STEP1-1 ~もふもふまみれの訳ありフリーターは謎のイケメン野郎に首狩り<ヘッドハント>されたようです~
石けん系のいい香りが鼻をくすぐる。
ほどよい弾力を宿す、長い毛足はサラサラ滑らか。
おそらくこれは洗いたての新品だろう。
俺はそのもふもふに顔を埋めたまま思案していた。
正直に言おう、気持ちいい。
しかし、どうしてこうなった。
最初に異変に気づいたのは、5秒ほど前のこと。
まぶたを開けた瞬間、血圧が120くらいあがった気がした。遅刻だ。それも完全な。
世界は情け容赦ないくらい明るかった。跳ね起きていた全力で。やばい。あそこは俺が唯一本採用にてバイトすることができた場所。せめて誠意を、そう誠意だけでも見せなければ!
寝ぼけているのか築五十三年(家賃四万・押入れつき)の六畳一間が白い壁紙のモデルルームに見える。いや、いいんだどうでもそんなことは(ここまで約2.2秒)。
頭脳平均・容姿平凡・貧乏カネなしフリーターと揃いぶみした俺に、唯一の生命線であるところのバイトをブッチでサボるなんぞという選択肢はない。
腹にからんだタオルケットをひっぱがし、使い込まれたせんべい布団から、年経た黄色い畳のうえへと転げだした。
はずだった。
そう、そこに、いつもの古畳は『なかった』。
『あった』のは、数十センチぶんの虚空。そして、ふかふかとした青葉色。
あっという間もなし。俺はそのふかもふ――いわゆるラグマットというもので間違いないだろう――に、顔面を埋めてぶっ転がっていたのだった。
俺はまだ二十年ちょっとしか生きていない高卒野郎だが、それでもほぼ断言できる。
年経た畳が毛足5cm超のもふもふラグマットにノーマル進化することはありえない、と。
使いこまれたせんべい布団の標高が、一晩にして推定0.5mまで隆起することも。
俺は昨日、普通に帰ってきたはずだ。そして普通に寝たはずだ。まあ、少々飲み過ぎてはいたけれど……。
しかしこのもふもふラグ、ほんっと気持ちいいな!
よし、まずは現状の確認だ。今は確実に異常事態。起き上がるのはそれからにしよう。
まずは顔だけ右に向ける。緑の毛足の波の中、十センチと離れていないところに一本、落ち着いた色合いの木目模様、俺の腕くらいの太さの円柱が立っているのが目に入った。
上へと視線を滑らせてゆけば、そいつの全体像がでっかいベッドであることが見て取れる。
その頂きには、おもちのようなおふとんが、ふかりと鎮座していることも。
素晴らしいことに、ベッドにおふとんにラグ。どれもほこりひとつない、新品のぴかぴかだ。
ここまで確認し、俺は決意した。
「二度寝しよ。」
「おい。」
「だっておかしーしー。俺んちにあるのはうっすいせんべーぶとんときーろくなった畳だしー。
あーそーか夢かなっとくー。さーねよーねよーっと」
「おい」
まるで夢だろ。つか夢だ。
まずはすっかりお気に入りとなったラグにスリスリし、極上の毛足を満喫する。
「ふああ~しあわせ~。これでねこちゃんとかねこちゃんとかねこちゃんいたらサイコーなんだけどな~。つーかこのラグねこちゃんみて~。ん~すりすりゴロゴロにゃーん」
「サキ」
馬鹿みたい? わかってる。
だが俺は馬鹿だ。そしてこれは夢だ。だから馬鹿全開にしたっていーんだもん。
「つかもーなにこの空間シアワセしかないんですけどー。これって天国? 俺召されちゃったの? いやあ参ったなぁはっはっはー」
「……サキ」
さっきから誰かが呼んでる声がしてる? きのせいきのせい!
