5 人助けをしたのでは
一度だけ自殺をしようと試みたことがある。
ハナさんと同じように、でももっと高いところから、飛び降りようとした。
躊躇いもなく、憂いもなく、ただふわふわとした浮遊感があり、絶望も、希望もないまま、当たり前のように飛び降りようとしたところを、力づくで彼に止められた。
華奢な男性だ、と思った。それでも、やはり性差というのは大きいのだと思った。こんなにも、男性の力は強いのだ。私の腕をつかんだ手はごつごつとしていて、私の背中を引き寄せた腕はたくましかった。
彼に抱きしめられたまま、私はぼんやりと、空を見ていた。晴れた空に、かわいらしい雲が浮かんでいた。
「学校で辛いことでもあった?」
なぜ私が学生だとわかったのだろうと思い、すぐに、制服を着ていたからか、と納得する。
「どうして死のうとした?」
どうしてかなあ。
空は青く、風がふわりと私の髪を揺らす。
ふわふわとした感覚がなくなり、重力に私の体重が引っ張られ、苦しくなる。
「死ねなかった」
ゆっくりと彼の胸を押すと、彼は大丈夫? と訊いてきた。心底心配してくれていると思える表情だった。
「大丈夫です。すみません」
私はじっと、彼を見つめた。見つめて、見つめて、見つめ切ったところで、ふらふらと、彼から離れていった。
「あのさあ」
遠くから、彼は言った。
とんでもない、一言を。
「君が死んだら、学校の奴らとか、多分――」
風が強く吹いた。
それでも、ハジメさんの声は、私に届いた。
届いてしまった、恐ろしい一言。
枯渇したと思っていた感情が、私の内臓を駆け巡った。
その一言が私を根底から変えてしまった。
振り向く元気はなかった。
彼は追ってこなかった。
私は彼のせいで死ねなかった。彼のせいで死ねなくなった。
「あのとき、あなたは見ず知らずの女学生の自殺を止めた善人で、もうそれきり、私のことなんて忘れてしまうと思っていた!」
でも、この人は、私のことを覚えていた。
「よっぽど特徴的な格好じゃないと覚えられないって、あなた、言いましたよね」
ハジメさんが、さっき言っていたことを繰り返す。
「私が、紫苑高校の制服を着ていたから、覚えていたんですか」
「そうさ。あの日はな。名門高校の女子高生が自殺未遂。でも、君、自覚無いだろ」
「自覚? なんのですか」
「あのな、いくら有名な学校の制服を着ていたところで、それでも俺はその制服しか覚えていられない自信がある。でも、君は、俺が君を助けた後、すぐにまた現れただろう?」
「……は? あの後から今日まで、私はあなたと話していませんけど」
「でも、こっそり俺の部屋を見ていたり、俺をつけたりしていた」
あ、と声が漏れる。この人、ハナさんに自己紹介をするときに、言っていた。
もっと深刻な悩みはストーカー被害にあってるってこと。
「し、失礼な! 私はストーカーなんかじゃありません!」
「いやいや、学校帰りに必ず俺の部屋の前でこっそり様子を見ていたり、俺が外に出るとふらふらついてきたり、ストーカーでしょ。なんでそんなことするのかな? 俺のこと、好きになっちゃった?」
「そんなわけないでしょう!」
「ばっさり、悲しいねえ。あ、逆かな、俺を殺したいとか?」
「どうしてそうなるんですか? 私は、気になっただけです」
学校で辛いことでもあった?
「私の話を聞こうとする人になんて、初めて出会ったから……それでいて」
君が死んだら、学校の奴らとか、多分――。
「私を……死ねなくした! あなたは、どんな人なんだろうって。どうしてあんなこと言ったのかなって」
初めてだったのだ。
心配されたのも、価値観が変わってしまうほどの衝撃を与えられたのも。
だから、知りたかった。
どういう人が、私の人生にこんなにも干渉してきたのだろう。どんな生活をしている人なのだろう。
声をかける勇気なんて出なかった。学校終わりに、出会えたら、着いていく。様子を見る。そんなことしかできなかった。
だから昨日、彼の後を歩いていたとき、道を曲がった先で、彼が振り向いて私と目を合わせることになるなんて思ってもみなかった。彼から私にもう一度声をかけてくれるなんて思いもしなかった。
「……私、あのとき、ハナさんを見つけたあなたに、偶然話しかけられたと思った。でも、違ったんですね」
話しかけられ、驚いて、思わず訊いてしまった。
気になっていたこと。
名前は何ですか。
彼の家に届いた郵便物を見たときに、「源」だけでは、何と読むかわからなかったから。
「あなたは知っていたんですね。私があなたをつけていたこと」
「そうだね」
「こうやって行動を共にしたのも、計算の内ですか」
「そうだよ」
どうして、とは訊かない。
私は、わかってしまったのだ。
「どうして、あなたが私の自殺を止めたのか。私はそれが気になって仕方がなかったんです。でも、私にはわかってしまった」
へえ、と楽しそうに、ハジメさんは眉を吊り上げる。
「どうしてだと思ったんだい?」
彼の挑発的な言葉がリフレインする。
どうして君はあのとき、死のうとしていた?
