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「マリア、いるか? ちょっと来てくれ……!」
魔術師エドワードが扉の奥を見ながら叫んだ。
マリア?
他にも誰か居るのか?
その口調から察するに、どうやら使用人らしいが。
その声に応えるように誰かが階段を駆け降りてきた。
「領主様、お呼びですか」
そこに現れたのは女の子だった。
青い髪のボブヘアーで、黒いメイド服を着ている。
しかしその顔にはどこか翳りがあり、年相応の愛らしさを失っている。これはもったいない。
いや待てよ。
いま領主と言ったか?
すると魔術師エドワードは自身の領地を持つ貴族? 位は伯爵だろうか?
なるほど。だとしたら好調なスタートといえる。
裕福な貴族にペットとして飼われるなら、安定した異世界生活が送れるからだ。
たとえそれがモブっぽい豚領主様だとしても。
「この聖獣カーバンクルを例の場所に連れて行ってくれ。さっそくレベルアップの鍛錬をおこないたい」
「はい、わかりました」
マリアと呼ばれたメイドが、俺を抱き上げる。俺は小首をかしげた。
ゆっくりと暗い石の部屋が遠ざかる。
マリアの胸の中にいると自然と安らぐ。
なんというか、この娘は犬や猫の抱き方を知っているなぁ。
無理のない優しい抱き方だ。
「くぎゅ……ぎゅう……」
ううん。マリアと会話を試みたが……やはり駄目か。
この長い口吻では、人間の言葉を発音することができない。
当然ながら小動物のような鳴き声しか出せない。
どうすることもできないまま、俺はマリアに抱っこされていた。
階段の踊り場には窓ガラスがあって、そこから柔らかい光が差し込んでいる。
別に驚きはしないが、この世界にもガラスというものがあるんだなぁ。
すると……この世界の科学はそれなりに進歩してる?
地球では紀元前3000年頃のエジプトで初めて《ガラス》が生まれた。
だが当時は窓に嵌めるものではなく、装飾品として使われていたらしい。
初めて窓ガラスが誕生したのは、古代ローマ時代だ。当時のポンペイの遺跡には天窓にガラスが嵌められていた跡があるという。
以降、さまざまな製造技術が確立してガラスは進化していった。
俺がさっき見たガラスは教会のステンドグラスに近いものだ。それを製造できるほどの高度な技術が確立されているのか。まったくおそれいった。
分厚いガラスの表面に、俺の姿が映しだされた。
魔術師エドワードは、俺のことを《聖獣カーバンクル》と呼んでいた。
窓ガラスに映った自分を見て、改めてカーバンクルというのがどういう生物なのか視認できた。
聖獣カーバンクル。
よくゲームなどに登場する幻獣で、たいていは耳が長く、額に赤い宝石を乗せた小動物の姿で描写される。それが大まかな姿で、もっと細かい部分はゲームによってまちまちだ。
そして窓ガラスに映った俺の姿だが……。
これはキタキツネによく似ている。実物を見たことはないが、テレビでよく見たから分かる。
その額に赤い石を乗せた風貌だ。
それがこの世界での俺の姿だ。
地下の《石の間》を抜けて長い階段を登る。
眼前の視界が一気にひろがった。
不意に風が流れてきた。
爽やかな風が全身をすり抜けていく。
建物と建物をつなぐ連絡橋のようなところに出た。
ここから見下ろす景色はまさに絶景だ。
それを見て分かった。
この建物は高い丘の上にかまえている。だから遠くまで一望できる。
朝日に染まる、なだらかな丘陵。その麓に無数の家屋が並ぶ。
ドーム状の屋根をした尖塔が、朝霧にかすんで見える。
遥か遠く海岸に沿って石造りの防波堤が見える。
霧の海を背景に、古代か中世風の街が広がっていた。
「いつ見ても綺麗ですね……」
マリアがそっと俺にささやく。
たしか中学生の頃だったか。
山登りが趣味の父に連れられて、富士山を登ったことがある。
なぜかそれを思い出した。
大晦日の夜に富士山へ登って、頂上で初日の出を拝むぞ、と父は意気込んだ。
冬休みくらい家でゆっくりゲームをしたかったが、父に無理やり連れて行かれたんだ。
男なら体を鍛えろ、とか訳の分からないことを言われて……。
だが富士山の頂上から眺めた朝焼けは本当に美しかった。
空気が澄んでいて陽光が鮮明に映えた。
……まったく、どうしてこんなしょうもない事を思い出したんだろう?
ああ、そうだ。この光だ。
こんなにも美しい光を見たのは《あの時》以来だから……。
この異世界の空気が澄んでいるから、光がこんなにも美しいんだ!
綺麗な空気を吸ったのは何年、いや何十年ぶりだろう。
ずっと部屋に引き篭もっていたからなぁ。
空気が綺麗だから、細かい街路の一つ一つに至るまでくっきりと見える。
教会の時計塔に絡みつく無数のツル植物。
屋根が崩れ落ち、柱だけが残された廃墟。
通りの壁は漆喰が剥がれ落ち、石畳が割れている。
大勢の人間があそこで人生を謳歌していたんだろう。
それなのに人の気配がまったくしない。誰もいない廃墟の街。
犬や猫はおろか、果ては鳥すらいない静寂の地。
こんなにも幻想的で美しい世界を見たことがあるか?
この風は俺の知らない遥か遠い空から何を運んでくる?
いまになってようやく悟った。
俺の居場所は、あの狭い部屋だけじゃなかった。
この青空の下こそが、俺の在るべき場所なんだ。
無限に広がる大地が俺を誘っているんだ。
それを全身で感じて、毛の一本一本が興奮に打ち震えている。
そう。俺は広い世界に飛び出してもいいんだ。
そんな大切なことを俺は15年間も、ずっと忘れていたんだ……。
青空を仰いで、涙がしたたり落ちた。
一滴や二滴じゃない。とめどなく涙が溢れてくる。
おかしいな……俺は獣なのに、泣くことができるのか?
こんなにも涙が溢れてくるのは、かつて俺が人間だった名残か?
無数の塵にひとしい小さな命。
それこそ掃いて捨てるほどある無数の塵の一つ。
なのに……その中で俺が選ばれ、この異世界に魂が招かれた。
そうだ。これは贖罪なんかじゃない!
これは祝福だ!
神様に祝福されて、恩寵を受けたのだ。
神様が再び俺に生きる喜びを与える為に、この異世界に魂を導いてくれたのだ。
感謝せずにはいられない。
よし今度こそ精一杯生きてやる!
俺はこの異世界で第二の人生を楽しむぞ!
そう固く誓った。