百メートル先
佐藤から報告を受けた楊は、すぐにパソコン教室近くの交番の署員に指示は出していた。
パソコン教室の情報が欲しいが、教室の中に入ったり関係者に接触する事だけは決してするなとの注意も入れて。
しかし楊の電話に応対した「せいやかんじ」という巡査は、楊の指示に訝るどころか嬉しそうな声を出した。
「そこは一月前に夜逃げ同然に閉めたところですね。家賃が払われていないと大家が被害届を出しに来たので覚えています。えぇっと、丹波さんだったかな。先月の二十八日早朝に大きな鞄を持って教室から出て行った教室主催者の姿が近隣住人に目撃されています。」
カチカチとパソコンの操作をする音が電話口で響いたあと、せいや巡査が「あ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「被害届の取り下げもありました。その翌日に。あら、自分が出した書類も返して欲しいって申し出も、です。」
「もしかして、返送された書類がまだそこにある?」
「はい。まだ受取にも来ていませんね。」
「そうか。ありがとう。それじゃあ、相模原東署の楊宛でその書類を送ってくれるかな。」
「かしこまりました。それで、かわやなぎは川に柳と。」
「木偏に易のヤナギ一文字です。」
「やなぎではなく、それだけでかわやなぎと読ますとは、面白い苗字ですね。」
「そうだね。君の珍しい読みの苗字はどんな漢字なんだい?」
「ぎょうにんべんに正しいの征と弓矢の矢です。」
巡査とのやり取りを思い出し、楊は別の記憶も思い出していた。
「面白い苗字だよね。一度聞いたら忘れられない。おまけに一文字で済む。かわやなぎを楊で表すのは万葉集でも四つの歌にしか使われていないって知っているかい?」
「ジェット?」
「むかーしは日本語も全部漢字で表していたから、カナ文字が出来るまで大変だっただろうね。さらに漢字は一文字で様々な情報を含んでいるから、間違えれば大変だ。もっと言えば、大陸と日本では意味が正反対だったりもあるからね。取り扱い注意だ。」
白髪に母親に良く似た印象的な彫の深い二重に笑い皺を寄せた男は、幼い友人が持っていた画用紙に何かを書き込み始めた。
「さぁ、勝利。君はわかるかな、この意味が。」
彼が書いた文字は、画数も少なく簡単であるが、楊が初めて見た漢字であった。
「読めないよ。夕方の夕に生まれるって、どう読むの?」
「どうしても読めない時は右側を読むと読める時があるって教えただろう。」
「せい。夜に晴れて星が見える。」
楊は空を見上げた。
日が落ちかけた暗い空には星が瞬いている。
「雨が降っていても夜には必ず晴れるって?晴れても暗いままじゃん。じじい。」
「かわさん。どうかしましたか?行きますよ。」
黒のセダンに白塗りと通常死人を押し込み終わったらしい葉山が、声をかけておいて聞くまでも無いという顔で楊に微笑むと、楊達の目的地であるパソコン教室のビルの方へと歩き去って行った。
佐藤と水野も楽しそうな足取りで葉山に続く。
一人取り残された五月女が、部下に取り残された上司を伺うような顔をして立ち尽くしていた。
楊は五月女のその姿に初々しさを感じ、自分がいつも髙にかけられる言葉を彼にかけてしまっていた。
「では、参りましょうか。いつもより危険でしょうから心して掛かりますよ。」
「はい。課長。」




