【オペラ座の友人、奇人】
「オペラ座の地下には、怪人が住まう───」。一般に流布された噂は、事実をかなり脚色した物だ。何より、その怪人本人によって。
「我々の給料が払われていないのだゾ、何故かね?」
オペラ座の支配人に急遽届けられた、一枚の手紙。クリスティという名の少女が届けた物だが、彼女は劇場の照明器具にそれが括り付けられていて、別のスタッフが見つけた物だと言う。要求してきた報酬は、月に二百フランの支払いと劇場地下の永年保証、『アイーダ』の鑑賞券だった。末筆として、『ラ・ジョコンダ』の年内公開とクリスティの主演を希望する、と締められている。
クリスティは美貌の持ち主であり、歌声も顔に見合った素晴らしい物を持っている。彼女を見出した事については、他の劇場から嫉妬されもした程だ。
だが、圧倒的に経験が不足していた。才能は確かにあるのだが、それを活かすだけの何かを、彼女はまだ得ていなかったのである。支配人としては、そんな彼女に主演を任せるのは躊躇していたのだが・・・。
「来週の公演で誰もが納得する演技を見せれば、主演とする事も考えよう」
その言葉に、クリスティは歓喜した。降って湧いたような主演枠の話に、喜びを覚えない女優はいないからだ。同時に、ふとした疑問さえ覚える。何故支配人は、こんな怪しい手紙を悪戯と一笑に付さず、こんな話をしたのかと。
「きゃっきゃっきゃ、あの支配人は見所がある。あんな手紙だけで、彼女に主演話を持ち掛けるとは。そうは思わんかね?」
「ええ、彼女には華がある。舞台に舞う、可憐な花。一見か弱く、容易く折れてしまいそうだが。その葉や茎は力強く、やがては大輪の花を咲かせるだろう。オペラ座のファントムとしては芽吹き、咲き誇る場面をこの目に焼き付けなければならない!」
初老の男性と、ベネチアンマスクで顔を覆った男性がいた。その場所は、オペラ座の地下深く。設計者さえ知らない、建設当時から存在した空間である。王侯貴族顔負けの調度品に、パーティが開ける程に広い食堂。そして、天蓋の付いた二つのベッド。
オペラ座の地下に住み着いては、時の支配人へちょっかいを仕掛ける。実力がありながらも主役を取れない者を見出し、その人柄に見合う演目を行うように支配人へ手紙を送る。『アイーダ』は二人の趣味であり、クリスティにはジョコンダ役が似合うと意見を一致させたのだった。
・・・この要求を飲んだ支配人は幸運である。もしこれを蹴っていれば、根も葉もない噂や事実を徹底的に捏造され、その座から引きずり下ろされていたのだから。有力者に対しその程度の噂を流す事は、二人にとっては赤子の手を捻るより容易な事なのだ。
故に、歴代の支配人はこう語る。
「オペラ座の地下には、奇人と友人が棲む。友人は丁重に扱えば、さしたる害は無い。我らに益を齎す貴重な隣人となろう。奇人には気を付けろ。奴に目を付けられたらその身は破滅だ」と。
クリスティを主演とした『ラ・ジョコンダ』は、歴代でも大盛況のままに終わった。最終日にもかかわらず劇場には多くの観覧希望客が押し寄せ、立見でも構わないから、と迫ったのだった。
気を良くした支配人はこの日より、クリスティを主演へ据える機会を増やしていく。それを見た地下の二人もまた、地下の闇深くへと戻って行ったのだった。
「クリスティ。いずれまた、君と相見えよう。私はオペラ座の怪人───否、オペラ座の友人。歌手達の友であり、また敵となる者。今はまだ、別れの言葉を置いて行こう」
次回は【雨ニモマケテ】です。
更新日は不明。