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「素晴らしい。やはり私が認めただけのことはあるな……聖獣カーバンクルよ。褒美として、無名の獣のお前に名前を与えよう」
──無名の獣か。
今まで《1号》としか呼ばれなかった。
でも、そうではないんだ。俺には名前があった!
かつて人間だった頃に、両親から大切な名前をもらったはずなんだ……。
でもその名前を思い出すことができない……!
募る悲しみ、何もかもぶちまけたくなる衝動。
もしかすると今なら、俺は人間の言葉を喋れたかもしれない。
この獣の口をうまく使えば、人間の言葉を発せられたかもしれない。
でもそれをしなかった……。
魔術師エドワードが訝しむから。
今はじっと堪えるんだ……。
従順なペットとして牙を伏せて生きる。
そして時が満ちたら、俺はこの世界の文字を学び、言葉を話すんだ。そして本当の自由を得るんだ。
「お前の名前はこれから《フューリー》だ。私が究極の術を完成させるそのときまで……フューリーよ、お前にもいろいろやってもらうぞ! 期待しているからな」
フューリー?
俺の名前……?
究極の術?
もっと上位の服従魔法を習得するつもりか?
俺は確信した。
領主エドワード・クロスカインは、このヴィオニック禁呪図書館を占領して、魔法の研究をしている。
それも自らの領地経営をおごそかにするほど……。
だが何のために?
それが分からない……。
それから。
俺は夕食の時間まで屋敷を見てまわった。
優しいマリアが俺を案内してくれた。
1階には広い玄関ホールがあり、左にダイニングルームとキッチン。右には応接室と式典のためのダンスホールがある。
さらに奥には使用人の部屋らしきものが10個、あとは倉庫のような部屋がひとつ。
2階には領主エドワードの寝室と書斎。
ほかには来賓用の部屋が5個と、マリアの個室がある。
気をよくしたエドワードが1階の空き部屋を俺のものにしてくれた。
部屋といっても、ずっと放置され埃まみれになっていたものだ。それをマリアが掃除してくれた。
「領主様があなたのことを褒めておりました。それに私もあなたは特別な存在だとおもっています。伝説の《守護聖獣》様の生まれ変わりなんじゃないかって」
そういってマリアがうっとりとした顔で微笑む。
その《守護聖獣》さまというのは分からないけど……。
伝承に出てくる英雄みたいなものか?
いつか詳しく聞いてみたいね。
さてと。
そういうわけで部屋をもらった。
かつて使用人が使っていたものだろう。家具などはいっさい取り払われており、がらんとしている。
簡素で狭い部屋だが、ペットの俺が部屋をまるごともらえるなんてありがたい。
ボールには水がなみなみと注がれている。喉が乾いたらこれを飲めということか。
それとおやつのつもりか、皿に干し魚が乗せてある。
そういえばキッチンに干し魚がたくさんあったし、やはり海岸沿いだから魚がたくさん取れるのかな。
そういえばマリアはここは島だと言っていた……。
するとこの島はどのくらい大きいか?
そしてエドワードはこの島全域を支配する領主なのか?
さまざまな疑問が浮かび上がる。
俺は部屋でごろんと横になった。
俺が見る限りでは、この屋敷にはエドワードとマリアしかいない。
1階の使われてない部屋は放置され荒れ放題だ。
つまり来賓が訪れることはない?
そもそも俺が連絡橋から図書館に渡ったとき、街が見えた。
静かで廃墟みたいだった。
辺境で発展できず、領民は飢えと病に困窮し、脱走して一人もいなくなった?
暴動は起きなかったのか?
領民が反乱をおこし、貴族が処刑されるのは、地球の歴史でもよくあることだ。
国が裕福になれば市民は力を持ち、政策にも口をはさむようになる。
だから暴動がおきてもおかしくないはずだが。
もっともここは魔法の存在する異世界だ。
魔術師エドワードが服従の魔法を操り、領民を支配していてもおかしくはない。
事実、俺は何らかの魔法によって体の自由を奪われたことがある。
魔法や魔物、精霊、幽霊、神、この世界に存在する全てのものを考慮して、物事をはかる必要がある。
俺がネットで見た地球の《政治学》は、この世界でどれくらい通用するだろう?
