長の武藤章中将は早期講和論者でした。武藤中将は、講和を建言すること再三再四に及びました。東條はそんな武藤をうるさがり、近衛師団長に任命してスマトラ島へ転出させてしまいました。意見の合わぬ者を自分の周辺から最前線へと転出させる東條人事は、東條批判の格好の材料となりました。

 緒戦の大戦果に国民は歓喜の声をあげていましたが、東條英機総理の人気はかならずしも(かんば)しくありませんでした。東條には、近衛文麿や松岡洋右のようなスター性がなく、山本五十六や山下奉文のような大戦功もありません。ただ、ひたすら生真面目に総理兼陸相として職務をこなしていました。

 東條総理に人気がなかった理由は、国民に対して様々な統制令を出さざるを得なかったことも一因です。戦局の長期化に伴って、東條総理は戦時体制確立のため国民に過重な義務を課さざるを得ませんでした。徴兵応召、勤労動員、金属供出、学徒動員、食糧配給制、防空防火のための立ち退き、消防訓練、衣料キップ制、増税(塩・砂糖・飲食・映画・整髪など)、紙の配給、言論統制、営業権の規制、疎開などです。

 これらは東條英機総理の名において推進されました。その目的は戦争に勝ち抜いて日本国民を敵国の侵略から守るためでしたが、国民の目には敵国アメリカの姿は見えておらず、窮屈で不自由な統制を課す命令者としての東條総理だけが見えていました。国民の不満が東條に向けられたのも無理はありません。誰もが逃げ出したくなるような損な役回りを東條英機は真正面から引き受けました。真面目な人間でなければできない芸当です。

 とはいえ東條総理が日本国民に課した種々の負担は、他の参戦国に比べれば穏当なものでした。

ドイツではヒトラーがユダヤ人の大量虐殺を行い、その財産をことごとく収奪していました。ソ連ではスターリンが粛清による恐怖政治を布いており、わずかでも疑わしい者はことごとく強制収容所に送られ、経済五カ年計画推進の奴隷的労働力として酷使されていました。アメリカとて決して自由ではありませんでした。対日戦争が始まると親日的な言論人は次々と逮捕収監されました。十万人以上の日系アメリカ人が強制的に収容所に移住させられました。虐殺こそなかったものの、日系アメリカ人は生活を根底から破壊されたのです。さらに悪辣(あくらつ)なことに、ルーズベルト大統領はハル・ノートのことをアメリカ国民に知らせず、真珠湾に日本艦隊が近づいていることを知りながら、これをハワイに知らせず、日本海軍をして真珠湾を奇襲せしめました。これこそ参戦の口実を得るための大統領の陰謀でした。

 こうした悪謀に類することを、東條は想像さえしませんでした。それほどに東條は努力の信奉者であり、愚直一徹だったのです。


   ―*―


 昭和十七年六月八日の月曜日、陸軍大臣室に五人の男が集まっていました。

「これから話すことは、海軍の作戦課で聞いてきたことです。他言無用にして下さい。これは海軍からの頼みですから、くれぐれもご内密に」

 そう言ったのは陸軍参謀本部作戦課の近藤伝八少佐です。そして、近藤少佐の話に聞き耳を立てたのは東條英機総理兼陸相、木村兵太郎陸軍次官、佐藤賢了軍務局長、西浦進軍事課長です。近藤少佐はミッドウェイ海戦の結果を報告しました。連合艦隊はミッドウェイ海域においてアメリカ艦隊と戦い、空母四隻と重巡一隻を失いました。大敗です。一同、声がありません。

「うーん」

 唸ったのは東條総理です。

「四隻ともやられたか」

 しばらくの沈黙の後、近藤少佐が声をあげました。

「この話は、この四人だけにお話しするのです。他にはいっさい言わないで下さい。これは海軍からの、たっての頼みです」

「わかった」

 応じたのは東條総理です。

「海軍の頼みだから秘密は守ろう。皆、よいな。それから海軍の非難は一切するな。資材その他のことで助けられるものがあればできるだけ海軍を助けてやれ」


 昭和十七年八月以降、日米両軍の主戦場はソロモン諸島となりました。帝国陸海軍はガダルカナル島をめぐってアメリカ軍と互角の攻防戦をつづけていましたが、第三次ソロモン海戦ののち、日本軍の攻勢は下火となります。海軍の戦力が枯渇(こかつ)してきたのです。

 陸軍は、ガダルカナル島への輸送作戦を繰り返しました。海軍は輸送船団を懸命に守ろうとしました。しかしながらアメリカ軍の妨害に遭い、輸送船団の大部分が沈められてしまいました。昭和十七年十月から十一月にかけて十六万総トンの輸送船が沈められました。日本の造船能力は月産三万総トン未満でしたから政府も統帥部も青くなりました。

 やむなく海軍は駆逐艦によるガ島への輸送を実施しましたが、損害が累積していきました。十二月中旬になると連合艦隊は駆逐艦による輸送を中止しました。駆逐艦の損害があまりに大きく、海軍作戦全般に支障が生じてきたからです。連合艦隊としても断腸の決断でしたが、陸軍は大きな衝撃を受けました。補給の途絶を意味したからです。代わって潜水艦による輸送が続けられましたが、その補給力は微弱でした。当然の帰結としてガダルカナル島では餓死者が増えました。

