主君
百姓出の藤吉郎が、若き城主と対面出来たのは草履持ちになったからだ。
とは言え、主君の顔をじろじろと見ることなど出来ない。
だから目を伏せて足元だけ見ていたが、その足があまりに白く小さかったので、藤吉郎は冷えた草履を温める為に懐に入れた。
最初は尻に敷いていた、と斬られそうになったが、藤吉郎が懐で温めていたのを知ると――何と相手は身を屈め、藤吉郎を真っ直に見つめてきたのだ。
「気が利くな、気に入ったぞ」
結った黒髪に縁取られた、端正な輪郭。
吸い込まれそうな黒い瞳が、笑みに細められる。
(こんな綺麗な方になど、会ったことがない)
思わず赤くなった藤吉郎に、主君である信長は。
「猿みたいだな、よし! お前は今日から猿と呼ぶぞ」
そう高らかに言ったのだった。
※
……農民達の中で一人、鮮やかな緋色の打掛を纏う乙女。
目尻を彩る紅。
肩までの黒髪をなびかせ、金色の扇を閃かせ。
桜色の唇で今様を紡ぎ、艶やかに舞う様は――現代風に言うと、アイドルのようなものだろうか?
「うぉーっ!」
「信長様ーっ」
「お館様、万歳ー!!」
そう、農作業に疲れた彼らを癒すその姿は、まさにアイドル。
農民達の歓声に包まれた主君を眺めながら、遠駆けについて来た前田利家は感心したようにため息をついた。
「素晴らしい……相変わらず、信長様の女装は民衆の士気を上げるな」
「……また、おぬしはぬけぬけと白々しいことを」
目を輝かせる利家にツッコミを入れたのは、その隣に腰掛けた木下藤吉郎である。
もっともその目は、同様に信長から離れない。
うっとりと主君を眺めた後、藤吉郎は至極残念そうに呟いた。
「そうなのだ。女子なのだよ、お館様は……どうせうつけものと呼ばれているのだからいっそ、いつもああして着飾れば良いものを」
「こら、猿。うかつなことを言うものではない。お館様に聞こえたら、首が飛ぶぞ?」
「猿と呼ぶな、犬!」
「貴様こそ、幼名で呼ぶな! この、猿猿猿!」
それこそ、犬猿のようにギャンギャンと言い合った二人だったが。
藤吉郎はすぐに俯き、膝についた手で頬杖をついた。
「まあ、結局は人のものなんだがな」
「……お館様は、皆のものだ。お前の主君でもあるんだぞ?」
ぽつりと落ちた呟きは、藤吉郎が自分に言い聞かせる為のものだ。
仮に、信長が斉藤道三の次男を伴侶としていなくても。
元百姓の藤吉郎が、主君である信長を娶ることなど出来ない。いくら功績を上げようと、だ。所詮は高嶺の花なのである。
けれど、恋はそんな理屈で押さえ込めるものではない。
切ないものよと思いつつ、利家が悪友の肩を叩いたその時である。
「猿、犬千代! 貴様らも早う来て、わしと踊らぬかっ」
鈴の音のような声で、信長が二人を呼び。
笑顔で、扇を持った手を彼らへとさしのべてくる。
……強制ではない、けれど、けして抗えない誘い。
利家と藤吉郎は顔を見合わせ、やれやれと言うように笑うと立ち上がり、主君・信長の元へと駆け出したのだった。
女城主は珍しくはあったが、全くいない訳ではなかった。だから長子である信長が、跡を継ぐこと自体に問題はない。
だが、生憎と世は乱世である。
それ故、侵略する口実を与えない為に信長は男名を名乗り、男として振舞っていた。
……結果、徳川幕府で後継は男子のみと定められたこともあり、信長=男説は定着したのである。




