窮鼠となったならば
「こんな仕事ばかりなのですか?特対課って。」
五月女のスーツの上着は破れ、左の二の腕からは血が滴っている。
彼は死人に思い切り噛み付かれ、床に引き倒された。
「あぅ、ぎゃあ!」
五月女は痛みをこらえると、噛み付いている被疑者の鼻を右手で押さえたが、彼らはもともと死人なのだ。
鼻を塞いでも空気を求めて口を開けることはない。
五月女が腕に食い込む痛みに気が遠くなりかけた時、噛みついていた死人がびくりと痙攣して大きくのけぞってた。
五月女から弾かれたようにして床に落ちた死人は、殺虫剤をかけられたゴキブリのように縮ませた手足のままじたばた蠢いていた。
半身だけ起こした五月女の腕をつかみ、自分のネクタイで五月女の腕の止血をし始めたのは楊だった。
彼は簡単な応急処置を五月女に施すと、彼の腰に下げていた縄でその死人を括り上げた。
五月女は楊の腰にあと二本は縄がぶら下がっている事に内心驚いていた。
楊はどれだけの死人を括るつもりなのか、いや、どれだけ襲いかかろうと対処する心づもりであったのだと、畏怖の念だ。
「課長、ありがとうございます。」
「いいよ。当り前。」
自分を襲った死人が括られたことで落ち着いた五月女が自分の周りを見回すと、葉山と水野が机と椅子で簡単なバリケードを作っており、その横で佐藤が時々襲い掛かる死人を威嚇しているという光景だった。
佐藤は細いたけのこのような金属の武器、違法の特殊警棒を持ち、それで死人がバリケード内に討ち入ろうとする度に、彼らをしたたかに打ち払っているのである。
天井から彼らを襲った死人達は動きも素早く、彼らに抱きつかれまいと自分を守るだけで全員が精一杯であった。
五月女も本部において理性の消えた暴れる麻薬常習犯を何度も制圧してきたが、それらは人間でしかなかったのだと身に染みた。
床に打ち付けられたその体をものともせず、五月女が握る左腕の関節が外れることなどお構い無しに体を捻って噛み付いてくるなど、五月女には想定外の動きであったのだ。
五月女は数分前の記憶を思い出しながら、鈍い痛みで疼く左腕を無意識に押さえ、しばしの安全地帯のなか、楊に括られた自分を襲った死人を怖々と見返した。
これは、なぜだか楊に縛られてからもピクリとも動かない。
トランクから出した白塗りは、括られていてもあんなにも暴れていたのに、だ。
「こんなのは初めて。通常はね、痛みを与えると動きは止まるんだよ。こいつらの動きが止まらないところを見ると、痛みも感じないのかもしれないね。」
「ですがこいつは、課長に括られてからピクリとも動きませんね。」
楊は五月女の疑問には何も答えず、印象的な大きな瞳をおどけるようにぐるりと回しただけである。
「あの。」
「痛みを感じないゾンビなんて、一番嫌な敵だぁ。」
五月女がもう少し尋ねようとした時に葉山の声が割り込んだが、彼の声音には嬉しそうな響きが入っていた。
「葉山さんは嬉しそうですね。」
「君は楽しくない?」
気楽そうな声を出した葉山だが、彼は五月女にも楊にも振り向かない。
なぜならば、葉山と佐藤、そして水野は、五月女と楊を守るようにして中心にして背を向けて三方向を監視しているのである。
バリケードは相談もする素振りもなく示し合わせた様に行動した葉山達三人によって教室の中心辺りに作り上げられ、五月女は作られつつあったバリケードの真ん中に楊によって守られながら引き込まれただけである。
五月女は周囲を見回しながら、冷静になった今では三人が壁に接したバリケードを作らなかった理由を理解した。
天井や壁を自由自在に這いまわれる敵ならば、壁を背にするバリケードでは自殺行為だと考えなくともわかる事なのだ。
そして、バリケードの完成は、そのまま楊達の退路を断ったも同然である。
五月女の絶望を知ったかのように、死人達は全くの動きもなく静かだ。
バリケードが完成するや、残った四人の死人達は一斉に引き下がり、しかしながら教室内の二箇所、受付とビル内への出入り口付近に立ち、確実に楊達の退路を断っているのだ。
「兵糧責めは生きている人間にこそだねえ。」
楊が皮肉そうな声で呟いた。




