STEP7-1 長い、長い、長い夜へ
もはやほかの事など思い浮かばなかった。
『夢見ちゃうなあ、わたし』
蘇るのはただ、いつかのスノーの夢見る言葉。
『サキさんが、わたしの綿毛を小瓶に詰めて……』
見回す。あった、小瓶。
ナナっちからの実家土産。プラスチックのふたを開け、サイコロと脱酸素剤を机に出す――植物の種を長期保存するときには劣化を防ぐため脱酸素剤を同梱するが、そこまでの時間は必要ない。そのまま小瓶にふたをする。
『晴れた日の丘を登っていくの』
小瓶とスマホ、財布だけを手に飛び出した。
エレベーターを乗り継ぎ、下へ下へ。
なにやらビル内が騒がしかったが今は気にしていられない。一直線に、製薬ファームエリアへ。
『空は青くて、ふわふわ雲がとんでいて……』
いつもの手順ももどかしく、隔離ファームへ。
若干雑なカリフラワー姿で、エアカーテンの向こうに走る。
認証ボードに掌を押し当て、扉を開けばそこにスノーフレークスがいた。
『おひさまがご機嫌に照っていて。』
いちばん手前の一株に手をかざし、一輪だけを開花。ひとつだけ綿毛を成熟させ、掌に包む。
開花させたスノーフレークス本体に、そいつからもらいうけた綿毛に、祈りをこめて、成長抑制のパワーを送る。
すぐさま更衣室に飛び出し、綿毛を小瓶に入れ、しっかりとふたをした。
『ああでも、月の綺麗な夜も素敵ね!』
カリフラワー姿を脱ぎ捨て服を着た。迷ったがカギも首にかけ、靴を履いて走り出す。
正面入り口付近に来ると警備数名と、数人の男たちがなにやらもめているのが見えた。時間が惜しい、俺はその脇を突っ切った。
警備の中にはシャサさんもいて、サクっち! と声をかけてきたのだが、振り切るように道路へ出た。
『夜風を浴びてふたりだけ』
走る。
『星が降る丘で、ふたりだけ』
走る。
『そして、わたしとサキさんは……』
目指すは駅、電車、いやそれに乗っていく運動公園。あそこにある丘のうえ。
はやく、もっとはやく、もっともっとはやく。
この『スノー』が、俺のたいせつなひとが、力尽きてしまう前に!!
「チカラをくれ、俺の中の『天才』!!
彼女との約束を――」
叫んでいた。体がかっと熱くなった。目の前が一面光になった。
そして俺は、『星降りの丘』に立っていた。
* * * * *
不思議だ、と思う気持ちはもちろんあった。
しかし、さらに不思議なことに、どこかでこれを当然のことと受け止めている自分がいた。
まあ、いい。いまは、スノーだ。
てのひらの小瓶をそらにかざした。
クリアに晴れ上がった夜空には、月が、星が笑ってる。
綿毛が飛んでしまわぬよう、ふたをねじって小さく開く。
ガラスの壁のなか、ふわふわ漂う小さな綿毛に、そこに宿るいとしい存在に語りかけた。
「なあ、『スノー』。見えるよな?
月と、星。ほんものだぞ、正真正銘の。
それにほら、ほんとの風だ。
今はまだ自由に飛ばしてはやれないけれど、約束する。
いつかきっと、あの頃みたいに……」
道筋は見えない。でも、きっとやり遂げて見せる。
俺がしたことは、最高機密の持ち出しだ。最悪もう、戻れないかもしれない。
みんなの顔が目に浮かんだ。胸が痛んだ。
でも、それでも。
俺は愛する女性の最期を、夢見た景色で彩ってやりたかった。
そして、いつか本当に夢をかなえると。その約束だけでも、結んでおいてやりたかった。
「『スノー』……
約束する。
お前が生まれ変わってきたら、俺がきっとこの空を飛ばせてやる。
一生かけても。もしこの俺がダメなら、生まれ変わってでも。何度生まれ変わってでも。
……愛してる。いつまでも」
惜しみながら、小瓶にふたをした。そのつるりとした側面に、そっとキスをした。
見つめれば小瓶の中、ふわふわと愛らしい綿毛が揺れている。
『やくそくね、サキさん』
彼女はそういってくれている。
もう、スマホにメッセージは届かなくても。
俺にはそう、確信できた。
遠く、十二時の鐘が鳴った。
そろそろ戻らなければ。
そして皆に謝って、説明しなければ。
『スノー』との夢をつなぐために。
もちろん『スノー』の承諾は得られていない。だから、スノーフレークスの妖精を夢で見たのだと、俺が勝手に惚れ込んだのだと、そういうことにして。
そのためにも、この綿毛は確実に返さなければならない。
それでも、俺は信用を裏切った。そこからの道のりは、ずっとずっと長いだろう。
だがどれだけ長くても、やり遂げる。絶対に。
きっと、今度は正攻法で。
「サクやん」
勇んで立ち上がれば、背後から聞き覚えのある声がかけられた。
振り返れば、白い照明のなか、血の気のない顔をした青年がひとり。
『星降りの丘』を包んでいた天の明かりは、いつしか重苦しい雲に隠されはじめていた。
* * * * *
大きな瞳が印象的な、可愛らしいといって差し支えのない容貌は、硬すぎる表情のせいで人形のよう。
やや小柄で華奢な体。漆黒のスーツに包まれたそれは、震えているようにも見える。
二度見して、三度見して、やっとそれが誰かわかった。
「えっ、えっと、ナナっち?!
ま、待ち合わせって昼の十二時じゃなかったっけ?」
「……うん。
でも、繰上げしよう」
「どうしたんだよ。もしかして跡、継ぐことになったとか?」
「……そんなかんじ」
思わず口にした冗談に、余裕のない答えが返ってくる。それも震えた声で。
絶対にただ事じゃない。直感した。
しかもナナっちの顔色は悪い。二日酔いの朝よりもよほど。
「いやいやナナっち、お前めちゃくちゃ顔色悪いから! のんきに茶とかしばいてる場合じゃねーから!!
病院行こう。そんで事情聞かせてくれよ。歩くのきついならタクシー呼」
「やめろ。
……俺と来て。いやなら、俺と戦って。
勝ったら俺を好きにしていい。負けたら、お前は俺と来て」
そのとき気づいた。ナナっちのスーツは“普通”じゃない。
あえて言うなら、いつも社長が着ているものに似ている。
ひそかに随所に施された、動きやすさを底上げする工夫。
しっかりとした素材と造りが醸し出す重厚感は、着る者へのダメージを軽減する防御力の証。
更にそこに、適度にマットな漆黒があいまって、『若』と呼ばずにはいられない風格を強制的に作り出している。
そして、その襟元のバッジ。
親指のツメほどの小ささながらも、白の照明を金色にはじき、ハッキリと存在感を主張する。
朱鳥の一般人なら、誰もが恐れる『七つの白波』のエンブレム。それは、あの夜の――