 参謀本部からは幾人もの参謀がガダルカナル島に派遣されました。彼らはガダルカナル島の驚くべき惨状を視察し、その実態をありのまま参謀本部に報告しました。ガダルカナルの第十七軍は、ただ生存しているだけであり、もはや戦う力はありませんでした。海軍の損害も甚大で、ガダルカナル島奪回を内心ではあきらめているようでした。これに加えて輸送船と軍需物資の消耗が驚異的であり、民需をいちじるしく圧迫していました。

 東條英機総理は全般状況から判断し、ガダルカナル島からの撤退を決断しました。このとき東條総理が示した決断と指導力は評価されてよいでしょう。

 昭和十七年十二月中旬まで参謀本部作戦課はガダルカナル島奪回の方針を堅持していました。年が明ければ新たに一個師団をガダルカナル島に投入する予定でした。これを急転直下の決断で撤退へと戦略転換させたのは東條英機です。現地軍の惨状、ニューギニア方面の苦戦、輸送船の消耗、中部ソロモンでの苦戦、民間産業の保護など、種々の条件を総合的に勘案した結果です。

 統帥権を主張する参謀本部に対し、東條総理兼陸相は軍政権で対抗しました。参謀本部からの新規民間船舶徴発要求を拒絶したのです。このため参謀本部はガ島奪回作戦をあきらめざるを得なくなりました。

 十二月二十八日、参謀本部から第八方面軍に対して戦線整理の命令が出されました。そして、大晦日、御前における大本営政府連絡会議が開催され、ガダルカナル島からの撤退が正式に決定されました。

 この間の東條総理兼陸相の苦労は並大抵ではありません。あくまでもガダルカナル島の奪回を主張する参謀本部作戦部の強硬派に手を焼かされました。東條は陸相として、杉山参謀総長と意を通じ、参謀本部作戦部の人事刷新を断行しました。そして、総理として緊急の御前会議を開催することで、ようやく反対論を抑えつけたのです。こうして帝国陸軍史上初となる戦略的撤退が実現しました。東條は果断に旧習を打破したといえるでしょう。


   ―*―


 ガダルカナル島からの撤退決定に精根を使い果たしたせいなのかどうか、昭和十八年一月十五日午後、東條英機は高熱を発し、病床に伏しました。二十年ぶりにひく風邪です。発熱、咳、鼻水などの症状が重く、予定されていた内奏は中止せざるを得ませんでした。

 総理就任以来、いや、それ以前から、東條英機は恪勤精励(かくきんせいれい)し続けてきました。総理だけでも激務であるのに陸相と内務相を兼務しているのです。しかも国家は存亡を賭けた戦争を遂行しています。超人的な激務です。政治的人脈をほとんど持たなかったことに加え、何事も自分でやらねば気の済まない東條は、早朝から深夜まで一瞬も気を休めることなく働き続け、ついに高熱に伏したのです。風邪は、考えようによっては休養の良い機会です。しかし、東條は病床でも仕事のことを考え続け、しきりに気を揉みました。病状は長引き、十日間は病勢が好転せず、一月二十八日にようやく公務に復帰しました。

 昭和十八年は戦局転換の年です。ガダルカナル島からの撤退(二月)、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(四月)、アッツ島玉砕(五月)、キスカ島撤退(七月)、マキン島玉砕(十一月)、タラワ島玉砕(十一月)など、最前線では日本軍の敗退が相次ぎました。

 東條総理は深刻な憂慮を胸中に秘しつつ、大東亜会議に臨みます。大東亜会議は、十一月五日から二日間にわたり東京で開催された国際会議です。出席したのは大日本帝国、中華民国、タイ国、満洲国、ビルマ国、自由インド仮政府の代表でした。数百年もの長いあいだ欧米列強の支配に甘んじてきたアジア諸国が、白人諸国に対して初めてアジアの主権を宣言した歴史的会議です。採択された大東亜宣言は次のように(うた)っています。

「そもそも世界各国が各々その所を得、相()り相(たす)けて万邦共栄の楽を(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり」

 これこそ日本の価値観であり、世界観でした。

「しかるに米英は自国の繁栄のためには他国家、他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望を(たくま)しうし、遂には大東亜の安定を根底より(くつがえ)さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す」

 実に明快にアジアの立場を主張しています。大東亜会議は、有色人種が白色人種に対して主権を主張した初の国際会議であり、東條内閣が後世に残した世界史的業績といってよいでしょう。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 大東亜会議の成功によって大いに気分を高揚させた東條でしたが、戦勢は日に日に非でした。海軍は短期決戦構想で突っ走り、すでに戦力を消耗させてしまいました。海軍の攻勢に引きずられた陸軍も戦力を小出しにしては多大の損害を(こうむ)っていました。

(政府と統帥部を一体化し、また陸海軍の作戦を統一せねばどうにもならぬ)

 東條は痛烈に思います。陸軍参謀本部と海軍軍令部は、互いに軍事機密を教え合おうとしません。また、陸海軍統帥部は政府に対して秘密を守り続けています。それでいて統帥部は、民間船を徴用せよ、資材を提供せよと一方的に政府に要求してきます。しかも、陸海軍は資材と船腹を奪い合っています。こんな馬鹿げた分裂状態で戦争を遂行した国は珍しいでしょう。権力中枢が政府と統帥部に分かれ、さらに総帥部が陸軍と海軍に分断しているのです。明治日本には見られなかった珍現象です。

