第5話 もしその線を誤って踏み越えたとしても
例えそれが演技だとしても、エオンの他者を圧する空気は本物だ。
貧民街で孤児として生まれ育ち、腕っぷしと舌先で相手を叩きのめして丸め込む、そんな手段でのし上がった〈藩〉の〈副頭〉、その肩書は決して空疎なものではない。
「クスト。これをアルドに届けて来い」
机の上に広げていた書類をひとつ取り上げて、側役へ向かってそれを差し出せば、相手は露骨に顔を歪めた。
「……エオン、」
不本意さを隠そうともしない側役の態度に、エオンは無言のまま小さく首を傾ける。
――同時に浮かべていた表情が拭ったように消し去られ、両目が硝子玉のように温度を失くす。
それはエオン本人が自覚的にしたことではなかった、けれど。
「――ッ」
クストの顔色を一変させるには充分な変化だった。
エオンは普段から属する組織と肩書の割に『表』寄りな思考をしていて、世間一般から見てもごく常識的と言われる範囲内の言動を好んでする。
あからさまな暴言や暴力を振るうことなく、誰に対しても不条理な理不尽を強要するような真似はしない。
特にそれは自分の〈藩〉の構成員である、部下とか配下とか呼ばれる人間に対する態度へ顕著で、だからクストも安心して、主であるエオンに対していささか無礼とも言われかねない態度で反駁したり、露骨な不服従を気取ってみたりする。
対するエオンは、それらに腹を立てることもなく、目くじらを立てることもなく。
ただ、許容する――おおよそのところは。
これは〈藩〉の他の連中も同じことで、それゆえに皆がエオンを気安い存在だと認める理由でもある。〈頭〉を絶対的な頂点として傅く態度に較べれば、違いは一目瞭然だ。
無論、時と場所は考慮するし、それぞれが分を弁えて自分の中で越えてはならない一線、というものを設定し、意識してはいるだろう。
けれど、もしその線を誤って踏み越えたとしても、エオンが本気で怒ることはないだろう、とクストは知っている。
なぜなら、それらはすべてあくまで〈藩〉の、延いてはエオンの支配を受け入れた上での、という前提がつくからだ。
エオンが定めた範囲内において、クストたちはエオンに対し、気安く接することを許されている。
もしもエオンが気まぐれに態度を変えて、直前まで「白」だったものが突然「黒」になったとしても、その究極に不条理な理不尽に服従できるなら――普段は鷹揚で気安い〈副頭〉でいてやっても構わない。
それが、エオンの示す許容だ。
けれど、このあまりに簡単で単純な真実は、それゆえに忘れられたり見失ったり、最初から気づかれもしないことさえ、ままあったりする。
もしかしたら。
エオンは意図的にそれらを意識させないようにしているのかもしれない――時折、クストが考えずにはいられない“もしかしたら”の話。
もしかしたら、エオンはそうして愚かにも思い上がった相手を躍らせて、釣り上げているのかもしれない。
エオンを「甘い」とか「緩い」とか評して――エオンの思考や言動に干渉しようとする、エオンの〈藩〉には不要な人間を。
そんなことを許すほど、エオンは甘くも緩くもない。
分かっているのに、知っているのに。
安閑とした日々に埋もれかけていた現実を強制的に目の前に引きずり出されて、クストの喉が引き攣り、出そうとした声が喉奥で死に絶える。
分かっている――知っている。
自分はあくまでエオンが垂れてくれるであろう慈悲を請い、彼に許される範囲でしか存在することが出来ない立場なのだということを。
もしも許されなかったら? ――その時は命の覚悟をするしかない、そのことを嫌というほど理解しているつもりだったのに。
無言であっても、むしろ無言だからこその圧力が不必要なほどに上乗せされた視線を向けられて、いっそ笑いたくなるほど明瞭に血の気が引く。
そんな側役の表情を見たエオンが僅かに片目を細め、無言のまま促すように書類を持った手を軽く上下に動かした。
それを目にしたら、どんなに不承不承であろうが折れざるを得ず、――クストは唇を引き結んで主の指が挟み持っている白い紙を引き抜いた。
側役が確かに書類を受け取ったことを見届けて、エオンは空になった手でそのままもう一方を指差し、「で、」と言葉を繋ぐ。
「お前は残れ、ウーシア」
「――エオン、」
