大蛇が笑う
牧場主の譲は家族に牧場を任せて新潟に飛ぶのだと決め、新たな客人はともかく、セントバーナードの重量で、アミーゴズは酒樽を一樽諦めた。
「代りにトラックで諦めた酒樽と追加の酒樽を運ぶって豪勢ですね。それなら別に同乗しなくてもご自分は飛行機で犬はトラックという手も。」
「酷いね、百目鬼君は。プライベートジェットに、それも和君がデザインしたモッカちゃん飛行機に乗れるのなら安いでしょう。ミミちゃん一人トラックは可哀相でしょう。」
武本譲は武本家そのものであった。
もっと始末が悪い。
彼は乳製品うんたら協会の重鎮でもあったのだ。
金と肩書きがあるから大体の我侭を通せるのだろう。
彼の自宅のレストランも牧場も道楽に過ぎず、ダチョウなどは本気でお遊びでしかなかったのだ。
まだ真面目に金儲けを考えている武本物産の武本一族の方が理解できると考えて、そこで武本が譲に無駄な道産子を押し付けているという事実に考えが至り、やはりどいつも武本でしかないと俺はプライベートジェットで寛ぐだけにした。
「道産子にダチョウと聞いたら来年は本気でかわちゃんが便乗してくるね。プライベートジェットが今年限りだと理解させるのが面倒臭いよ。」
「えー。来年も使おうよ。」
何の気なしに呟いた俺の前には、操縦士のはずの由貴が立っていた。
「お前は操縦席離れるなよ。怖いだろ。」
「いいでしょ。クミの隣にはうちの新人ベテランを乗せているからね。」
「来る時は二人だけだっただろ。それで、新人なのにベテランって何だ?」
「空港でさ、首になったパイロットを雇ったからね。元自衛官の水野直樹君。民間会社に転職した途端に無職だなんて、雇ってあげたくなっちゃうだろ。」
彼はすとんと俺の隣に座り込んだ。
「人情家だねえ。君ってそんな甘い奴だったか?」
由貴はヒヒヒと嫌らしい笑い声を上げた。
「知っている?航空機って、パイロットは決められた時間内にお酒を飲んではいけないのよ。飲んでいた人がいたら飛べなーい。」
俺はそれで由貴達が酒を一滴も飲んでいなかった事に気がついた。
「そのパイロットとやらは、どうして首になった?」
「酒飲みの同僚を咎めちゃってね。それで代わりの操縦士を会社が補充できなくて一便欠航というね、会社に損失を与えた咎で首だってさ。酷いよねぇ。彼はさあ、パイロットとしてとても優秀な人なのに。彼を切って馬鹿を守ったために、暫くその会社は飛行機を飛ばせないって、馬鹿だよねぇ。」
「飛べないんだ?」
「飛べないね。深酒した操縦士を乗せた飛行機は飛べないね。元自衛官ってことは、管制塔に知り合いがいるだろうって考えない航空会社ってお馬鹿さんよね。でもさ、クミちゃんには新しき良きお友達も出来て幸せかもね。」
「お前が隣に並べば幸せなんじゃないのか?」
由貴は眉毛を上下させて意地悪そうに微笑んだ。
「水野君もクミちゃんも、子供にパパと名乗れない可哀相な身の上でね。水野君は離婚した奥さんの出産が再婚後だったからね、会わせて貰えずに養育費だけ搾り取られる毎日。」
俺は操縦室にいるらしい、そのマヌケな男にしっかりと同情してやった。
ここまで同情してやればいいだろうと云うほどに。
そして、好奇心を満たしたくなった。
「クミは?」
「酷い!その流し方は水野君をぜんぜん可哀相だと思っていないね。」
「お前だって、間抜けだと思っているだろ。」
俺達は顔を合わせて悪辣な表情を互いに浮かべた。
「まぁ、他人の不幸は蜜の味だよね。それでクミはね、既婚者に手を出したの。離婚しても半年ルールあるでしょう。子供が自動的に旦那さんの子供と認定されるって奴。」
「うわ、最悪だな。それで、自分の子供と名乗れないけれど、あいつも養育費は搾り取られているのか?」
「水野の元嫁さんに騙されていたって事を知ったばかりのお馬鹿さんでさ、笑えるだろ。互いが穴兄弟と知った二人は、涙で計器が読めないって操縦席で泣いて慰めあっているんだよ。」
「そんな危険な飛行機に乗せやがって。ふざけるな!」
元自衛官の水野直樹の元嫁は、久美と水野の二人から巻き上げた金で、第三の男の子供を育てているらしい。
悪魔の双子の片割れはその片割れの身の上に同情などない風情で、楽しそうに俺の隣でペットボトルの水を酒のように飲んでいる。
彼は爛れた私生活を送っているように振舞うが、その実玄人の従兄弟連中の中では一番ストイックなのではないのかと思った。
「何の、話?クミちゃんがどうかしたの?」
「この飛行機で暫く俺は海外を文字通り飛び回るからね。定期運送操縦士の資格持ちの優秀な人を見つけたら奪わないとさぁって。今日は玄人がいたから助かったよって話。」
俺達の目の前には、いつのまにか女神が立っていたようである。
俺が玄人に答える前に由貴がなぜかあっさりと話題を変えたので、これは玄人には秘密なのかと俺も了解した。
玄人は十二歳の時の虐めで殺されかけ、最近まで記憶を失っていたのだ。