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それにこの場所にも見覚えがある。
そう思い出したぞ。
確かに俺は来たことがある。
ゆっくりと立ち上がり、空を仰いだ。
ガラスというか水晶のような、奇妙な材質で造られた尖塔が空を穿つ。
光の川をはさむように、無数の塔がそびえ立っている。
俺は息を呑んだ。
傍らで小柄な神が頷いた。
「思い出したか?
ここは《虚石都市》。
数多の世界の神々が、調和を求めて集う場所。
でもあの時のお前は、此処を《チュートリアルステージ》と呼んでいたな」
そうだ。
前世で俺は心臓発作を起こして倒れた。
今際のきわに、光の糸が俺の体に巻き付くのを見た。
その糸に導かれて、俺の魂はこの場所に来たんだ。
あの時もこうやって船に揺られながら、異世界に向かっていたんだ。
でもその時は不安で一杯だった。
だからしばらくのあいだ、俺はこの《虚石都市》で修行していたんだ。
アラクネアを相手に、話す練習をしたり。そうやってコミュ障を直したり。
翻訳魔法の精度を高めたり。
筋トレして、たるんだお腹をへこましたり。
ほんとうにアラクネアには、お世話になったなぁ……。
「あのさ、俺ってどれくらいここに居たんだっけ? その、この《チュートリアルステージ》にさ」
「300日だな。だから慎重で用心深い奴だと思ったぞ」
ああ。そうだ。
やっと全部思い出したよ。
封印されていた記憶が、硬い殻を破って溢れ出す。
はじめて異世界に行くのが不安だったから、俺はこの《虚石都市》で300日も過ごしたんだ。
前世では《引き篭もり》だったのに、転生したら《チュートリアルステージ》でまた引き篭もっていたなんて……。
俺はフッと笑いながら、大空を仰いだ。
空の彼方では、ダイヤモンドのように輝く星が散らばり、それらを繋ぐように不思議な《光の糸》が伸びている。
そして幾つもの船が、糸に引かれて星から星に渡ってゆく……。
「あの空にある星の一つ一つが《世界》だ。
見ての通り《世界》は星の数ほどある。
その中には様々な人間や亜人、魔物などが住んでいる世界もある。
そして彼らの一つ一つには必ず神によって定められた運命がある。運命というものは淀みやすい。だから水のように常に激しく流れていないといけない。
それが滞ると、やがて《世界》の運命そのものが破滅してしまうから。
だから私はそうならないように、運命の大河に新しい水を加えるんだ。それもこの私《蜘蛛の神アラクネア》の責務だ」
運命の大河に新しい水?
フフッ。
なるほど。面白い表現だな。
俺も水になって《運命の大河》に投げ込まれたわけだ。
「俺も船に乗って、光の糸に導かれながら《世界》から《世界》に渡って来たんだなぁ……」
しんみりする。
そこでアラクネアがこちらを向き直った。
フードを被っているのでよく分からないが、その目はじっと俺を見つめ、咎めているように見えた。
俺はアラクネアと沈黙したまま対面した。
しばらくして、アラクネアが口を開いた。
「さて、お前をここに連れてきたのは他でもない。
お前の真意を確かめるためだ。
まったくお前は大馬鹿者だ。あの誘いを断るなんてどうかしてるぞ。
お前にとっては、とても都合の良い誘いだったのに」
「えっと、なんのこと……?」
「《死神ヘグファルト》のことだ。契約すれば、お前は地球に戻り、もういちど人生をやり直せた。
きっと前よりも良い人生を送れたはずだ。そっちのほうが賢明な判断だと思わなかったのか?」
そんなことか。
俺はすこしうつむき加減に、屈託のない笑みを浮かべた。
「もちろん心が揺らいだよ。
でもさ、本当にそれでいいのかなって疑問が浮かんだ。
自分だけ幸せになれたらそれで良いのかって……。
マリアやエドワードが死んでも良いのかって。
あの世界に住んでいる大勢の人間が、やがて復活するグレムコロイトゥスの餌食になっても良いのかって……。
そう考えると嫌になった。
前世では、俺は現実から逃げてばかりの《引き篭もり》のおっさんだったけど。
異世界に行っても現実から逃げ続けるのかって……。
そう考えていたら、自然と体が動いた。死神に反撃していたんだ……。
それにさ、あいつことだ。絶対に袖の中に短剣とか隠していたよ。おとなしく跪いていたら、喉を切り裂かれたかもしれない……」
「それがお前の真意か?」
あくまで俺の意見だ。
揺るぎない答えだ。
アラクネアがどう思おうとも。
かの神は小さくため息をついた。
きっと俺を無謀な奴だと思ってるだろう。
しばらくの沈黙。
先に静寂を破ったのはアラクネアの方だった。
「……私もあいつは嫌いだ。
己が《守護神》の1柱のくせに、神王の座を狙っている。
そのためなら世界を滅ぼす《神々の最終戦争》さえ起こしかねない。
だからもしもお前があいつの出鼻をくじいたら、最高に愉快だな」
「ああ、そうだね」
どうやら《守護神》同士でも一枚岩じゃない。
神様もそれぞれの思惑があり、それが複雑に絡み合っているんだ。
「そう思うか?