(あの頃には元老会議があった。しかし、今の日本には中枢がない。なんとかせねばならぬ)

 やむなく東條は、国務と統帥の一体化に挑むことになります。とはいえ、まさか戦時下で憲法改正をするわけにもいきません。法律や組織の改正には時間がかかりすぎます。そこで東條は人事によって打開を図ろうとしました。自らが陸相と参謀総長を兼ね、嶋田繁太郎海相に軍令部総長を兼任させるのです。あとは東條と嶋田が相互の連絡を密にして作戦思想を統一し、政府と統帥部、陸軍と海軍とを統合させる。東條は、この兼任人事策を練り、胸中に秘しました。


 昭和十九年一月、東條英機は陸相としてひとつの決断をくだしました。インパール作戦を認可したのです。

 現地の第十五軍、ビルマ方面軍、南方軍からは昨年中から「早くやらせろ」と催促が来ていました。参謀本部もついに認可しました。あとは陸相が認可すれば作戦が機関決定されます。しかし、東條陸相は慎重でした。

 すでにビルマ方面の戦況は深刻化しています。米英支の連合軍は圧倒的な戦力で三方向からビルマの日本軍を圧迫しつつありました。このまま推移すれば、早晩、日本軍は圧倒的な戦力の連合軍に圧され、ビルマを放棄せざるを得なくなります。この事態を打開するため立案されたのがインパール作戦です。

 この作戦の特徴は政略的要素が濃厚だった点です。第十五軍はインパールおよびコヒマへ進撃し、イギリス軍に打撃を与え、マニプール州を占領します。そして、チャンドラ・ボースの名においてインパールに自由インド政府を樹立させるのです。その政略的効果が鍵でした。

「インド人によるインド政府ができた」

 こうなれば、数百年の長きにわたり大英帝国の圧政に苦しんできたインド国民は驚喜するでしょう。そして、全インドに反英運動が巻き起こり、イギリス極東軍は力を失います。そもそも、この対英戦略を実施するよう日本軍に強く求めたのは亡命インド人のチャンドラ・ボースでした。

「インド全土を占領する必要はありません。チッタゴンでもインパールでもよい。まずはインドの一角を占領するのです。そこにインド国民軍の旗を掲げ、自由インド政府の樹立を宣言する。そうすれば全インドが震撼(しんかん)し、全インド国民が我々に呼応するでしょう。そうなればイギリスは力を失います。イギリス軍の大部分はインド兵なのですから」

 チャンドラ・ボースの政略は魅力的でした。インドの一角を占領するだけで全インドに政略的効果を及ぼせるのです。問題は、戦術的に困難な作戦であったことです。人跡未踏のジビュー山系、チドウィン河、アラカン山系を越えて進軍せねばなりません。果たして成功するかどうか。

(政略的には可だが、戦術的に否じゃ)

 東條は迷います。

 昭和十九年一月初旬、陸相秘書官の西浦進中佐が総理官邸を訪れました。そのとき東條は風呂に入っていました。西浦中佐は脱衣所から呼びかけます。

「参謀本部は急いでいます。決裁の書類には私が判を捺して出そうと思います」

「待て」

 東條は風呂に入ったままインパール作戦に関する懸念事項を五項目あげました。

「これを全部確かめろ」

 西浦中佐は直ちに電話をかけ、参謀本部作戦課に確認しました。

「全て確かめました。大丈夫であります」

「それならいい。判を捺してやれ」

 こうしてインパール作戦の実施が決まりました。


 昭和十九年二月、アメリカ軍はマーシャル諸島への侵攻を開始しました。二月初旬、ケゼリン島およびルオット島がアメリカ軍の奇襲を受けて陥落しました。次いでアメリカ軍は、日本海軍の根拠地たるトラック諸島への空襲を開始します。

 アメリカ軍の大規模な空襲は二月十七日に始まりました。翌十八日には空襲に艦砲射撃が加わり、トラック諸島の海軍施設は大打撃を受けました。その損害は、輸送船三十一隻、飛行機二百七十機という惨憺たるものでした。

 この敗報を聞いた東條英機総理は即座に決断しました。かねてより考究していた参謀総長の兼任を断行するのです。翌十九日、宮中に内奏し、兼任人事案への御内諾を得ると、嶋田繁太郎海相にその内容を通報しました。

 二月二十日の午前、東條総理は総理官邸に陸軍次官富岡恭次中将を呼び、兼任人事案を言い聞かせました。

「オレが参謀総長を兼任する。杉山参謀総長にこの旨を伝えてこい。君は反対だろうが、もう決めた。御裁可も得た。杉山参謀総長に事の次第を説明せよ」

 富岡中将は驚嘆し、しばし呆然としてしまいました。午後、富岡中将は命令どおり参謀本部へ向かい、杉山(げん)参謀総長に兼任人事案を伝えます。

「戦局が非常に苛烈になったこの際、政務と統帥を緊密にし、事務を簡易迅速に運ぶため東條大臣は総長を兼任することにしたいと考えておられます。この趣旨にご同意願いたいとのことでございます」

 杉山参謀総長は怒気を発して反対しました。

「同意できぬ。統帥と政務とは本質上、一緒になってはならない。これは日本軍伝統の鉄則である。大臣が総長を兼ねては、政務と統帥が混淆(こんこう)し、統帥の進展が阻害されるではないか。ダメだ」

