1 自殺初心者
彼と私が見つめあう。この瞬間を、夢に見ていた。
もう一度だけでいい、あの日のようにと、何度空を見上げて祈ったことだろう。
私は、彼の数メートル後ろを歩いていた。走ったら数秒で追い付きそうな距離を保ち、彼の後頭部をたまにちらちらと見ていた。
いつものように、彼はふらふらと歩いていた。たまに人にぶつかりそうになるのを、彼は知っているのだろうか。すれ違う人が困ったように眉をひそめるのを知っているのは、私だけだろうか。
いつもは周囲の人など意識の範囲に入っていない彼だったが、今日は違った。すれ違いざまに聞こえた他人の話題に興味を持ったようだった。ぴたり、と彼は動きを止め、突如振りかえる。すれ違った人の後ろ姿を二秒ほど、じっと見つめていた。
どうしたのかと思ったら、ぐるん、と体ごと真後ろを向いた。
そして私と、目があった。
歩道のど真ん中。たくさんの人が私たちの横を過ぎていくなか、二人だけが、ぴたりと魔法をかけられたように停止していた。
確かに私たちは、見つめ合った。
夢が現実になったことが信じられず、私は何も言えなかった。驚いていたのに、なぜだか私の脳みそは、きっかりと秒数をカウントしていた。いち。に。さん。三秒と少し、私たちは目を合わせていた。
彼は、すう、と私の後ろに視線を動かした。ふらふらと私の方に歩み寄ってくる。どうしよう、逃げようか。でも動かない、動けない、動きたくない。心臓が狂ったように高鳴っていた。
しかし、私以上に、彼は驚き、慌て、うろたえていた。
彼は、私の後ろを指さし、おい、おいあれ、と震える声で言った。
指の先を追うと、屋上から今にも飛び降りそうな女性が目に入った。
文字通りひっくり返るかと思った。足がよろついたのを、彼が受け止めてくれた。背中に触れる彼の手を、制服ごしに感じる。大きな手なんだ、と思った瞬間に、体が燃えるようにあつくなる。
離れなきゃ、私の身が焼け焦げてしまう。私は前にぐんと体重を移動させた。しっかりと両足で踏ん張ったのを確認したのだろう。彼の手が私から離れた。ほっと安心したのもつかの間、彼は迷いなく私の手を握ってきた。
私の手を握った?
「な、何しているんですか! あなた、な、名前は!」
「名前! 変なこと聞くんだな、ハジメですよろしく!」
彼の大きな目が、私のことを覗き込んだ。ぎゃあ、と叫びたくなったけれど、口からでてきたのは小さすぎるほどのつぶやきだった。
「ハジメ……さん」
「行くぞ、助けに!」
「え、わ、わ、私もですかっ」
「当たり前だろ、人は多い方がいい」
ハジメさんに手を引っ張られ、思わず引っ張り返してしまう。
指先が冷たくなっている。ハジメさんは目をひんむいて、いらつきをあらわにする。
「なんだよ、来いよ!」
「い、行きますから! 手を離してください!」
彼は人を信じやすいたちなのだろうか、それとも急いでいたからだろうか。「そうか」とあっさり私の手を離してくれた。しかし私もここで逃げていく勇気なぞ無い人間なので、「はやく!」と走り始めた彼の後ろをついていく。
すれ違う人が皆示し合わせたように私たちを振り返っていた。中には、私たちの目指す先に何があったのか、気がついた人もいるようだったが、あら、とか、見て、とかいうだけで、私たちについてこようとする人はいなかった。
今にも飛び降りそうな女性のいる建物は、道路を挟んだ向こう側にあった。緊急事態だったが、彼は横断歩道を渡る際、律義に信号が変わるのを待っていた。彼の視線は、屋上に注がれている。心配して見つめているというよりは、観察しているような、ひどく冷静な視線だった。先ほどの驚きはどこに消えてしまったのだろう。
私も彼に倣い、屋上にいる女性に意識を集中させた。二十代後半ぐらいだろうか、私より十歳ぐらいは年上だろう。彼女の肩まである柵をよじのぼったようで、柵に右手をかけながら、ふらふらと前後に揺れている。
長い茶色の髪と、桜色のスカートが、風になびいている。
「きっとまだ平気だ。手を柵から離したら、やばいからな」
信号が変わるのをいらいらと待ちながら、ハジメさんはつぶやいた。私は小さくうなずく。彼がじっくりと観察するような目つきで彼女を見られたのは、きっとまだ、落ちる気配がなかったからだろう。
と、いうか。
私は彼女のいるアパートに目をやる。住宅街の中によくある灰色のアパート、三階建て。
あの高さ……落ちたところで死ねるのか?