だって俺はしがないひとりぐらし。起こしてくれるステキな同居人とか「いいかげん起きろコノハナサクヤ!!」
背後から降ってきた声が鼓膜をどついた。肝っ玉おかんの怒号のように。
いや、俺のおふくろは黙って布団を引っぺがすタイプだ。これはどっちかというと大家のお玉さんのような、いやお玉さんが俺をよぶときは『サク坊』だけど。
まあ、根本的にいまのは男の声なんだが。俺と同じか少し上くらいの。
ため息をつき、身を起こす。
俺は、起こされている――なぜか、よー知らん野郎(つか顔も見てない)に、声優さんみてーないい声でフルネーム呼ばれて――その非情で奇怪な現実にどうやら、向き合わねばならないようだ。
どっこいしょ、と胡坐をかき、しぶしぶと目を上げてゆけば、深い色合いのフローリング、毛玉ひとつない黒の靴下、折り目のビシッとしたダークグレーのズボン(これが長い)、そして純白としか言いようのない白衣が順に視界に流れ込んでくる。
そしてようやく頭部の番が来たとき、俺はその双眸に釘付けになった。
黒にも近い、深緑色。
金色がかった亜麻色の、長いまつげが影を落とし、きついほどのきらめきに神秘的な趣を添えている。
美しかった。その色合いは俺と同じはずなのに、まるで別次元の存在にみえた。
客観的に述べるならその頭部は、絶妙なウェーブを描く亜麻色の短髪、貴公子然とした端正な顔立ちに深緑色の瞳をもつ、かなり西欧白色人種風なイケメンのものだった。
『かなり』という印象は、基本的な造作や肌の色が、俺のような朱鳥国人/黄色人種にわりと近いゆえとすぐに気づいた。
全体を改めてみれば、推定身長180cm前後。腰の高さがそもそも違う、すらりとしたスタイルはほぼ西欧風。
タイプこそまるで違うが、そのイケメンっぷりは『中の原第三高校総選挙』でダントツ一位を勝ち取った、我が親友ナナっちの上を行くだろう。
こいつは、どこかで見たような気がするが……そうか!
「ピンポーン! 名前忘れたけど最近話題の、どっかの王族出身のタレント医師!」
「違うわボケ!」
あきれ返ったような、心配を吹っ飛ばしたような、そしてどこか微妙な表情で、謎のイケメンは俺の脳天につっこみチョップをかましてきた。
「まあ国際医師免許は持っているから、医師というのはあながち間違いでもないのだが。
で、気分はどうだ」
「気分……いや、いつもとかわんないけど」
とりあえず、このデカさの生き物をあぐらで見上げていると疲れる。
イケメン白衣が差し伸べてくれた手をありがたく借りて、俺はベッドに腰掛けた。
改めて見ると、俺が着ているものも白い。これまた新品なのだろう、サラサラとした着心地の、たっぷりとしたパジャマだ。
なんでこんなの着てるかわからないけど、確実に言える。これは俺の物じゃない。
この部屋も俺の部屋じゃない。
だって、いかにも上質。
壁も、調度も、すこし開いた掃きだし窓も。
光差すベランダのむこう、はるかに広がる町の景色も。
こんな光景どこかで見た。そうだ、こないだ偶然立ち読みした雑誌の記事で。
五つ星ホテルも顔負けの、超高級な病室で、最先端の医療を受けられる病院があるとか、ない、と、か……
血の気が引く音が聞こえた気がした。
もう一度言うが、俺はしがないフリーターだ。
預金通帳に書かれた数字は、六桁を上回ったことがない。
「おおおおおれ!! 金ないんで!! いいっ、いまっ、いまからでも大部屋に!! つうかむしろいますぐ退院」
「落ち着け。」ふたたび脳天にチョップが炸裂し、落ち着き払った声が述べる。
「ここは病院じゃない。お前の部屋だ」
「ありえねえ!!」俺は即答した。
「俺んちは築五十三年六畳一間家賃四万のボロアパートだぞ!! こ、こんな、どこぞの一流企業の重役様がお住みになられやがってるような結構なお宅じゃ」
「お前は一流企業の重役だが」
「うそつけ!!」
俺は食い気味に叫んでいた。
立ち上がり、イケメン野郎に指を突きつける。
「俺は! ただのしがねえフリーターだ!!
今日だって朝からシフトのはずだったんだっ!!
騙されないぞイケメン野郎。そうかドッキリだな。先の見えねえいたいけなフリーターにひでえことしやがる。こらっ、プロデューサーでてこ」
そのとき目の前に見覚えあるものが突き出された。
スマホだ。いくつも傷のついた型落ちのそれは、どうみても俺のもの。
「ご家族に連絡しろ。そして確かめろ。
お前は、ご家族のお計らいでわが社のファーム長として就任したのだ」
「……へ?」




