役目【一】
木に登った姉に、彼はついて行きたいと思った。
……だが、初めての木登りはうまくいかず。
少し登ったところで、信行は地面に落ちてしまった。
「お前のせいで!」
姉は悪くない。むしろ姉は待っているように言ったし、自分の不注意が原因だったのだ。
それなのに、母は信行の言葉など聞かずに姉の頬を叩いた。
そして母の理不尽な非難を、姉は黙って聞いていた。年上とは言え、姉もまだ子供だったのに、だ。
(私のせいだ)
大好きなのに、大切なのに――逆に、自分のせいで姉が悪く言われてしまう。
その事実に打ちのめされて、幼い信行はきつく拳を握った。
※
「出来たぞ、お濃」
「何がですか?」
「わしとぬしの子だ」
「…………は?」
夜、二人の寝所にて。
夜着姿で髪を下ろし、腕組みをして言う信長に、濃は思わず間の抜けた声を上げた。
いや、まぁ、夫婦なので出来てもおかしくはないのだが――普通、こんな勝ち誇った顔で女性から言われるものなのだろうか?
「そんな訳で、腹がでかいうちはお濃にわしの代わりを頼みたい」
「でか……えぇ、まぁ、それは勿論」
「そして、わしは側室を持つぞ」
「はいっ!?」
前半はともかく、後半は全く意味不明だった。
たまらず目を見張った濃に、信長は笑みを消して口を開いた。
「この子はわしと、お濃の子だが……同盟が白紙となった今、美濃の血を引く子は不幸になるかもしれん」
「……信長」
「だから、この子はお濃ではなく側室の……家臣の娘と言うことにした、わしの子とする」
すまんと頭を下げる信長に、濃は首を横に振った。
異父兄に父が討たれたことで、信長は後ろ盾を失ったのだ。むしろ、二人の子供を守ろうとする気持ちが嬉しかった。
「側室なら女の名が必要ですね」
「それならもう考えてある……吉乃、だ」
「吉乃?」
「おぉ、わしの幼名の『吉法師』からつけたぞ」
※
(姉上に子が出来たのなら、戦場にはお濃どのが出てくるか……ならばお手並み拝見、といこうか)
今、信行は謀反を企てている。
まだ父が生きていた頃から、信長ではなく彼を当主へと支持する声は多かった。嫡子とは言え、信長は女――しかも、うつけと呼ばれる奔放な振る舞いに皆、不安を抱いたのだ。
しかし、これまでは周りがいくら騒いでも、信行は兵を挙げようとはしなかった。
……そんな彼が今、姉への謀反を起こそうと思い立ったのは。
(後ろ盾を失った姉上を討とうとする不届き者は、私に接触してくるだろう)
そうしてあぶり出された者達は、織田家には――信長には、不要の存在だ。
(そんな輩は皆、討たれてしまえば良い……そう、私も含めて)
信行のことは母の土田御前は勿論、誰もが優しく穏やかと称する。
しかし、不穏なことを考えて微笑む彼の顔は、いつも以上に優しく、穏やかだった。
※
同年八月。ついに稲生の戦いが、信長と信行との戦いが始まった。
信長の手勢七百に対して、信行は倍以上の兵力を擁していた。更に戦上手と名高い柴田勝家の活躍により、信長軍は主だった家臣を討たれてしまう。
……下っ端はともかく、勝家や秀貞は信長が子を産んだばかりだと知っていた。
それ故、この戦場には当然、濃が代わりに来ていると思っていたが――。
「わしを討ちに来たか」
凛とした、よく通る声。
鎧に身を包み、勝家達を待ち受けていたのは、まさかの信長本人だった。




