なんか、文を書いてると感情も読める気がする
書いてる私は、思ってしまう。
なんか、この人、めんどくさいんだな
とか、
いそいそと書いてるから、かまってられないんだな
とか、
なんか、それを見ると鬱になるし、また、真摯に書いてる文を見てると勇気づけられる。
中身のないものを読むと中身がないから、空虚な気持ちになってくる。
逆に中身のあるものは、また、読みたくなるし、
小学生の頃は好きなものがあれば、何回も何回も読んだものだ。
文とは人間が生きていく上で進化したものである。
口頭で伝える情報のみでは、誤字脱字のようなものがあったのだろうか、それを防ぐために、確実性のある記録に残す。
そして、文字ができ、記録、散文、報告書とかで、先の人に情報を伝える。
生き方を教える。
知恵を伝える。
そうやって、今の時代が形成されたと言っても過言ではなく、歴史は昔の人が講師となって、私達は生徒となって学ぶんだなぁって、それを文字が媒介して、読むことを通して、考え、悲しみを繰り返さないようにする。
怖いのは忘れることで、悲しみがまた、再燃する。
だから、読んで、そして、現代の言葉で置き換える、そして、次に伝える。
そこから、ただ、呆然と読むのではなく、なぜ、このような文を書いたのか?考えることに他ならないのではないだろうか?
私はまだ、凡人だ。
分かった気になってるかもしれない。
実は誤解もしてるかもしれない。
だけど、彼らは伝えてる。
何かを考えて、書いている。
無表情で書いてはいない、
感情を持って、気持ちを持って書いている。
だから、私は触れあいたい、文字を媒介とした、文の対話を
そして、自分の内面の在り方を、ただ、ひたすら、呼吸をするようによんでゆく、そして、自己の存在を求めるために書いている。