 とりつく島もなく、富永中将は追い返されてしまいました。一旦は退出した富永中将でしたが、ふたたび総長室にとってかえしました。

「ご同意いただけないのでしたら、せめて三長官会議を開いて下さい」

 三長官会議というのは陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三者会議をいいます。陸軍の最高会議です。

「やむを得まい」

 午後七時、陸相官邸大臣室で三長官会議が開かれました。東條は、ふたりの先輩将軍を前にして兼任人事案の必要性を説明しました。

「国家の総力を最大限に発揮するためには作戦のみに偏重してはいけない。民間にも資材や船舶を回すため、政務と統帥を統一する必要があるのです。また、陸軍と海軍が作戦ごとにいちいち協定を結んでいるようでは時間がかかりすぎ、急速な戦局の変化に対処できない。この非常の際なるがゆえ、私が総長を兼ねるのがよいと思う。参謀総長のもとに参謀次長を二名おくこととし、第一次長に作戦を、第二次長に後方補給を担当させたい。このことは海軍も承知している。嶋田海相が軍令部総長を兼任する。こうすれば政務と統帥の一体化、陸海軍の統合を実現できる。以上が、この人事案についてご相談いたす次第です」

 元帥の杉山参謀総長はこれに反対しました。

「大臣が総長を兼任するのは伝統の常則を破壊することだ。総長は専任でなければならない」

 元帥に対しても東條大将はひるみませんでした。

「専任となれば、まったくの新人事です。この切迫した状況下、新総長が事態を把握し、その実力を発揮するまでには時間がかかってしまう。ここは事情を知る私が兼務するのが一番よいと思う」

 杉山参謀総長は納得しませんでした。普段は茫洋とした風貌で知られる杉山参謀総長でしたが、このときばかりは色をなして論白しました。

「第一次大戦の際、フランスでは政治に統帥が引きずられて悪い結果になった。ドイツでもヒトラー総統がドイツ国防軍の作戦に介入したためスターリングラードを攻略できなかった。統帥は政治から独立させておくべきだ。ぜひ考え直されたい」

「ヒトラーは兵卒あがりです。私と一緒にされては困る。私はこれでも現役の大将です。総理として、陸相として、軍のことを充分に考え、熟知もしている。心配はご無用です」

「反対理由はまだある。悪例を将来に残す。これが先例となり、将来、民間出身の総理が総長を兼ねることになったらどうする」

「それはない。陸軍大臣も参謀総長も現役大将でなければできない」

「この先例を根拠にして法令をかえられたらどうするのだ」

「今は、この戦局に対処するために常道を変えてでも勝つ道をさぐらねばなりません」

「そんなことでは陸軍部内がおさまらんぞ」

「この私が、だれにも文句はいわせません」

「わしは参内して上奏する。陛下をお(いさ)めする」

「陛下はすでに私の心持ちを御存じです。総長、何とかご同意願えませんか」

 すでに天皇の内意を得ていると東條に言われ、杉山参謀総長は黙りました。その沈黙を破って教育総監の山田乙三大将が結論的な発言をしました。

「伝統的に統帥と軍政は分立してきた。しかし、戦局がここまで逼迫(ひっぱく)してきた以上、変則ではあっても、陸相の言うことはひとつのやり方だと思う」

 東條の談判は成功しました。

 東條と気脈を通じた嶋田繁太郎海相は、海軍軍令部総長永野修身大将に兼任人事を申し入れました。永野大将は同意しませんでしたが、海軍根拠地トラックを失った直後でもあり、その抵抗は弱いものでした。

 こうして東條は、政務と統帥の一体化を断行しました。猛烈な反発が起こりました。伝統的に日本人は独裁が嫌いです。多頭政治が好きなのです。しかも戦局は不利な状況です。ただでさえ敵が多く、人脈の薄い東條に対する流言蜚語(りゅうげんひご)には容赦がありませんでした。

「東條は独裁者になろうとしている」

「東條幕府だ」

「道鏡だ」

 こうした悪罵に東條の神経は耐えられませんでした。誰がどんな発言をしているかを憲兵に調べさせ、いちいち報告させました。その報告を聞くたびに東條は激怒しました。

「バカな奴だ。敵はアメリカだ。内輪揉めをしている場合か」

 敵に勝つためにこそ政府と統帥部の統一と陸海軍の統合が要求されているのです。それをやって何が悪いのか、というのが東條の考えです。このとき、前総理の近衛文麿は反対しませんでしたが、その理由は実に陰険なものでした。

「自分としてはこのまま東條にやらせる方がよいと思う。せっかく東條が、ヒトラーとともに世界の憎まれ者になってくれるのだから、東條に全責任を負わしめるのがよいと思う」

 これこそ奸佞(かんねい)というものです。かつて総理として国政を担い、支那事変を開始させ、アメリカの対日経済封鎖を招き寄せたのは近衛内閣でした。その近衛文麿は、自己責任の回避を最優先して考える公家政治家でした。こうした狡猾(こうかつ)さが政治家の本質であるとするなら、東條はまったく政治家としての資質を欠いていたと言わざるを得ません。東條は、自ら進んで貧乏クジを引いたのです。生真面目というほかありません。

