2 自殺の理由?
救急車がきて、はい、おしまい。になると思ったら、そうはいかなかった。彼は目を輝かせ、救急車を追うと言い始めたのだ。ばれたら捕まる、やめよう、という私の提案に、彼は耳を傾けなかった。走り出す彼を、放っておくわけにはいかなかった。私はやめましょうよ、と背中に小声で話しかけながら、救急車と、彼の後を追いかけた。
救急車を追いかけるなんて無理だ、すぐに見失う、と思っていたけれど、救急車は数分で病院に到着してしまった。よしよし、と彼は私のとなりで微笑んで、病院のなかに堂々と入っていった。
庭の広い病院で、門から病院の入り口まで数メートルの距離があった。緩やかなカーブを描いた短い散歩道の脇に、ベンチが点在している。彼はよいしょ、と当たり前のようにベンチに腰かけた。たちつくしている私に、座れば、と促す。
「どうするんですか」
「彼女の家族を待つんだよ」
意味がわからなかった。私は黙って彼のとなりにいることにした。上手くはなせる気はしなかったし、彼が何をしたいのか正直そばで観察したかったというのもある。
一時間ほど、私たちは黙って病院のベンチに腰かけていた。日も陰ってきたころ、一台のタクシーが門の前に止まった。ショートカットの女性が、青ざめながら転げるようにタクシーを降車する。
「あの人かな」
ハジメさんは立ち上がると、女性に向かってかけだした。嘘でしょ、と私が呟いたときにはもう、ハジメさんは女性に話しかけていた。私は動けなかった。遠くから、彼を見ていた。
彼は三十秒ほど短い会話をし、深々と頭を下げ、道を開けた。女性はぺこぺこと何度も頭を下げながら、病院に吸い込まれていった。その背中が完全に見えなくなるまで、ハジメさんは見つめていたようだった。しばらくして、「はい」とひとつ頷き、私の隣に戻ってきた。
「明日、五時にここで待ち合わせ」
「……はい?」
「お見舞い、彼女の。心配じゃね? 俺はいくけど、来る?」
善人なのか? すこし変な善人?
私は、頭をかすめたその思いをすぐに消し去った。善人は、あんなことをいったりはしない。そう、自分に言い聞かせる。
善人ぶった人だから、興味が湧くのだ。
私が小さく頷くと「よかった」と彼が無邪気に笑うものだから、居心地が悪かった。
次の日、昨日の女性ーー彼女の母親ーーは、私たちを見つけるなり何度も何度も私たちに頭を下げた。面会に行く道中も、ずっと頭を下げていた。
病室に入る。四つのベットのうち、人がいるのはふたつだけで、右奥に初心者氏がいた。私たちの姿を見ると、ホントに来たんだ、と花のように微笑んだ。昨日の気が動転した姿からは想像もできない微笑だった。
朗らかなように見えた初心者氏だったが、母親に謝るよう促されたとたん態度が豹変した。眉を寄せ、目をぎらつかせ、断固として謝罪をを拒否した。
「勝手に止めたのに! 私は放っておいてほしかったのに! どうして謝らなきゃいけないの?」
その後、私は人生で初めて、すさまじい張り手を見ることとなる。
頬を赤くはらした彼女は、殴られてもなお、謝ろうとはしなかった。
なるほど、と彼はうなずいて、涙目になっている母親に静かに言った。
「少し席を外していただけませんか」
なぜです、とヒステリックに叫ぶ母親に、まあまあと彼は優しく近づき、耳元で何かぼそぼそとつぶやいた。すると母親は、確かにそうですねと頷いて、すごすごと部屋を出ていった。
ハジメさんは、どうやら話をすぐにまとめる能力があるらしい。そういえば私も、昨日、今日の予定を数秒で決定されてしまったことを思い出す。
彼は、さて、とベッドのふちに置いてあるパイプ椅子に腰かけた。
「俺はノザト、ハジメ。野の里に源義経の源って書いてハジメって読むんだ。ちょっとむつかしいよね、ま、好きに呼んでよ。君の名前は?」
彼女は「何度も私の母が呼んでいたじゃないですか」と冷たく言ったが、「自分の口から教えてもらうべきだよ、大切なことは」とハジメさんも譲らなかった。
「それともあれかな、もっと俺の話をした方がいいのかな? よし、じゃあ自己紹介だ。俺は三十二歳のフリーター。若く見られがちなのが悩みで、もっと深刻な悩みはストーカー被害にあってるってこと」
ハジメさんの言葉に、彼女はぎょっとして顔をゆがませた。あれ、笑うところだよと彼はおどけたが、初対面のジョークにしては難しすぎる。
「隣のこの子は、名門私立紫苑高校に通う俺の親友」
「はあ?」
突然巻き込まれ、思わず声をあげてしまうと、彼は「その制服、紫苑高校じゃないっけ」と眉をあげた。
「そうですけど、親友とか、ふざけないでください」
「何でだよ、親友だろ」
「あなたの名前も、昨日まで知りませんでした」
「そういや俺は君の名前を知らないな」
「タカハラ、ミヤコ。高い原っぱ、都に子ども!」
「じゃあみー子にしよう、決まりだ」
「勝手に……!」
意味のないやり取りだ、と思ったが、そうでもなかったらしい。
私たちのやり取りを見て、彼女がくすりと笑ったのだ。
その緩みを、ハジメさんは見逃さなかった。
「まあそういうことで、えっと、あなたの名前だけわからないのだけれど」
「わかったよ」
彼女は観念したように、自分の名を名乗った。
日立、花。タチバナちゃんって呼ぼうね、という彼の案は見事に却下された。
「いやあハナちゃん、それにしても、さっきの言葉はぐさっときたよ。勝手に止めた。その通りだね。君は勝手に死のうと思って、勝手に止められた。死にたかったのにね」