大した度胸だ。だからこそ私はお前を選び、あの世界に転生させた。
あの世界が滅びようとしていたから。
なあ覚えているか?
お前が初めてここに来たとき、私と異世界のことについて、たくさん話をしたんだが。
私はお前をエドワード本人に転生させたかったが、お前はそれを拒んだ。
なぜかお前はずっとエドワードのペットを見ていた。つまりあのカーバンクルをな。
モブキャラのペットに転生したいなんて、酔狂な奴もいるもんだと、私は笑ったよ」
「え? 俺って、そうだったの?」
「そのときにお前は言ったんだ。
《引き篭もり》の俺は隔絶された場所から、ずっと外の社会を見てきた。
だから離れた場所から人間たちを見守るのが好きだ。彼らの暗い未来を《照明魔法》で明るく照らしてやりたい、と」
「ううむ、ぼんやりとだけど……確かにそう言ったような……覚えが……」
「だから私は、お前を領主のペットの《聖獣カーバンクル》に転生させた」
「あははははッ! おかしな注文だけど、結果オーライだろう」
俺の体が少しずつ透明になっていく。
ここに居られる時間の限界が来たようだ……。
「そろそろ時間だな」
「……ねえアラクネア、最後にひとつだけ聞いてもいいかな?」
「なんだ」
「はじめてここに来たとき、俺は君と何か約束をしたはずなんだが。
それが思い出せなくて……。
だから、もういちど教えて欲しいんだ。俺はどんな約束をしたのかな?」
アラクネアがフッと笑う。
「別にたいした約束じゃない。
役立たずの《引き篭もり》だった俺が、異世界に行ったら誰かを幸せにしてみせるぞ。
だから俺のことを応援してくれ、とお前が勝手に口約束しただけだ」
「そうか。でも、ただの口約束じゃないよ。
なんといっても神様との約束だ。
俺の大事な使命だ。
やはり俺だけが逃げて幸せになるんて出来ない。
たとえこの身が滅びようとも、俺は絶対にヘグファルトを止めてみせる!」
無謀な勇気だ。
これじゃアラクネアだって呆れて、そっぽを向く……。
でも違った。
アラクネアはクスクスと笑っている。
そして両手で自らのフードを降ろした。
ふぁさっと金髪が舞う。
そこには金髪のおさげ髪の、幼く可愛らしい少女の顔があった。
「うん。強くなったね。初めて会った時とはまるで違う。
この短期間で、見違えるほど成長したよ。
だから、これからもずっとお前を応援するぞ」
もしもアラクネアが俺の《守護神》になってくれたら、これほど心強いものはない。
アラクネア……。
決めたよ。
俺は君と契約する!
視界が白い光に包まれていく。
手足の感覚がなくなっていく。
『契約は成された。われ《蜘蛛の女神アラクネア》は汝の《守護神》となり、汝が試練に打ち勝つための《加護》を授けよう……』
人間の四肢としての感覚がなくなっていく。
そして俺は《聖獣カーバンクル》に戻り、ふたたびヘグファルトの前に降り立った。
だがこれまでとは違う。
体の芯から、熱い力がこみ上げてくる。
新たな《加護》、そして新たな能力が覚醒した。
死神ヘグファルト。
今度こそ貴様を滅ぼしてやる!