 昭和十九年二月二十一日、東條英機は参謀総長に就任しました。総理、陸相、商工相、軍需相に加えて、です。一般内政、陸軍軍政、陸軍統帥の権限を一身に集中させたのです。しかしながら、ここまでやっても独裁からはほど遠いものでした。

「これが独裁か?」

 スターリンやヒトラーに問うたらどうでしょう。独裁者たちはあざ笑うにちがいありません。独裁とは、いうまでもなく一個人に権力を集中させることです。そのためにはライバルとなる政治家、軍人、文官などを皆殺しにせねばなりません。血の冷えるような粛清を実行した後にはじめて独裁は実現するのです。人情家で生真面目な東條にそんな奸譎(かんきつ)ができるはずがありませんでした。


 参謀総長に就任した翌日、総理官邸を出た東條英機総理兼陸相は参謀本部に向かいました。参謀本部の玄関口に来ると、東條は参謀飾緒を右肩に吊りました。しかるのち、参謀本部に入っていきました。そして、参謀本部の全部員を食堂に集め、訓示しました。

「陸軍大臣東條英機が参謀総長を兼任するのではない。陸軍大将東條英機が御信任を受けて輔翼(ほよく)の大任を果たすのだ。統帥権を阻害する意図は毛頭ない」

 訓示を終えた東條は、部下の報告を聞き、書類に決裁を与えました。仕事を終えた東條参謀総長は参謀本部の建物を出ると、そこで参謀飾緒を外し、総理官邸へ戻っていきました。総理官邸にも懸案が山積しています。

 東條は一日も欠かさずに参謀本部に顔を出しました。前任の杉山元帥は何から何まで部下に任せるタイプであり、しかもそれがマンネリ化し、惰気(だき)を生じていました。これを新参謀総長の東條は刷新しました。東條は懸案を迅速に決裁しました。やかまし屋の東條は、書類や報告のなかにあるわずかの不備も見逃しません。そのたびに担当者を追求し、ときに大喝しました。参謀本部内から惰気が吹き払われ、空気は緊張し、活気を帯びました。東條の陣頭指揮と即断即決によって参謀本部の事務処理は迅速化しました。

 この時期、参謀本部は三正面に新作戦を準備していました。支那大陸の大陸打通作戦、太平洋方面のサイパン決戦、ビルマ方面のインパール作戦です。東條参謀総長は作戦会議を主催して、この三作戦を繰り返し検討しました。東條参謀総長は、執拗な質問の集中砲火を参謀たちに浴びせます。ある参謀は見事に回答し、ある参謀は返答に窮して沈黙する。それを東條が罵倒する。このようにして作戦が練り上げられていきました。

(必ず勝つ)

 東條は、祈るような思いで日々の激務に耐えました。数多の反対を押し切ってまで参謀総長を兼任した以上、是が非でも戦場で勝利を得、戦勢を挽回せねばなりません。

 これらの三作戦が成功すれば戦局は好転するはずです。インパール作戦が成功すれば、インド国内における反英独立運動を活発化させ、イギリス軍の力を殺ぐことができます。大陸打通作戦は、支那大陸に進出したアメリカ軍の戦略爆撃機を破摧(はさい)し、支那大陸からの九州爆撃を阻止するのが目的です。また、インパール作戦と大陸打通作戦が成功すれば援蒋(えんしょう)ルートを完全に遮断することができます。よって蒋介石政権の命脈を絶つことが可能となるはずです。そして、サイパン島は是が非でも守り抜かねばならない太平洋の要衝(ようしょう)です。これを奪取されたら日本本土の大部分がアメリカ空軍の爆撃圏内に入ってしまいます。

 

   ―*―


 昭和十九年五月末の深夜、山田玉哉少佐は総理官邸からの電話でたたき起こされました。電話の主は東條伯父でした。

「迎えの車をやるからすぐに来い」

(何事か?)

 山田少佐には心当たりがありませんでした。山田少佐は軍服を着ながら考えました。

(いま日本軍は厳しい戦局に直面している。さては伯父さん、俺の知恵を借りたいのだろう)

 そんな自惚(うぬぼ)れた思いとともに山田少佐は迎えの自動車に乗りました。真夜中の街区を疾走し、自動車は総理官邸に向かいます。山田少佐が総理官邸の玄関を入り、二階に駆け上ると、東條伯父に出くわしました。敬礼する山田少佐を東條総理兼陸相兼参謀総長はいきなり殴りつけました。

「おまえ!何をやった」

 山田少佐には意味がわかりませんでした。

「何?何って、別に何もやっておりません。真面目に勤務しております」

「おまえ、手をにぎったろう。女の手をにぎったろう!」

「私は、会う人ごとに手をにぎります」

「そんなににぎるのか」

「私は、日本人とは親しい。だから誰とでも手をにぎる。ケツもさわる」

 いきなり殴られて山田少佐も腹が立ちました。つい憎まれ口を叩いたのです。

「何をたわけたことをぬかすか。戦局たけなわの非常時に、キサマは何をやっとるんだ」

 東條伯父は再び山田少佐を殴りはじめ、殴りつつ叱りました。

「おまえ、妹の所へ行って女中の手をにぎったろう」

 山田少佐には、ようやく殴られる理由がわかりました。たしかに山田少佐は東條伯父の妹の嫁ぎ先を訪ねた際、そこの女中の手をふざけ半分に握ったことがあったのです。

「ああ、アレか」

 山田少佐は唇の血を手でぬぐいながら言いました。驚くべきことですが、すでに発動している大陸打通作戦とインパール作戦を指導しながら、サイパン決戦に向けて準備を推進しつつある超多忙な時期に、東條伯父は不出来な甥の素行を調べ続けていたのです。