容赦のない物言いに、彼女は返す言葉をすぐに見つけられないようだった。何かを言いかけるが、口をぱくぱくとさせているだけだ。
間を十分に開けた後、ハジメさんは微笑んだ。
「突発的だったし、初めてだったろ、自殺」
初心者。
彼と私の感想は当たっていた。「そうだけど、悪い?」と彼女が歯をむき出しにした。怖い、とハジメさんは肩をすくめる。
「もちろん悪くないよ。ただ、気になるんだ。突発的に、それこそ何も調べずに、死ぬかどうか微妙な高さから飛び降りようとしたり、死にもしない傷をつけたがった、その理由が」
「理由、ですか。自殺の理由?」
ハナさんは、おっとりとした見た目の人だった。草原と手作りのお弁当、大きな麦わら帽子が似合いそうな、どこか牧歌的な香りのする人だ。
その人が、げたげたと、信じられないような声で笑い始めた。
騒音にも近い濁音が、次々と飛び出てくる。
「理由! 絶対に教えない! 教えてもわかってもらえない」
大きな声に遮られ、ハナさんには聞こえなかっただろう。
私の隣で、彼は目を輝かせ、つぶやいた。
「いいぞ」と。
「当てて見せようか、君の自殺理由を」
ハジメさんの挑発に、ハナさんは乗った。絶対に無理だと言う彼女から、ハジメさんは情報源まで手に入れた。ネット上のアカウントだ。
「確かにそれを見たらヒントになる書き込みはあるだろうけれど、あなたには絶対にわからない」
ハナさんはそう断言した。はいはい、と軽くあしらった彼は、答え合わせのときに連絡するためにと電話番号も教えてもらった。
「答え合わせのときまで死ぬなよ」
「答えが間違っていたら死んでやる」
「わかった、でも、死ぬ前に正解を教えてくれよな」
「もちろんよ」
あっさりと再度自殺するぞと言われても、ハジメさんは動揺しなかった。じゃあね、と微笑した後、彼は病室を出て、外で待っていたハナさんの母親に「もう落ち着いたみたいで、元気になっています。また会う約束をしましたから、もう死ぬなんてことはないはずです」と優しく話しかけた。
妙な人だと思った。余裕の笑みを携えていることが多く、ひょうひょうとしているように見えたかと思えば、必死になって駆け出したりもする。純粋でまっすぐな人かと思えば、平気で調子のいいことを言う。
善人のような、悪人のような。
そんな彼のことを、もっと知ってみたい。興味がある。
こんな事件の後に、お茶でも、なんて誘ったら笑われるだろうか。
「さてと、みー子ちゃん」
そんな私の心配事などよそに、彼はさらっと言ってのける。
「お茶でもどうよ?」
高校生にとって、千円を超えるコーヒーというものは幻のようなものだ。
本当にあるんだ。私はメニューを見ながら、思わずごくりと唾をのんでしまった。誘われるがままに入った喫茶店は、チェーン店ではない個人経営のしゃれた店だった。目が回ってしまいそうな値段を前に、お冷だけは可能だろうかと泣きそうになっていると、彼は「俺がおごるから」と微笑んだ。お言葉に甘えることにしよう、私は小さく、頭を下げた。
「俺、この梅ジュースってやつにしようっと。コーヒーのお店なのに珍しいね」
千二百円の梅ジュースって何だろうと思いながら、私は千五十円の、つまりそのメニューの中では一番安価なブレンドコーヒーを頼んだ。
高級な飲み物が運ばれてきたところで、さて、と彼は両手を顔の前に合わせた。
「頼みがあるんだ。ハナちゃんの自殺についての捜査を、一緒にしてくれないか」
「ええ……」
そんな頼みごとをするために、私をお茶に誘ったのか。
私はただ、なんとなく、いやあ大変だったね、でも死ななくて本当に良かった、なんて会話を交わすだけでよかったのに。ブレンドコーヒーに目を落とす。黒い液体が、じっとこちらを見つめている。
「死んでくれ」
え、と私が顔を上げると、彼はにたりと笑った。
「――なんていう頼み事以外なら、なんでもさ、お礼に言うこと、聞くからさ」
「何でも」
「そ、俺ってば金持ちなのよね」
「お金で解決できないことを頼んだらどうするんですか」
「例えばなあに?」
「例えば……」
脳内には、少し卑猥なことしか思い浮かばず、自身の想像力にあきれていると「デートとか?」と中学生のような案がハジメさんの口からとびだしてきたので、「そうですね」と肯定しておく。
「いいよ、デートでも。おじさんとデートして楽しいのかなと思うんだけど」
「いえ、デートはしなくていいです」
ええ、と彼は露骨にがっかりした表情を浮かべる。
「ええって……あなたこそ、こんな根暗そうな女子高校生とデートしたいんですか」
長い髪をひっつめて、四角いメガネから世界をのぞいている、友達もいない、とりえのない、私と。
「自己評価低いなあ」
彼はあきれたようにそう言って、だってさあ、と私を指さす。
「そんなに頭のいい学校に行っているってことは、勉強は得意ってことでしょ」
「私より頭のいい化け物みたいなやつらがごろごろいるんですよ」
「俺、成績はよくなかったから、君らまとめて全員化け物なんだけどね」
彼は口元に笑みを携えたまま、頼むよ、と体を前に乗り出す。
「頭のいい人とタッグを組んでみたいんだよ。三人寄れば文殊の知恵、賢い人なら一人で二人分」
「文殊菩薩に失礼ですよ」
「何? モンジュボサツ?」
「……忘れてください。何でも聞いてくれるんですね」
もちろん、と彼は笑ったので、私は承諾した。
彼について、どうしても知りたいことがあったのだ。