なんてヤナ子と楊は大きな溜息
葉山の鬼畜な言葉を耳にした坂下は目玉が飛び出るほどの驚きの顔をして見せたが、数秒もかからずに自分の進むべき方向へ突き進むことに決めたらしい。
バチンと音がするほど両手を合わせて葉山に拝むと、幼子の聞かせるべきではない幼子の保護者の言葉を口にまでしたのだという。
「頼むよ。白波の方々もパーティや神社の初詣準備に忙しくて動けないからとね。今連れ帰られても面倒が見れないって。白波酒造の横浜支店の従業員用のベビールームに入れておけばいいとも言われたけどね、年末に一人ベビールームって可哀相じゃない。」
「だから特対課へと?可哀相だけれどあなたもそのパーティに出席するつもりだから?」
身を起こした坂下は今までの低姿勢など無かったかのように、葉山ににやりと悪辣そうに笑って見せた。
「俺の担当は松野葉子だよ。忘れたのかい?面倒だったら楊に投げればいいから。あいつは小動物はなんでも可愛がるだろう。」
坂下警視は葉山に小さな白波を手渡すと、一分一秒を無駄には出来ないというあからさまな意思を見せつけるような物凄い勢いで廊下を駆け抜けて行ったのだという。
「すぐにヘリの飛び立つ音が聞こえましたから、絶対に彼はあれに乗っていましたね。」
「あの厚顔警視。」
楊は坂下を罵ると、気分を変えるべく坂下に押し付けられた少女に目をやった。
葉山から聞いた事情から言えば、彼女は迷子というよりも家を追い出されたかのような身の上で、楊には気丈に振舞う少女に対して持ち前の同情心が湧きだしていたのである。
だが、楊の視線の中に同情があると読み取ったからなのか、彼女は楊に対してフンと高慢そうに鼻を鳴らした。
「あら、似ているけど、ちびの方が美人だね。ぜんぜん可愛くない。」
「かわさん、大人気ない。」
「いいのよ。お気になさらず。お茶どころか椅子を勧めもしない愚鈍な男に期待などしておりませんわ。疲れ切ったあたくしは勝手にすることにして、そこの長椅子を使うことにします。」
「おい、愚鈍って俺かよ。おい!」
「かわさん。」
少女は楊と葉山からくるっと背を向けると、部署の奥に置いてある長椅子へととことこと歩いて行った。
ビーズがぎっしりと刺繍されている丸い小さな鞄をぶらぶらとぶら下げながら遠ざかっていく少女の後ろ姿に、葉山と楊が太々しいと呆れ顔で少女に注目していると、彼女は長椅子に辿り着くや靴も脱がずにそこにごろりと転がったのである。
そればかりか、仰向けになって落ち着くと、彼女は楊にチロリと目線を動かして右手を楊に向かって持ち上げたのだ。
その右手の動きは主人が召使に指示を与えるそれである。
「え、何だって?」
「もう。本気で気が利かない方ね。あたくしの旅行鞄をここに持って来なさいって意味でしょう。鞄にあたくしのひざ掛けが入っておりますの。急いでくださる?」
「知っていて何だって言ってんの。お嬢ちゃん、自分でやんなさい。それから横になるのなら靴を脱ぎなさい。その長椅子は皆様の税金で支給されているという、簡単に買い換えられない大事な物なのよ。」
仰向けで胸元で腕を組んで横になっている少女は、楊へ対して軽く眉をあげると、体を起こして長椅子に座り直すと素直に靴を脱ぎだした。
それどころか小さな鞄から子供が持つようなものでは決してないだろうレースで縁取りされた紫色のハンカチを取り出すと、先程まで自分の足が当たっていただろう場所を軽く拭きだしたのである。
「あれ、かわさん、いい子じゃないですか。子供は疲れると不機嫌になるものですから仕方がないですよ。ええと、一先ずジュースでも買ってこようか。君は何がいいのかな?」
「あら、あたくしは水でも結構ですのよ。ありがとう。」
「さっきは茶も出さないと不貞腐れていた癖に。」
「かわさん。」
「いいのよ。かわさんとやらは、ご自分が長椅子と同じ税金による産物だと思っていらっしゃるから、長椅子を汚したあたくしが許せないのでしょうよ。」
葉山は思わず噴き出したが、楊は吹き出すどころか叫び出した。
「同じじゃねぇよ!長椅子が税金払うか!給料が税金からでも、俺はその給料から税金をしっかり、脱税したくてもできない状態でがっつり払っているの。社会保険だって、ものごっつ、俺は引かれているんだ!そんで減ってしまった悲しい給料から、付き合いだって、助け合いの制度だからって、保険とか保険とか保険とか、俺が受け取れない俺の生命保険まで無意味に払ってんだからね。」
「かわさん。大人げないからやめて!今日はどうかしたのですか?早朝の事故現場がそんなに酷かったのですか。ちょっとぐらいの我儘ぐらい許してあげましょうよ。意地を張って家出したら、家から帰って来るなと言われた子でしょう。」
「あ、馬鹿。お前の方がひど過ぎって、うわぁ!」
「危ないっ。」
長椅子から天然石が数珠のように連なっているブレスレットが、勢いよく楊たち目指して飛んできたのである。
運動神経の良い二人は同時に攻撃を避け、到達先が無くなったそれは楊の机に当たって糸が切れて弾け、ばらばらと床に丸い小石を散らばらせた。
咄嗟に身を捻ってブレスレットの攻撃を避けていた楊と葉山は、アメジストとローズクォーツに翡翠という、確実に本物の高級天然石が床を四方八方に転がりだしたのを見て取るや、一斉に床にかがんで慌てたように拾い始めた。
一粒でも見当たらなかったら、責任を負わされるのは今のところこの二人である。
「うわぁ、いくつだっけ。ほら、そこの持ち主!石はいくつついてた!」
楊が長椅子を見返せば少女は再び横になっており、楊達に背中を向けているからか、彼女が着ているファーコートによって、まるで真っ黒な大きな毛虫が長椅子に転がっているような光景だ。
「なんだ、あの毛虫少女は。トゲっトゲだよ。」
「かわさんたら。あ、震えていますよ。マナーし忘れました?」
「あ、本当だ。」
楊は立ち上がりもせずの手を伸ばし、机の上で震えていたスマートフォンを取り上げた。
「クロからですか?」
「いや。毛虫の持ち主から。」
「持ち主、ですか?」
葉山が首を伸ばして画面をのぞき込んできたので、楊はすぐさまそのメールを開いた。
「白波矢那をお受け取り下さったあなた様へ、ヘリコプター遊覧オプションのついた新潟旅行をプレゼントいたします。ご出立の日まで矢那の保管とメンテナンスをどうぞよろしくお願いいたしますって、クミちゃんめ、ふざけやがって。」
「わぁ、ヘリに乗れるなんて嬉しいなぁ。」
「葉山、棒読みだよ。」