「アレか、とは何だ。アレか、とは」

 殴りつづけていた東條は疲れてきました。ゲンコツをやめ、杖で殴りつづけました。殴られながらも山田少佐は口答えします。

「閣下、戦局たけなわの非常時だからこそ、ゆとりがなかったら負けてしまう。女の手ぐらいにぎろうと、ケツをさわろうと、そのくらいの余裕がなければ戦さには勝てない」

「生意気を言うな!」

 東條はさらに杖を振り上げました。思うようにならない内政、活発化する倒閣運動、悪化する戦局、東條は追いつめられていました。

(このオレが、オレがこれほどに努力しているのに、お前という奴は)

 あまりに廉直に過ぎ、甘える対象を持たず、息抜きの方法を知らぬ東條は、こんなかたちでしか欲求不満を消化できなかったようです。東條の自我は悲鳴をあげていたに違いありません。

 こののち東條は、激戦の予想されるサイパン島へ山田玉哉少佐を出征させようとしますが、すでに輸送船はすべて出港を終えていました。山田玉哉少佐は命拾いをしたのです。


 サイパン島は、大正三年以来、日本の統治下にあります。この三十年間、帝国陸軍はサイパン島に要塞ひとつ構築しませんでした。ソ満国境には要塞を構築して防衛に万全を期していましたが、太平洋方面の防備は放置されてきたのです。大正十一年にワシントンで調印された四国条約は、太平洋諸島の要塞化を禁じていました。日本は律儀に条約を守り通してきたのです。それほど日本陸軍はアメリカに対する警戒感を欠いていました。対するアメリカは、大正年間には既にサンゴ礁島嶼における上陸作戦などをマニュアル化し、上陸用舟艇を開発し、上陸の訓練と演習を繰り返していました。

 参謀本部はサイパン決戦に向けて戦術を練りましたが、その基礎となる計画諸元や戦訓はアメリカ軍を想定したものではありません。参謀たちは支那大陸の作戦原単位を島嶼に応用し、それを疑問とも思わず、これで勝てるはずだと太鼓判を押したのです。陸軍には対米戦の準備が何もなかったといってよいのです。この歴史的失策は、もちろん東條ひとりに帰すべきものではありません。ですが、当面の責任者である以上、その責を負わされるのは東條英機でした。


 昭和十九年七月、太平洋ではサイパン島が陥落し、ビルマのインパール作戦は失敗に終わりました。かろうじて大陸打通作戦のみが順調に進展していました。東條が参謀総長を兼務して陣頭指揮をとった三作戦は、一勝二敗となりました。

 サイパン島の失陥により、東條内閣の責任を問う声がにわかに高まりました。翼賛体制下の帝国議会は政府批判の力を持ちませんでしたが、重臣会議がきびしく東條を追求しました。サイパン島陥落という事態に臨み、一部の重臣は終戦工作の必要をつよく感じていたのです。

(真面目すぎる東條はあくまでも戦おうとするに違いない)

 終戦のためには、内に人心を安定させ、外に陸海軍将兵を勇敢に戦わせる一方、敵国には降伏の秋波を送らねばなりません。実に困難で繊細な政治的腹芸が要求されます。真面目一徹で攻撃精神ばかりの東條に終戦工作は不向きであると誰もが考えました。しかし、この見立ては必ずしも正しかったとは言えません。

 かつて陛下から白紙還元の御諚を承った東條は、それまでの即時開戦論を放りすて、対米和平に邁進(まいしん)しました。つまり、陛下の御意が終戦にあると知りさえすれば、東條は過去の経緯を放擲し、終戦工作に挺進したに違いないのです。とはいえ開戦時の宰相である東條が停戦を呼びかけても敵国が拒絶するであろうと宮中は懸念したようです。

 東條英機はあくまでも努力をやめようとしませんでした。あくまでも戦い、勝利をつかもうとし、玉意に沿おうとしていました。東條総理は参内し、内閣の継続をこいねがいました。しかし、陛下のお言葉は冷めていました。

(もはや御信任は失われている)

 そう悟った東條はあきらめました。もともと政治経験のなかった東條が総理を勤める理由はひとつしかありません。大命が降下したからです。しかし、その大御心がお変わりになった以上、総理の座に未練はありませんでした。東條英機はただちに内閣を総辞職させました。去りゆく東條に昭和天皇は異例の勅語を下賜(かし)されました。


  (けい)、参謀総長として至難なる戦局の下

  (ちん)帷幄(いあく)枢機(すうき)に参画し

  ()くその任に当れり

  今その職を解くに臨み

  (ここ)に卿の勲績と勤労とを(おも)

  朕深く之を(よみ)


 これを読んだ東條は感涙に頬を濡らしました。

(陛下は御照覧あらせられた)

