邂逅
竹千代が二歳の時、母は父に離縁された。母の生家が、今川家に逆らったからだ。
生き別れた母の事は、ほとんど覚えていない。
……ただ、一つだけ。
竹千代の髪や頬を撫でてくれた、優しい手――それだけが、母の全てだった。
※
自分は、本当についていないと若干、六歳にして竹千代は思う。
今川家への忠誠の証として、彼は駿府へ行く事になった。つまりは人質である。
しかし、ここで予想外の事が起きた。家臣の裏切りにより、竹千代は尾張へと連れて来られてしまったのだ。
彼の身の振り方は、大人達が決める。不安だが今までのように、竹千代には結果を待つ事しか出来なかった。
「ぬしに会いたくてな」
そんな竹千代の部屋にやって来て、開口一番『彼』はそう言った。その言葉が癪に障り、気がつくと竹千代は口を開いていた。
母が離縁された事。
そして今川家への人質として、駿府へ送られようとしていた事。
「そんな父が、今川を裏切る訳がありません。たとえ、織田が私を奪い取ったとしても……こんな価値のない私に会いたいなんて、やっぱりあなたは大うつけです」
一気にそう言って、竹千代は相手を見返した。
やって来たのは、織田家嫡男である信長だ。泥に汚れた顔に、着崩した女物の着物。確かに噂通りの『うつけ者』だ。
(いくら私が無力な子供でも、こんなうつけに馬鹿にされたくはないぞ!)
キッと睨みつけた竹千代に、信長が軽く目を見張る。
それからズカズカと近づき、手を伸ばしてきた相手に「殴られる!」と思って目をつぶると――むに、と頬を摘ままれたのに、驚いて目を開けた。
「だが、ぬしは生きておるではないか」
「……えっ?」
「こんなに小さいのに、頑張って生きておるではないか……だから、会いたいと思ったのだ」
そう言うと、信長は摘まんだ頬から手を離し、代わりに優しく撫でてくれた。
温かい言葉やぬくもりは、頬を撫でる仕種も相まって、竹千代に生き別れた母を思わせて。
「……っふ……!」
刹那、ずっと堪えてきた涙が堰を切ったように溢れ出た。
いきなり目の前で泣き出した竹千代を、信長は抱き締めてくれた。
……男の筈なのに、信長の胸は柔らくて。
驚いて泣き止んだ竹千代に、信長は「秘密ぞ」と唇の前に指を立てて笑ったのだった。
※
それから二年後、竹千代は織田の庶子と引き換えに再び、今川の人質に差し出される事になった。
「ぬしには、やはり生きる力がある。だから、運がついて回るのだな」
別れ際、信長はそう言って竹千代の頭を撫でてくれた。
彼女は、年の離れた弟のように竹千代に接してくれたけれど――竹千代にとっての信長は姉でも、ましてや母でもなかった。
だが、信長はすでに斉藤道三の息子を伴侶としており。
更に想いを告げ、遠ざけられるのが怖かった竹千代はせめて、とあの日のように信長に抱き着いた。
あの日とは違い、晒しを巻いた胸は柔らかくはなかったけれど――伝わるぬくもりは、初めて恋に落ちた日と同じもので。
忘れまい、と竹千代は抱き締める腕に力を込めて、目を閉じた。
その後、竹千代は今川家の姫(義元の姪)を娶る事になる。
だが、更に数年後――元服し、今川家から独立した彼は信長の盟友となるのだった。
……徳川家康。
それが、成長した竹千代の名前である。