コネを作るためにも、この世界の政治に詳しい人物に会ってみたいなぁ。
こんな広い屋敷なんだから、政治に精通している職員がひとり住んでいてもおかしくないよなぁ。
そこでふとおもった。
この屋敷には使用人はマリアしかいないのか?
1階には使用人の部屋が数個あった。これほど広い屋敷だ。マリアだけでは仕事をカバーできない。
最低でも使用人が3人で料理人が1人は必要だと思うが……。
それに領地をうまく経営するためには、何人かの知識人がアドバイザーとして必要だよ。絶対に。
……やはりそういう人物は目障りだから処刑されてしまったのか?
いや。
エドワードでもいくらそんなこと……。
やがて柱時計の鐘が鳴り、夕食の時間をつげた。
腹の減った俺はダイニングルームで待っているとマリアが来た。
彼女の作ってくれた魚のバター焼きが非常にうまかった。
これは剣鰭魚という食用魚らしい。
見かけは、背鰭が硬くて刃のようにするどい鮭、といったかんじだ。
魚の脂身とあいまって、バターのうまみが味に深みをだしている。
それでいてあぶらっぽくない。ハーブの香りが良いアクセントになっているから。
噛めば噛むほど味がでて至高の逸品だ。
なんたって俺は狐に似た姿の聖獣カーバンクルだ。
だからドッグフードや残飯を出されたらどうしようかと思った……。
でもいらぬ心配だった。
なぜならマリアは俺の事を我が子のように大切に思ってくれているから。
食欲を満たし、俺は部屋に戻って毛布にくるまる。
朝日がのぼり、ふたたび主人のエドワードに呼ばれるまで眠ろう。
前世では味わえなかった興奮。奇妙で美しい景色たち。
魔法と神秘に彩られたこのすばらしい世界を賛美しよう。
夢の中でも、これ以上に素敵な光景に巡り合えるだろう……。
眠れない。
興奮が冷めずに眠れない。
いや眠れないのはそれだけじゃない。
何処から歌うような声が聞こえる……。
それに踊っているような軽やかな足音も……。
カーバンクルの耳は狐に似て大きいので聴覚が鋭い。
ゆえに屋敷のなかのさまざまな雑音が聞こえてくる……。
これはメイドのマリアではない。
彼女はキッチンで掃除をしているから。
それとも魔術師エドワードが寝ないで何かやってる?
だが足音のリズムが、なんというか彼の歩き方とは根本的に違う。
まあ、やもり竜がいる世界だし、幽霊がいてもおかしくない。
農民の幽霊が屋敷を徘徊しているとか?
だとしても……これじゃ気が散って眠れないよ。
これでも俺は睡眠に関してはうるさい方だ。ちょっと物音がするだけで気が散って眠れなくなるので……。
前世ではさまざまな寝具店から低反発ウレタンの枕を買いそろえていた。
高級ホテルで使われるような高密度連続スプリング式マットレスを使用していた。
そしてアイマスクをして、ヨハン・パッヘルベル作曲のカノンを1時間くらい聞きながら、やっと入眠する……。
だからこんなふうに騒がれると、気になって一睡もできないのだ。
どうしたものか。
相手が幽霊でも抗議すべきか?
でも俺が夜中に徘徊していると、エドワードは嫌な顔をするだろうなぁ。
だから彼に見つからないように気をつけねば……。
それにメイドのマリアにも……。
別に彼女を疑っている訳じゃないが、捕まって部屋に戻されたら面倒だし。
ゆえに誰にも見つからず、こっそりと歌声の主を探すこと。
どうにも歌声は屋敷ではなく図書館の方から聞こえてくる……。
これはRPGで俗にいう必須イベントというやつか。
やはり行くしかないか。