 そう思うだけで東條は満足でした。用賀の私邸に引っ込んだ東條は、折に触れてこの勅語を読み返しました。


   ―*―


 昭和二十年八月、日本政府がポツダム宣言を受諾し、帝国陸海軍が武装を解除して、停戦となりました。以後、連合国軍による日本占領が始まります。

 占領とは戦争の一部です。戦争はなお続き、昭和二十七年四月のサンフランシスコ講和条約でようやく終わります。実に長い戦争でした。占領期、アメリカは攻撃の手を緩めず、日本の政治、思想、法律、文化、教育、産業など、ありとあらゆる局面に介入し、国体の破壊を進めました。日本人の迂闊さは、戦闘の終了を戦争の終わりだと勘違いしたことです。停戦は戦闘の終わりでしかありません。平和の名の下に連合国が実施した日本弱体化政策こそ、戦争の最終局面であり、そのなかの一大イベントが極東軍事裁判でした。


 日本の敗北が確実になると、東條英機は自決の覚悟をかため、その方法を考究しました。かかりつけの医師に相談し、心臓を拳銃で撃ち抜くことに決めました。東條は医師に頼んで銃口を当てるべき位置を教えてもらい、そこに墨で印を付けました。墨ですから風呂に入れば消えてしまいます。風呂から上がるたびに東條は墨を付けなおして万全を期していました。

 昭和二十年九月十一日午後四時、占領軍の逮捕隊が東條邸に到着しました。数多くの新聞記者や野次馬的な将兵をたくさん伴っていました。東條は応接間で拳銃の引き金を引きました。銃弾は心臓を外れたものの重傷でした。昏倒した東條の身体からはおびただしい血が流れ出ました。直ちにかかりつけ医が呼び出されました。しかし、かかりつけ医は治療をしませんでした。このまま死なせようと思ったのです。武士の情け、です。このまま放置すれば出血多量で死に至るでしょう。

「死なせるな」

 アメリカ人に武士の情けはありません。白人優越主義にもとづく子供じみた正義感があるだけでした。アメリカ軍の軍医が駆けつけて応急手当を施し、東條を病院に移送しました。アメリカ軍は最新医療によって東條を生き返らせました。これは人道的行為ではありません。むしろ虐待です。開戦の責任者たる東條英機に悪逆の汚名を着せ、さらし者にし、再び殺すために蘇生させたのです。

 これこそアメリカです。インディアンも、アメリカ連合国(南軍)の指導者も、ハワイ王国の指導者も、フィリピン独立の志士たちも同じように悪人の汚名を着せられて殺されていきました。その陰惨な順番が日本にも巡ってきたのです。東條は二度死ぬことになりました。

 とはいえ自決に失敗したことは軍人東條にとって一生の不覚だったといえるでしょう。敗戦とともに自決した日本人は少なくありません。見事に割腹した軍人もいたし、妻子を同道する例さえありました。

「生きて虜囚(りょしゅう)(はずかし)めを受けず」

 かつて東條陸相の名で頒布された戦陣訓の一節です。この戦陣訓の言葉どおり、戦地では多くの将兵が死に、民間人さえ死んでいきました。それなのに東條英機陸軍大将は自決に失敗したのです。多くの日本人は失望しました。


 極東軍事裁判は昭和二十一年五月三日に開廷しました。被告人も被告弁護人も傍聴人も一般の日本国民も、これを裁判だと思っていました。ところが、裁判とは名ばかりでした。実質的には復讐の政治ショーに過ぎなかったのです。このことは今日では明らかとなっていますが、当時の日本人にはわかっていませんでした。なにしろ長い日本の歴史上はじめて外国に敗北したからです。

 戦争行為の一環として実施された極東軍事裁判は、全ての悪を敗者に負わせるための歴史捏造劇でしかなく、日本人にすべての罪をかぶせて断罪し、連合国の戦争犯罪を隠蔽し、大航海時代以来の白人諸国による世界侵略行為を免罪するための儀式でした。

 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が石田三成を処刑したのと同類の行為でした。とはいえ連合国にとっては戦争の最後の仕上げです。重要な政治舞台です。そのことに気づいていた日本人は少なかったし、たとえ気づいていたとしても沈黙せざるを得なかったでしょう。占領下の敗戦国民には人権がありませんでした。


 死線をさまよって、この世に戻ってきた東條英機は、法廷では悟りきったように泰然自若としていました。東條英機口述書の中で、東條は堂々と連合国の非を鳴らし、日本の正当性を訴えました。戦前、戦中、戦後を通じて東條ほど首尾一貫した言動を保ち続けた男はいません。口述書は言います。

「昭和十六年十二月八日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、わが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものである」

 またこうも言います。

「敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望する」

 もはや動揺もなく、力みもない。言うべきことを言い、とるべき責任をとろうとしました。


挿絵(By みてみん)


 敗戦は日本人を変えました。翼賛体制下でひたすら東條内閣の政策を支持し続けていた帝国議会議員は、今や豹変して占領軍を礼賛し、平和と民主主義を口にしています。皇軍の勝利を大々的に報じていた新聞は、今では占領軍の検閲と情報統制に迎合し、与えられたプレスコードを遵守し、日本の軍国主義を非難し、マッカーサーを礼賛しています。かつては東條の部下だった軍人の多くが占領軍に雇傭されています。戦時中は学徒を戦場に送り出した大学教授も、いまでは占領政策推進のために嬉々として占領軍のために働いています。

