第4話 ただ少し、何かが壊れて
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「エオン?」
扉の外から声が聞こえたのと、軽い音とともに戸が引き開けられたのはほぼ同時。
直前まで何の気配もなく、誰かが近付く足音もしなかった場所からの声。
本来であれば警戒し、身構えてしかるべきところ――であるにもかかわらず、このひと月で、それは既に“いつものこと”になっていた。
何度言っても直る気配のない挙措に、書類に向かっていたエオンが半眼になり、その傍らに控えるクストのこめかみが引き攣る。
「入るよ?」
言いながらも入室許可が出るより先にするりと部屋に入り込んだ相手は、しかし、特段悪びれたふうもなく、僅かに首を傾けた。
「呼んだよね?」
見た目だけならどこにでもいる女だ。
中肉中背、さして美人でもなく胸が大きいわけでもない。世の中に掃いて捨てるほどいる、凡庸でありふれた容姿の女。
特徴らしい特徴もない――強いて言うならこの国の女が大半は長く伸ばしている髪を男のように、肩にもかからないほど短くしていることが物珍しく、目を惹く、かもしれない。
かと言って、それが少年のように見える、ということでもない。
動きやすさを重視した結果なのか、女が好んで身に纏う服は、どれもぴったりと体に沿う形で、体の線がこれでもかと言うほどはっきり出る。
己の体型に自信が持てず、人目を気にするような人種には、まず忌避されるであろう形の服だ。
けれど、荒事を生業にしている女は平凡なりに見られる体をしていて、女である以上、それは男よりも甘やかな曲線で出来ている。
容姿を愛でるわけでもなく、欲を感じるわけでもない。
けれど、その女のことを考えるたび、エオンの感情の何かが――蠢く。
ひと月ほど前に客分として迎えた〈ウェラル・ゼキト〉――暗殺に特化した、〈暗殺教団〉の異名を持つ宗教団体――の〈掃除屋〉。
〈ケツァーハ〉の地位を確固たるものにするために外から招聘した協力者。
腕が立つのは、間違いない。
このひと月、確かめる機会は幾度かあり、そう判断するに足る結果は充分に示された。
ただ少し、何かが壊れているように感じる――それがエオンの、その女に対する印象だった。
具体的にどことは言えない、動いても喋っても全く普通――に、見える。
が。
唯一絶対だと信じていた現実が、ほんの僅か、ずれて歪んで罅が入ったような。
堅牢盤石だと信じていた地面が、ある時突然、柔く粘つく不安定なものに変容したかの、ような。
そんなちぐはぐな、何とも言えない――言い知れぬ不気味さも、あった。
まるで得体の知れない生き物を相手にしているような、そんな印象。
気のせいだろう、恐らくは。
あれを見てしまったから、そう思い込んでいるだけ、なのかもしれない。
それを疑うくらいには、印象深い出来事だった――その女が仕事の最中だけ、纏う空気をガラリと変える、という一件は。
普段はまるで手のかかる大きな子供そのものである女が、人の命を奪う時だけは年相応に、女の顔をして見えた。
むしろ、それ以上に婀娜めいて、視線さえも艶めかしさを纏っていたように、感じた。
その変貌はきっと、優秀な〈掃除屋〉だということの証左なのだろう――だが。
「…ウーシア」
今、その名前を口にするエオンの顔は本人が自覚する以上に呆れが強く滲んでいて、呼ばう声は露骨に溜息が混じる。
どんなに腕のいい〈掃除屋〉だろうが、振るいつきたくなる佳い女――但し、仕事中限定――なのだろうが。
ここにはここの規律があって、それに則してもらわねば優秀とは言い難い。
「入る前に声かけろつってんだろ」
チッ、と舌打ちしたクストが苛立たしげに言い放つ言葉は、おおよそエオンが言いたい事でもある。
「しかもこっちが開ける前に入って来るんじゃねぇよ」
これもまた、同様。
些細に見えるそれらのことを、彼らとて理由もなく気にしているわけではない――何しろエオンは『裏』でも名の知れた〈藩〉の〈副頭〉なのだ。
エオン自身が煩わしいことを疎んじたとしても、立場上しち面倒臭い手順を踏まねばならない場合も多い。
入室の手順、なんて、その最たるものだ。
もっとも、浮世離れした〈暗殺教団〉の女にはそれも通じないようだったが。
「呼びつけたのはそっちでしょ!」
言われたから言い返す、まるで子供の口喧嘩と変わりない調子で繰り出される他愛のない文句。
