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死んだ時のことは覚えていない。
《死》とは曖昧な記憶の中にある一つの過程に過ぎないから。
……俺は薄暗い部屋の中にいた。ここから出ることない。
ゲームかパソコンか、あるいはスマホをいじって一日を過ごす。
もう39歳にもなったのに、引き篭もりニートのままだ。
だが15年前はこうではなかった。
一流ではないが文系大学を卒業して就職も叶った。とある中小企業で訪問販売の仕事をすることになった。
エリートになるという夢があった。
いつか結婚して幸せな家庭を築くという夢もあった。
しかしコミュ障の俺にとって、セールスマンの仕事は楽じゃなかった。
仕事のノルマが果たせず常に上司からなじられる。
同僚からも冷たい目で蔑まれる……。
それでも俺は半年もの間、無心で働いた。
いつか必ず良くなると信じて。
そう信じて努力した。
だが努力は実らなかった。
やがて俺は会社を辞めて引き篭もるようになった。
大学を卒業してから、セールスマンになって半年間。
今思うと、俺が成人して《まともな人生》を送っていたのはその半年間だけだ。
それ以来、俺は働きもせず部屋に引き籠もっている。
夜中にジャージを着てコンビニに出かけたことはある。
まるで指名手配犯のように、他人の目を気にしながら……。
だがほとんど部屋から出ることはなかった。
寝て起きてスマホをいじってネットを眺め、気がつけば夜が明けている。
15年という月日はあっという間に、そして無意味に溶けていった。
しくじった。
人生のどこかで、何かをしくじった。
そして俺はもうやり直すことのできない年齢になっていた。
俺が引き籠もってすぐに父は事故で亡くなった。
残された遺産だけでは、俺たちの生活がままならない。
おそらく母は借金していたのだろう。
母はずっと信じていた。
俺が再び立ち上がることを。その可能性を信じて疑わなかった……。
だから母は俺を責めなかった。いつも温かい態度で接してくれた。
しかしそれが仇となった。
俺は努力することを完全に放棄して……。
そしてひたすら安泰な自室に籠もりつづけた。
ぼんやりと日々が過ぎていく。
やがて俺はこのままじゃいけないと思うようになった。
現状に対する焦燥感が、将来に対する不安が、胸を焼くほど募っていく。
それなのに大事な一歩が踏み出せない。
この中途半端に居心地の良い家の中が。
生温かい母の態度が。
他人に対する恐怖と確執が。
俺から小さな勇気を奪っていく……。
もしかすると、まだやり直すことはできたのかもしれない。
ここで俺が外の世界に踏み出していたら、おそらく未来は変わっていただろう。
でも叶わなかった。
その機会を得ることを、俺はひそかに恐れていた。
その結果として15年間も引き籠もることになった。
いまさらなんだ。
ずっと無職だったんだ……。
「もうだめだ。しくじった……」
いつの間にかそれが俺の口癖になっていた。
あるいは『しくじった』という言葉を言い訳をにして、可能性を放棄していたのかもしれない。
不安と焦りが募るばかり。でも何をすればいいのか分からない。
一歩踏み出して前に進みたい。でもどすればいいか分からない。
何かをして失敗することをどうしようもなく恐れている。
生きていくことが辛い。だからといって死を選ぶ覚悟も無い。
母が俺の部屋の前に、冷めた食物を置いていく。
それを口に入れ、スマホをいじってネットを眺めるだけの日々。
無味乾燥の、怠惰な毎日が過ぎ去っていく。
母が倒れた。
俺は茫然とした。ただ立ち尽くし、救急車を呼んだかも分からない。
ずっと放置していた。
母の葬式をしたかも分からない。
なにもかも、どうすれば良いのか分からなくなった。
薄暗い自室も。
昼夜の逆転した生活も。
スマホの光も。
すべてが幻想になって消えていく。
なにも認識できないほど混濁して、やがて意識が朦朧とした。
心臓病か脳卒中か、突然倒れたような記憶がある。あまり覚えていない。そのときの記憶が曖昧だから。
《曖昧》なのは、きっと俺がそんなどうしようもない生き方をしていたからだ。
時間を無駄に使い、ぼんやりと生きてきたせいだ……。
意識がとぎれる束の間に、ひかりかがやく糸のようなものが、俺の体にまきつくのを見た……ような気がした。
*****
「く……う……」
まるで見えない糸に引っ張られるかのように、感覚が戻ってくる。
長い夢から目覚めるように、少しずつ意識がはっきりしていく。
途方もない疲労感に襲われた。果てしない旅をしてきたような……。
まだ意識がはっきりしないが、ぼやけた俺の目に映ったのは、石造りの暗い部屋。
何かの、いや誰かの温かい体毛に包まれて、俺は横になっていた。
ふと床に描かれた模様に目がいった。まるで魔法陣のような奇妙な模様だ。
俺はそれよりちょっと高いところにいた。何かの台の上に乗っている?
その中で俺は何か《もふもふ》したものに包まれていた。
おかしい。
何か違和感を感じる。
「目を覚ましたか……」
誰かの声がする。
なんだろう?
その声の主がこちらに近づいてくる。
見えないが近づいてくる音がする。
起きて状況を確認したい。
俺は起き上がろうとした。ところが金縛りにあったように動けない。なにか体に違和感を感じる……。
自分の手を見た。
「くぎゅううううううう!!」
そして俺は絶叫した。
自分のものとは思えない小さな手。そう思った瞬間に違和感の正体に気づいた。
その手は小さくて短くて赤い毛に覆われている。
その手はまるで獣の……それも子狐の前足に似た……手だ。
なぜ俺の手が獣になっているんだ?
そして此処はどこなんだ?
パニックで思考が凍りついた。
想像したくないが、俺は人外の何かになっている……。
それもおそらく何かの獣だ。俺は獣の子供になっていた。