 平家の世が終わって源氏の世が来たときのように、徳川幕府が倒れて薩長の天下が来たときのように、世の中が変わったのです。

 ごくまれに、戦前戦中と変わらぬ言動を貫く者もいました。そういう気骨の日本人は占領軍の標的となり、戦犯指定されたり、公職追放されたりしました。

 占領下を生き抜くため、日本人は連合国に尾を振り、転向しました。自己欺瞞のための言い訳が必要になりました。東條英機の名が都合良く使われました。なんでもかんでも東條の責任にされました。

「東條に命令されたのです」

「東條がやったことです」

「東條が・・・」

 戦犯の汚名に加え、日本人の醜い変節の弁解までも東條は引き受けることになったのです。


 法廷の被告人席でも東條はメモをとりました。弁護側の資料作成を助けるためでした。飽くことなき努力家です。

 証人尋問における東條英機の態度は落ち着き払っていました。キーナン主席検事の執拗かつ底意地の悪い質問に対しても動ずることなく、日本の正義を主張し、天皇の戦争責任を否定し、アメリカの非道を鳴らしました。

「乙案の半分だけでも米国側が譲歩したならば、あるいは真珠湾攻撃は起こらなかったでしょう。米国が互譲の精神で臨んでいたならば、条件はいくらでも緩和できたと私は考えております」

 日本人にとって互譲こそが外交原理だったのです。しかし、連合国の人間には、このことさえ理解できなかったし、理解する必要など感じていなかったようです。


 いよいよ死刑執行の期日が近づきましたが、東條英機の長男は面会に来ませんでした。甥の山田玉哉に対してさえ口うるさかった東條は、長男の英隆に過度に干渉し、結果として英隆の人生設計を根底から破壊してしまいました。父を怨んだ英隆はついに一度も巣鴨を訪れなかったのです。

「なんだ、英隆は来んのか」

 東條はさすがに寂しそうに言いました。


 昭和二十三年十二月二十三日、東條英機を含む七名が絞首刑に処せられました。この知らせを聞こし召された昭和天皇は三谷隆信侍従長に仰せられました。

「三谷、私はやめたいと思う。三谷はどう思うか」

「お(かみ)がご苦痛だと思し召す方をお選びになるべきであります。お上がお嫌になる方を、ご苦痛になる方をお選びになるべきであります」


 東條英機の辞世は、いかにも努力の信奉者らしいものです。彼の魂魄は死してなお努力し続けているのでしょう。


  我ゆくも またこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば


 東條英機の名は悪名として歴史に刻まれました。その悪名は戦後世界の権力構造が変わらぬ限り続くでしょう。その事情は石田三成の場合と同じです。

 極東軍事裁判において全被告を無罪としたパール判事は、その判決文のなかで東條英機について次のように書いています。

「東條総理の決心の基礎をなしたところの結論、すなわち当時の日米間の紛議をもって調整不可能であるとなした結論が、はたして間違いのないものであったかどうかを調べてみる必要はない。なぜなら、一九四一年七月(開戦五ヶ月前)という時点において合衆国政府が日米問題の調整は不可能であるとの決定に到達していたことを証拠が明確に示しているからである。このような非常時に際しては、東條のような地位にあった人ならば、だれもが決断に到達すべきであり、かつ勇気をもって自己の信念に確信をもつのが当然である。その後につづいて起こったことは、ことの成り行きとして当然におこったことである。それらの出来事が、なんらかの意図によって為されたものであるとは考えられない。東條は事態の進展に伴い、求められれば全責任をその双肩に担う覚悟は充分に有していたかも知れないが、権力を掌中に収めようなどとは決して意図しなかった。当時の日本は、ある人もしくは一群の人々にとって、権力が重要な価値を有するような時ではなかった。それはまさに日本の死活の時であった。それは国家としての日本の存在自体が深刻な危険にさらされていた時なのである。要職にあった政治家はあげて国家の名誉を傷付けずに滅亡から免れる方法を見出すのに頭を悩ましていた。このような重大時期においては、政治家は権力の把握に身をやつしてなどはいられない」

 清瀬一郎弁護人からこのパール判決文を見せられた東條は、くりかえし読み、その感慨を歌に託して残しています。


  百年の 後の世かとぞ 思いしに 今この(ふみ)を 眼のあたりに見る


 自分のことが理解されるのは百年後であろうと覚悟していたにもかかわらず、今このときに自分を理解してくれる人がいたと驚き、そして喜んだのです。

 しかし、パール判事の判決文は極東軍事裁判の法廷では朗読されませんでした。それどころかパール判決文は極秘扱いとされ、日本国民がその存在を知ったのはようやく昭和二十七年のことでした。


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― 新着の感想 ―
[一言]  ご返答有難うございました。  ジュウシマツ様の考えはわかりました。  ということであれば東條英機が救ったという一文も消していただきたく思うのですがいかがでしょうか。  決して東條英機ひとり…
[一言] 東條英機はソ満国境で窮迫していたユダヤ人を満州経由で上海へと逃れさせ、その命を救いました。とありますが、これは誤認ではないでしょうか。オトポールで難渋していたユダヤ人に特別ビザを発行して満鉄…
[良い点] 東条英機の意外な一面が知れてとても面白かったです。 なろうにもこういう話が増えたらもっと魅力的になるんだろうなあと思いました。
2020/09/09 21:00 退会済み
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