「初心者かなあ」
ぽつりとつぶやいた私の言葉を、彼は丁寧に拾ってくれた。
「だろうな」
どきりとする。不用意なことをつぶやいてしまったが、そんなにあっさり肯定されるとは。
学校でこんなこと言ってみろ、すぐに、やれ不謹慎だ、やれ非常識だと叩かれる。
私のこういうところが、私を高校で孤立させるのだ。
わかっている。
わかっているけれど、変えられない。
想像の中の恐ろしい誰かが、私を指差して叫ぶ。
自殺初心者だなんて、あたかも自分は玄人ですと言いたいのか。教室ににいる全員が笑う。
一度だけ、自殺をしようとしたことがあるだけの小娘が! と、誰のものだかわからない叫び声が、頭の中で反響する。
こんな想像やめてしまえばいい。わかっている。
でも、そんなことができるほど器用なら、こんなに悩んではいない。
「いくぞ」
彼の声で、はっと私は現実に引き戻される。彼は駆け出す。ああ、彼には迷いなんて無いのだろうなと思いながら、そういえば今は緊急事態だったのだということを思い出す。
迷っている暇などない。
相変わらずふらふらしている女性のすぐ下、つまり、彼女があのまま手を離したら落下地点になるであろう場所に到着する。彼は道行く人に声をかけ、勢いよく上を指さした。
彼が捕まえたのは、若い男性の三人組だった。背が高く、スポーツをしていたのだろうと思わせる三人は、屋上にいる女性を見つけて真っ青になった。
「万が一落ちてきたら受け止めてくれ。君は電話!」
指名された人は「どこに!」と素っ頓狂な声を上げた。ハジメさんは「イチイチゼロとイチイチキュウ!」と叫ぶと、私に向かって頷き、走り始めた。
彼は、風のように階段を上っていく。足がもつれそうになりながら、私は何とか、階段を駆け上がる。
屋上へのドアは鍵付きのものだったが、鍵はかかっていなかった。元々はかかっていたのかもしれないが、彼女が開けて、そのままにしておいたのかもしれない。とにかく、彼女の後に誰かがやってきた場合のことを想定していない。
誰にも邪魔をされないよう、屋上にでた後自ら鍵をかける、ということにまで頭が回っていない。ということは。
「やはり初心者」
今度は彼がそうつぶやいた。私もそう思っていたので、心の中を読まれたのかと勘違いするほど、ぴったりのタイミングだった。
彼がドアを開ける。
彼女はまだ、私たちに気がついていない。
「若干左に顔が傾いている」
彼はぼそぼそとそう言うと、よし、とひとつ頷いた。
「俺が彼女の右斜め後ろに回る。俺が合図を出したら、君は左側から彼女に近づいてくれ。俺の方に視線がいきそうだったら、声をかけて止めてくれ。落ちそうになっても、彼女に声をかけてくれ。近づきすぎてもだめだ、そうだな、一メートルぐらいだ。そのくらい近づけたら、小さく声をかけてくれ。少しでも彼女の意識が君にいったら、すぐに俺は彼女をおさえる」
私の返事を聞きもせず、彼はすぐに彼女に歩み寄っていった。
いろいろ早口でまくし立てられたが、要するに、なるべく近づいて彼女の気をそらせ、ということなのだろう。速足の彼とは対照的に、私はゆっくりと、飛び降りそうな女性に近づいていく。
一歩、また一歩。
私の気配に気がついたのだろう。はっと彼女が顔を上げる。
そりゃあ一メートルまで距離を詰めるなんて芸当無理だよなあ、とぼんやり思った。
彼女と目が合う。ずいぶんと薄い色の目だと思った。もしかしたら、薄茶色のカラーコンタクトでもつけているのかもしれない。
彼女は、今にも消えそうな声で、ぽつんとこぼした。
「……学生さん、の、格好をした、天使?」
何言っているの?