彼の優しい言葉もリフレインする。
学校で辛いことでもあった? どうして死のうとした?
どうして死のうとした?
「ハジメさんが私の自殺を止めたのは、私の自殺理由を、知りたかったから」
ハナさんのときもそうだ。
自殺しようとした理由を絶対に教えないと言われたときの、嬉しそうな顔。
答え合わせのときまで死ぬなよ、という言葉。
「違いませんよね」
ハジメさんは――私が知りたくてやまなかったその人物は、にたりと満足げに笑った。
「その通りだよ。不服かい。不満かい。嫌悪感を覚えるかい」
「いえ。でも、教えてください。どうしてそんなことをするんですか」
「教えない、と言ったら」
そうくると思っていた。
「何でもひとつ、願い事をかなえてくれるんですよね。確かに、約束しましたよね」
「……そうだった。俺は約束を破ることは嫌いなんだ」
行こう、公園が近くにある、と言って、彼はすたすたと早足で歩いていく。私は、必死に後をついていく。
噴水のある広い公園に点在するベンチに、彼は腰かけた。私も隣に腰をおろすと、五年前にさあ、と彼はなんの前置きもなく話を切り出した。
「俺ね、死にたくなったの。友達はいるけれど、親友なんて人はいない。恋人もいない。両親は俺に興味がなくて、優秀な弟は立派に生きている。俺、いなくてもいい! もういいや。誰にも必要とされないのなら死のう。本当にそう思った瞬間、祖父が亡くなったという連絡が入った。俺の突発的自殺計画は中止となった」
ふう、と彼は一息つく。私は黙って、彼の言葉を待つ。
「祖父の葬式で、俺はいろんな人の言葉を聞いたよ。みんなが、立派な人生だったと祖父を褒めていた。俺は、うらやましく思った。死んだときに、皆から、立派だったと言われるのは幸福だと思った。俺の死んだ後のことを気にしてしまう自分が、そのとき生まれてしまった。俺が自殺をして、その後に、俺のことを何も知らないやつらに、何で自殺なんか、なんて言われたくない」
はは、と彼は笑った。
「俺は死んだ後に褒められたい。出来損ないの俺だけれど、死んだ後ぐらいは、よくやったと褒められたい。でも死にたい。だから、正当な自殺理由を探している。俺の納得できる自殺理由を、誰もが褒めてくれるような自殺理由を、探しているんだ」
「……それで、自殺をしている人を探しては、その理由を?」
「そうだ。俺にはどうしても思いつかないからね」
「……ありますかね」
そんなもの。
誰もが納得し、拍手を送ってくれるような、自殺の理由など。
「わからない。でも、俺の生きがいはそれだけなんだ」
「死にざまを探しているんですね」
「格好いいな、そう言うと」
いいね、と彼は笑って、立ち上がる。
ぼんやりと浮かぶ、月を見ている。
「俺は死に損なってしまった。死ぬって簡単なことじゃないな」
「生きるのも難しいです。だって、生きなきゃならないじゃないですか」
私の声は、馬鹿みたいに、震えていた。
こぼしてしまった言葉に、涙が乗っかって落ちていく。
そうさなあ、と、彼は私の方を見ずに、頭を優しく撫でてくれた。
私は涙を一粒以上流さなかったけれど、しばらくは呼吸をすることすらままならず、公園でひいひいと苦しんでいた。それも落ち着いたところで、駅まで送るとハジメさんは言ってくれた。
「で、結局みー子ちゃんはどうして死にたかったのかな?」
「まだ聞きますか……」
どうして、か。
「ハジメさんは、誰にも必要とされないと思ったから死にたくて、でも死にざまのことを考えて、納得できるものを見つけたくて生きることにしたんですよね」
「そうだね、死ねなくなっちゃったんですよ」
「私は、特に理由なんてなかったです。何をされたわけでも、苦しくなったわけでもなく、おなかすいたなあとか、ねむいなあとか、そんなものの延長で、死にたいなあって」
