別離
「儂が死ねば、家督を継ぐのはおぬしだ」
父・信秀の最期の言葉が、信長の頭の中で痛いくらい鳴り響く。
「儂は、おぬしの為に逝く」
……それは彼女への、愛情故の言葉だったのだろう。
だが、信長は流行り病で逝った父にまず、怒りを覚え。
その怒りのままに、位牌へと抹香を叩きつけると――信長は、葬儀が行われている寺を飛び出したのだった。
「信長」
林を抜け、草原へと出た。膝を抱え、周りを拒むように顔を伏せた彼女の名を、柔らかい声が呼ぶ。
三年前、初めて会った時はもっと高い、鈴を鳴らすような声だった。けれど、優しい響きは今でも変わらない。
だから信長は、逆らうことなく後ろから伸びてきた腕の中へと収まり、声の主の名を呼んだ。
「……お濃」
「はい」
信長は十八、そして濃は十七。
髪を結い、浅葱色の直垂と紺の袴を身につけた濃は声同様、立派な若者へと成長していた。
濃の母は、女名しか我が子に与えなかったと言う。それなら新しい名を、と言ったことがあるが、他ならぬ濃本人に止められた。
「私は、あなたに『お濃』と呼ばれるのが好きですから」
だから良い、と笑ったその表情もまた、昔と変わらぬものだった。
もっとも今、信長に濃の顔を見ることは出来ない。
背後から抱き締められている、だけではなく――膝に額を乗せたまま、信長が顔を上げなかったからだ。
「……わしに全部、押しつけて逝きおったわ」
「信長……」
「父上は、わしよりもずっとずっと大うつけだ」
悪態をつきながらも、信長の声や肩は僅かに、けれど確かに震えていた。
だから、腕の中の細い体を抱く腕に力を込めて、濃は口を開いた。
「私は、ずっと傍にいます」
「簡単に言うな……ずっととは、ずっとなのだぞ?」
「約束します。私は、あなたのものですから」
「……で、あるか」
ならば、許す。
芝居がかった口調で言うと、信長は俯いたまま嗚咽を洩らした。
……日が傾き、寄り添う影が長く伸びるまで、濃は無言で信長を抱き締めていた。
※
信長と濃。
寄り添う二人を――いや、主君である信長を林の木陰より見つめながら、政秀は己が心に問いかけた。
(わしは、間違えていたのだろうか?)
信長が女であることは勿論、知っている。
しかし政秀にとって、信長は女である前に主君だった。
そして彼は、うつけと称されてしまう程の信長の型破りな言動を諌めつつも、どこかで頼もしく思っていた。
彼女の激しさは、優しさや情の厚さの裏返しである。その炎のような気性は、見る者の心にも焔を点ける。信長こそこの戦国の世に相応しいと、そう思っていたのだが……。
(だが、しかし……信長様の幸せを、わしは奪ってしまったのだろうか?)
嫡子ではなく、ただの姫として育てば――母である土田御前に疎まれることもなく、ただ愛され守られていられたのではないだろうか?
(……いや、信長様に限ってそんなちっぽけな一生には収まらぬだろう)
女であっても、信長は戦国の覇者となる器量を持っている。
それでも、一度芽生えた政秀の疑問と後悔は消えなかった――最期の、その瞬間までずっと。
※
……数年後、政秀は腹を切る。
遺書には、信長に対する謝罪が書かれていた。
己の抱く迷いについて。
その為、信長に素直に仕えられなくなったことについて。
いつか、信長の歩みを止めてしまうだろう己について。
“だが、それでもわしは、あなた様から離れられぬのです”
それ故に、死を選ぶしかなかったと――そう締め括り、傅役・平手政秀は己の心を貫いたのだった。