しかし、それも累積されればいつかは上限に達する。
このひと月、我慢に我慢を重ねた側役の限界はそろそろだったし、女も売られた喧嘩は高値で買う。
今にも実力行使を始めそうなほどにねめつけ合っている自分の側役と女を、頬杖を突いた姿勢で一瞥したエオンは、ふ、と鼻で息を吐き、億劫さを隠しもせずに口を開いた。
「うるさい」
ここは託児所か。
「エオン、」
「お前もだ」
我が意を得たりとばかりに喜色を滲ませた側役を、エオンは一言で黙らせる。
どれほど理不尽だろうと上の命令は絶対だ。
ぐ、と声を詰まらせたクストを見た女は、ニヤリといやらしい笑みを浮かべると、声を出さずにパクパクと口を動かした。
ざまあみろ。
読唇など習わずとも、その表情だけで言いたいことは嫌と言うほど相手に伝わるに違いない。
実際、それでクストの額には見て分かるほどにくっきりと青筋が浮かんだが、女は怯えることなく、むしろ、腹の立つほど小憎らしく相手を見下す視線を投げて、ふふん、と鼻で笑って見せた。
「…ッ」
側役が忍耐力の限界に挑んでいる姿を呆れた目で見やりながら、エオンは再び、今度は多少強めにその名を呼んだ。
「ウーシア」
きょとり、とこちらを向いた瞳は自分が咎められるようなことをしたという意識などないことを雄弁に物語っている。
だが、それぞれがそれなりに腕に覚えのある二人だ、万一にでも狭い室内で立ち回りを演じるようなことにでもなれば面倒極まりない。
「仲が良いのは結構。けどな、じゃれあうなら場所を考えろ」
わざわざ俺を巻き込むな、ついでのように一番重要な事項をさらりと加えて、エオンはこの話が終わったことを示すために軽く手を振った。
が。
「バッ…、カなこと言わないで下さい、エオン! 気色悪い!!」
側役の、悲鳴のような大声と。
「エオン、大丈夫? その、アタマ、とか?」
〈掃除屋〉の女の、憐れむような視線を受け止める破目になり。
「――――……」
深い深い溜息を吐くことになった。
まさかこの、螺子が一本足りていないような女に頭の具合を心配されるとは、と若干遠くを眺める目線になっていると、女の発言をエオンへの侮辱ととったのだろう側役が射殺しそうな視線で相手をギロリと睨みつけた。
「ハッ、よくもその頭で人の心配なんぞ出来るもんだな? お前のほうが余程医者が要りようだろうが」
エオンも似たようなことを考えたとはいえクストの物言いは大概直截で、そろそろこいつにも腹芸ってものを教えるべき頃合いか、と至極場違いなことを考える。
だが、女――ウーシアは不意に嫣然と微笑み、秘密を囁くような無邪気な声音でそれに応えた。
「そう? 医者なんて必要?」
――どうせ皆死んでしまうのに?
そんな言葉が透けて見えるような、人の死に慣れ切った口振り。
人の死に慣れている――だけではない、もっと何か、根本的な部分が違っている、ような。
その印象を確かなものとするならば。
それはエオンにひとつの確信をもたらすものだった――それが無作為なのか、誰かの意図したものの結果なのかは分からないにしろ、やはり、この女は壊れている、と。
時折感じる底知れなさは、自分とは全く違う思考で動く生き物を目にした時の不安感だと、ようやく察することが出来た。
同じヒトの姿をしているのに、自分には理解出来ない論理で動く、だから余計、得体が知れない、――恐ろしい。
ましてや相手は人を殺すことに長けた〈掃除屋〉で、本気でぶつかって来られたら体格で勝る男とはいえ、エオンにも勝てるかどうかは分からない。
――裏切られたくないもんだ。
そんな感情が、凪いだ湖面にひとつだけ浮かび上がった泡のように、胸の内でポツンと弾ける。
情や好意からではなく、寝首を掻かれるような真似をされると、厄介で面倒な相手だからこそ、強く思う――こいつに裏切られるのはごめんだ。
「…この、殺人教め」
クストの吐き捨てるような言葉に、エオンは内心でひっそりと苦笑する。
無数の神々を雑多に信仰対象とするこの国でも“死と裁定を司る神”を崇め奉る、なんて異端に近い。
ただ、どんなものにも神は宿るという考え方が根底にあるから頭ごなしに否定されないだけだ。
あの神の名前は何だったか――確か、長い白髪の男神だった――けれど今、気にかけるべきはそこじゃない。
エオンはわざとらしい渋面を作り、指先でコツコツと机の表面を叩いた。
「いい加減にしろ、お前ら」




