天機【二】
それから数刻後、善照寺砦に到着した信長は簗田政綱より、義元のいる場所の報告を――桶狭間山にて悠然と一帯を見下ろし、宴を開いていることを聞いた。
「何と悠長な」
「今川は京風らしいからな。馬に乗らず、輿にて動くらしいではないか」
信長と共にその報告を聞いた家臣達が、そんな敵の余裕としか思えない様子に眉を寄せる。
しかし、輿での移動は今川が足利将軍家の分家であるからこそ、特別に許されていること――つまりは、権力の証なのだ。何より、兵力の差は相変わらず歴然としている。
(口で侮っても、結局は恐ろしいのだろう?)
藤吉郎は、心の中だけでそう呟いた。
下手に口に出しては、他の家臣から「百姓風情が」と八つ当たりの矛先を向けられてしまう。
だが、草履持ちから成り上がったからこそ、藤吉郎は物事を冷静に見て動くことに長けていた。弱者の立場だからこそ、見えることがある。そのことを、藤吉郎はむしろ誇りに思っていた。
(おかげで俺はこうして、お館様のお傍にいられるのだからな!)
結局、藤吉郎にとっては信長が絶対である。
こっそりと胸を張った藤吉郎の頬に――不意にぽつり、と雨粒が当たった。
※
その雨粒は、すぐに痛いほど打ちつけてくる土砂降りに変わった。
織田軍にとって幸いだったのは、風向きのおかげで雨を背に受けたことだ。それは逆を言えば、彼らを迎え撃つ今川軍に直撃しているということである。
「これは、熱田大明神のご加護だ! 神風だっ」
「勝てる……この戦は、神の御意志なのだ!」
確かに信長は熱田神宮に寄ったが、それは彼ら家臣を待つ為である。口々に勝手なことを言う面々は、ひどく藤吉郎の癪に障った。
(先程まで、弱音を吐いていたくせに……何が神だ、お館様に謝れっ)
そう一喝しようと、口を開いた藤吉郎だったが――それを止めたのは、他ならぬ信長の言葉だった。
「敵にならぬなら、好きにさせておけ」
「……お館様」
「雨ごときで士気が上がるなら、安いものだ。何せ、無料だからな」
そう続けた信長の唇の端が、上がる。向けられたその微笑に、藤吉郎はゴクリと唾を鳴らして口を開いた。
「……俺はっ」
「ん?」
「俺が、信じるのは……神仏ではなく、お館様でございます!」
「……で、あるか」
藤吉郎の言葉に、信長の目が軽く見開かれる。
次いで深められた笑みは、花のように鮮やかで――藤吉郎の目を、心を奪うには十分だった。
※
義元の輿、そして公家風の置眉やお歯黒、薄化粧は全て血筋や権力の象徴である。
しかし今の彼は輿を捨て、白粉が汗で流れ落ちるのにも構わず、必死に馬を走らせていた。
(ありえぬ、ありえぬ……ありえぬっ)
数では、圧倒的に今川が勝っていた。それ故の驕りだったと、訳知り顔で語る者もいるだろう。
だが合戦には、幾つかの決まりごとがある。
そのうちの一つが、時間だ。戦は早朝に始め、昼過ぎには兵を退くのが常識である。
日が暮れ、周りが見えなくなると戦場が混乱し、最悪、味方を誤って討ちかねないからだ――その決まりごとを、信長は破った。
(兵の相討ちも構わぬと? いや、日が落ちる前に片がつくと言う自信か?)
「大うつけが……っ」
悔しさに歯噛みするが、結果として義元は織田軍に追われていた。唯一の勝機は、夕闇に紛れて何とか逃げ延びることである。
(次は負けぬ! この屈辱を倍にして、返してくれるわっ)
そう心に決めた義元はけれど、知らなかった。
間もなく己が、織田軍に追いつかれ――誓いを果たせず、討たれることを。
義元は、己を捕らえようとした兵の膝を斬りつけて撃退し、別の者が首を掻こうとした時はその指を食い千切った。
最後には討ち取られたがどれ程、公家風であっても義元は立派な武将であった。
……だが、合戦を左右した雨により。
天は今川ではなく、織田を選んだのだと人々は噂し――それを聞いた信長を、微笑ませたのである。