それは、と言い淀む声に含まれた非難の色は最前までに較べれば随分大人しくも控えめで、そのことに気づいたエオンは相手に悟られないよう、そっと口許を緩めた。
そこに形作られたのが歪で醜悪な笑みだと、鏡を見るまでもなく自覚している。
クストがしつこく難色を示すのも側役という立場であれば仕方のないことだし、そもそもは彼の純粋な気遣いから来ているのだろうことも察してはいる。
エオンと〈掃除屋〉を二人きりで残して、万にひとつのことがあったとしたら、側役の怠慢で失態だ。
何しろ今のエオンは〈頭〉の片腕、〈双頭の翼蛇〉の右頭、唯一無二の〈副頭〉。その価値は当然、ただの側役とは較べるべくもない。
けれどもし、本当にエオンの身に何かあったとしたら、――クストなら喜んで自発的に責任を取りに行くかもしれない。
この男は、なぜかエオンを――〈藩〉も含めて、酷く気に入っているようだから。
とは言え、それを確かめるために自ら危地に飛び込む真似をする気などさらさらなく、エオンは馬鹿げた妄想を頭の中から追いやると、顎をしゃくって部屋の外を示した。
「行け」
ぞんざいに命じられた側役は何かを堪えるように、ぐ、と眉間に力を込めて床を睨みつけたが、一息おいて気持ちを切り替えたのか、僅かな沈黙の後に「分かりました」と答えた。
「――すぐ、戻ります」
その割には、エオンを見返す目線に力がこもり過ぎているようにも思えたけれど。
そうして動き出してしまえば行動は早く、直前までの愚図ついた態度を思わせないキビキビとした動作で部屋を辞した側役が扉を閉めるかすかな音に、エオンはやれやれと細く息を吐いた。
あれは真面目過ぎで真っ直ぐ過ぎるのが長所で短所だな、と益体もないことを考える。
その視界の中には、〈掃除屋〉の女が扉に向かって「べぇっ」と舌を突き出している姿があって、エオンは堪える間もなく深々と溜息を吐いた。
「……ウーシア」
「はぁい」
隠す気も失せた疲労感と諦念がくっきりと滲む声は、しかし、この女にはまるで通じていなかった。
やめろ、という意図は通じている、けれど、応える声にも態度にも、如何にも不服だという感情が明け透けで、それを改める気配は欠片もない。
「ったく、――……」
この〈掃除屋〉が来てからとみに増えたエオンの溜息は、側役が〈掃除屋〉を目の敵にする一因にもなっている、と言われるほどに頻繁で重々しくて、有体に言って、――疲労が色濃い。
エオン自身も自覚しているし、気をつけてもいる、だがそれでも、やはり溜息を吐かずにはいられない、それがここひと月ほどの、エオンの日常だった。
そのことを思うだけでまたぞろ溜息が込み上げて、今度はわざと聞かせるために、再び、はぁ、とこれ見よがしの息を吐けば、女が「だって!」と語気を荒げた。
「向こうが突っかかって来るんだもん! 仕方ないでしょ!」
一体何が仕方ないと言うのか、エオンが胡乱な視線を向けても女はものともせず、大真面目に自らの主張するところを繰り返した。
「あたしは悪くないよ!」
――ちり、と頭の裏側を引っ掻くような、かすかな、けれど確かな苛立ち。
他人の思考感情に鈍い訳ではない、愚昧な訳でもない、なのに理解しようとしない。
どうせ一時的な契約ですぐにいなくなる相手だ、〈藩〉の人間でもない余所者だからと、その言動に大した注文を付けず放置した結果が、このザマだ。
けれど、自分たちが招いたのは〈暗殺教団〉の〈掃除屋〉であり、決して躾のなっていない幼児などではない。
確かに〈掃除屋〉としての腕は立つ、それは認める。
だが、この現状は予想外だったし、甘んじて受け入れるには抵抗があり過ぎる。
一度意識してしまうと、真っ赤に焼けた火箸を眼前に突きつけられているような、不愉快極まりない苛立たしさばかりが募ってゆく。
力任せに払いのけるには少しばかり危険が大きい、だが退かさなければこれまで以上に危なっかしい。
これを無視することは難しい、――というより不可能だ。
「…お前はいちいち言い返すな」
自分が感じている不快さを面に出さないように、殊更表情を取り繕った上で、何の足しにもならないだろうほどに温い注意喚起を促してみれば。
「何で!」
打てば響くような反論が返された――こんなものは望んでいない。
あぁ、面倒だ、色々なことが、ことごく。
とてつもなく、果てしなく。