そんな理由で、と笑われるかとも思ったが、すぐに、彼はそういう人間ではなかったと思い直した。私の予想通り、彼はなるほどね、と真剣に私の言葉を受け止めてくれる。
「……なるほど、そうか。理由がないっていう理由もあるな……俺は死んだ後に褒めてもらいたいからその案は採用できないけれど、今までにはなかった案だよ」
「ハナさんの理由も不採用ですか」
「放っておいてほしくて、ってのは俺の理想と真逆だからな。俺は放っておかれたくないの」
「難しいですね。そうやって結局、生きぬいていく気もします」
「それは言わない約束だろ」
「そんな約束したことありません」
そうでした、とハジメさんは楽しそうに笑う。
死の影など、微塵も感じさせない、明るい笑顔だ。
「なあ、みー子ちゃんは死んじゃうのかよ」
「どういう意味ですか?」
「いやさ、俺のこと知りたくて生きてたわけじゃん」
「言葉にすると凄いですね」
「でもそうだろ? それで、ほら、知っちゃったじゃん」
「あなたのことを。そうですね。あの、さっきから思ってたんですけど、ハジメさん、私の自殺を止めたと同時に、私に死ねない理由をくださったこと、忘れていませんか」
「そんなすごいものを与えたのかな、俺は」
「ええ。まあ、ハジメさんの過去を聞いて、どうしてあんなことを言ったのか、少しわかった気もしますけれど」
ハジメさんは立ち止まった。私は黙って数歩進んだ後、着いてくる気配がないことを察し、振り向いてため息をつく。しばらく待っていると、彼は、困ったように言った。
「なあ、俺なんて言った?」
どうやら思い出せなくて困っているようだった。
私の人生にとっては決定的な一言も、当人にとってはほんの悪ふざけでしかなかったのかもしれない。よくあることだ。
「君が死んだら、学校の奴らとか、多分」
ひとつ、間を置いて、私は続ける。
「笑うぜ、って」
ハジメさんはしばらくきょとんとしたあと、腹を抱えて笑い始めた。周りの人の視線が刺さる。
「ちょ、ちょっと!」
私が駆け寄っても、彼は笑うのを止めようとしない。
「そんなこと言った? 俺! 最低じゃん! ひでえ! だはは!」
「ひどいですよ、本当に!」
「あーはは、は、でも、なんでそんなこと言ったのかわかる」
「え?」
「俺、少しみー子ちゃんに、自分を重ねてたのかもしれない。本能的に。こうすればこの子、死にとどまるって、思ったのかも」
「……どうして」
「さあね。死ぬのを止めたのは自殺の理由を知りたかったからだけど、みー子ちゃんを死ねなくしたのは、俺の気まぐれさね」
「……きっと、ハナさんも死ねなくなりました。というか、死にたいと思わなくなったと思います。少なくとも、今回のような理由では。……あなた、もしかして」
人助けをしたのでは。
二度も。
言おうとしたが、彼に止められた。
シ、と、人差し指を口の目の前に突き出されて。
「それ以上は言わない約束だろ」
「……そうでした」
「ふふ、いいね。しかし、笑った笑った!」
彼は両腕をグンと高く伸ばし「ねえ、暇?」と訊いてきた。
「え?」
「暇? カラオケでも行かない? 門限とかある?」
「無いです、でも、カラオケとか行ったことないです」
「そ。じゃあ、映画とかはどう?」
「映画館も行ったっこと無いです……」
えー! と彼が大声で叫ぶので、私は顔をしかめてしまう。
「変ですか」
「とんでもない! 今から楽しい世界を知れるんだ、あなたはラッキー! この世にはさ、現実逃避できるものがたくさんあるのよ。みんなきっと辛いんだぜ、生きるのがさ。お兄さんがそれを教えてあげよう! ハナちゃんも呼ぼう」
彼は楽しそうに、ハナさんに電話をかけはじめた。
現実逃避か、と思う。
夜道には、人工物の光が嫌になるほど灯されている。
世界は案外、明るいのだと、そんなことを考える。
了