思わず本音が飛び出すところだった。危ない。
彼女の気を引くのが、私の仕事だ。
「私が天使に見えますか」
にこやかに笑って見せる。私は役者に向いているのかもしれない。
「天使だったら、やっぱり本物、本当のこと」
よくわからないことをつぶやいている。怖い怖い。
私は、制服のスカートのすそをつまんで見せた。天使の演技はもうやめだ。普通に話しかけるに限る。
「こんな格好の天使、いるんですかね」
「自殺しようとしたら天使なんて、来てくれないと思っていたの」
彼女の声はずいぶんと高かった。作り物の声にも思える。
「なるほど、自殺をしたら、何が迎えに来るんですか」
ハジメさんの手が、彼女にぐんとのびるのが見える。
私の時間稼ぎは成功した。
ハジメさんは「俺が迎えに来るんだよ!」と意味のわからないことを叫びながら、彼女の手をつかんだ。私に意識を取られていた彼女は、耳をつんざくような悲鳴をあげた。
やめて、離してと暴れているが、彼の腕力にはかなわないようだ。
しかし、柵の向こう側にいる彼女を、どうやってこっち側に連れてくるつもりなのだろう。
「なあ! 学生君!」
彼は私に向かって、真剣に、こう言った。
「どうしよう!」
ですよね。
はあ、と私はひとつため息をつくと、柵に手をかけた。
非力な私でも乗り越えられる。低すぎる、管理がなっていないと思いながら、私は軽々と柵を超えた。
柵の向こうに、目をひん剥いている彼の姿が、真横には、同じく目をひん剥いている女性の姿があった。
「……なんですか」
「落ちちゃうよ!」
二人が同時に叫んだので、思わず笑ってしまった。
「大丈夫ですよ、ほら、しっかり柵を握っていますから」
「いや、お前、はあ? お前も自殺するのかよ! 何で自殺するんだよ!」
「何でそうなるんですか。こっちに誰かいないと、彼女を柵の向こうにやれないじゃないですか」
えっと、と女性が困惑した表情を浮かべる。
「私を、あなたが、持ち上げるつもり?」
「そうですよ。私の助けなしに柵の向こうに戻ってくれるんでしたら、私はありがたいですけれど。さすがにここ、不安定ですし」
「だめ、天使ちゃんは死んだら!」
また妙なことを言っているし、そもそも天使に死ぬも生きるもあるもんか、と思ったところで、はたとひらめいた。謎の設定に乗っかってしまおう。
「そうですね、私を殺したくないのなら、ひとまず戻ってください」
随分とバカげた方法だったけれど、彼女はあっさり、はいと頷いて柵の向こう側に戻ってしまった。私も柵を超えて、解決、かと思いきや。
「この方法は嫌だったんですけど」
柵にもたれかかりながら、彼女は胸元から小型の包丁を取り出した。ぎょっとした私は、彼女の隣で硬直してしまう。
「おい、やめろ、落ち着け」
彼女の前に立っていたハジメさんも、両手を前にして震えていた。
彼女はぼんやりとした目つきで、手首に包丁を横向きに当てた。
……えっと。これはもしかして。
彼に目をやると、彼は電撃に撃たれたようにはっと体を揺らした。
私の言いたいことがわかったらしい。
「初心者め」
彼は言って、彼女に向かって手を伸ばす。包丁の刃をむんずとつかんだことには驚いたが、私より彼女の方がより驚いたようで、ぎゃあ、とかわいくない悲鳴を上げた。
そして、包丁をぱっと手放した。
「あのな、包丁でリストカットってなんだよ。それに、横向きに切って死ねるか!」
勝ち誇ったように言う彼の右手には、包丁がむんずと握られている。
手のひらからは、少しの血が流れていた。
「血……やだ、嘘ぉ」
その血を見て、彼女は気絶してしまった。
「……嘘ぉ、はこっちのセリフ……」
サイレンの音が近づいてくる。彼の言葉はひどく物悲しく、秋晴れの空に消えていった。