第3話 こんな生温い日常なんて、
坪庭を回り込むような廊下を抜けて、東翼に入った途端、派手な音が聞こえた。
何か重い家具が揺れる音、戸が倒れる音、硝子が割れる音。加えて、殺気立った男たちの怒声。
慣れない者が聞いたら身の竦む音かもしれないが、生憎この屋敷に詰める者にとっては割に耳慣れた日常的生活音に近しい。おかげで誰かが様子を窺いに来ることもない。
「何やってんだ」
呆れ声でエオンが評せば、クストも首を傾げる。
「若いのが何かしたんでしょうか」
自分だってまだ充分「若いの」の括りに入るくせ、どこか枯れた口調でクストがそんなことを言う。
それを軽く鼻で笑うエオン自身も、年齢だけを取り沙汰するならそう変わりない。
アルドに乞われてエオンが〈双頭の翼蛇〉――〈ケツァーハ〉と名付けた〈藩〉は、押しなべて構成員の年齢が低い。それは、〈藩〉自体が若いことにも因っている。
アルドとエオンが生まれ育った貧民街の片隅で二人きりのチーム、後に〈藩〉の母体となるそれを旗揚げしたのは、二人が十を幾つか過ぎたばかりの頃だった。
それから今まで、ほんの十余年。
その事実を返して言えば。
彼らはその若さから始まるたったの十余年で『裏』の社会序列を駆け上った、ということでもある。
それは、既成の秩序の中にはっきりとした歪みを生んだ。
歪み、もしくは自浄作用が効かないほどの澱み、と言うべきか。
無味無臭で無形、けれど、違えようもなくそこに在るモノ。
嫉妬、憎悪、侮蔑。鬱屈した悪感情の凝り。
『裏』では殊更珍しくもないはずのソレは、だが、エオンたちが関わることによって露骨な緊張感を孕むものへと姿を変えた。
それはある意味当然の成り行き。
ぽっと出の、若造とすら呼べない年端のいかない“餓鬼ども”が、暗黙のうちに守られていたルールを足蹴にして、打ち壊した。
傲慢を気取って勝手気侭に振る舞って、挙句、自分たちの頭を飛び越えて美味いものにありつこうとしている。
それを、「下」に落とされた連中が大人しく指を咥えて見ている、なんてことがあるはずもない。
今のこの国の裏社会の状況は、例えて言うなら、『藁がぎっしり詰まった小さな部屋に、爆薬と大量の火種を同時に突っ込んだ』ようなもの。
いつ何が起こるか分からない日常は、けれど、見せかけだけは平穏に過ぎて行く。
多少の波乱はあった、それなりの痛手も負った、それでもエオンは知っている。
――こんなものじゃない、と。
物心ついた時から変わらない自分の常識――こんな生温い日常なんて、あり得ない。
いつだって何か起こることが大前提。
“何か”は起こる。起こる起こらない、ではなく、早いか遅いか、の違い。
ただ、それだけの話。
「――エオン。そう言えば、客はどの部屋に?」
音のした方向へ目を向けていたクストがややあって目を眇め、耳を澄ませるように顔の向きを変えながら問いかけた内容に対し、エオンは間延びした口調で答えて薄く笑った。
「控えの二つ目ー」
それはまさしく音の発生源と思しき部屋の位置。
「見てきます」
苦いものを無理矢理飲み下したような、酷い顰め面になったクストを軽く嘲笑って、エオンはごく短く言い切る。
「いい」
騒音の発生源に近づくにしろ、客分を迎えに行くにしろ、どちらも同じ道を通るのは変わらない。
見て戻って、また行くのは二度手間だ。
「行く」
短く告げれば、「エオン!」と抗議を含んだ声が上がった。
それを無視して、丈の長い上衣の裾を捌いてさっさと歩みを進めれば、背後でこれ見よがしな溜息をつかれた。
「諦め悪いなお前」
意地の悪い笑みを浮かべて肩越しに振り返ると、クストがつかず離れずの数歩後ろで不機嫌さを隠しもしない表情を浮かべていた。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
客分が通されているはずの部屋の前に立ってみれば、扉の中は何事もなかったかのようにしん、としていた。
それはむしろ、不自然なほどの静寂。
その場で数秒足を止めたエオンはほんの僅か眉根を寄せて息を吐くと、おもむろに扉へと手を伸ばした。
「ちょ、」
躊躇いも遠慮もない、自室の扉を開けるが如くの動作にクストが目を剥き、困惑と焦燥、動揺の滲んだ声を上げる。
その指先が触れるか否か。
瞬きよりも短い刹那の差、そんな絶妙なタイミングで、エオンが開こうとしていた扉は、内側から勢いよく開け放たれた。
横へスライドさせる形式の引き戸が、奥へ突き当たった衝撃で桟から外れてぐらりと傾く。
だが、エオンの目はその光景を映してはいなかった。
扉が開かれると同時に部屋の中から獣のように飛び出したもの。
戸を開けるために気持ち前へ屈む格好になっていたエオンの懐へ、狙い澄ましたように潜り込んで来た黒い影。
『裏』で幅を利かせる〈藩〉、その〈副頭〉としてそれなりの場数を踏んで来たエオンの目にさえ捉えきれない速さの動き。
懐の内と言っても過言ではない眼下まで肉薄した相手が、伸び上がる勢いに乗せるように、右腕を下方から斜め上に向けて振り上げる。
その手には逆手に握られた短刀の刃が光を弾いて――
「エオン!!」
悲鳴のように響いたクストの大声と、倒れた戸に嵌まっていた硝子が割れて砕ける音。
瞬間の、耳をつんざく派手な騒音。
状況としては至極当然の反応であり、結果。
だが、呼ばれた当人は。
「――喧しい」
無遠慮なまでに顔を顰め、言外ですら鬱陶しいと言わんばかりの態度を隠しもせずに側役を振り返り、ツケツケと苦言を呈した。
「死にそうな声出してんじゃねぇよ、みっともねぇ」
まるで何事もなかったような言動だが、その手には見間違いようもなく、抜き身の短刀を握った第三者の腕が囚われている。
「ッ、テメェ!」
エオンが捕えている「第三者」の存在を認識した途端、クストが眦を吊り上げ、牙を剥いて吠え猛るような怒声を発した。
「うちの〈副頭〉に何しやがる、このクソ女ァ!!」
主と定めた相手の前では取り繕った態度を崩さない側役が素を露わにして激高している姿は珍しい、けれどその事実がエオンの琴線に触れることはなく、冷ややかな一瞥だけが投げられる。
「クスト」
側役の名を呼ぶその声に感情はない。
傍らで大声を出されたことに対する怒りも苛立ちも、諫める響きも苦笑する気配も、どんな感情の一片も。
ただ一言、名前を呼んだだけ。
だが、それが酷く恐ろしいことのようにクストは体を強張らせる。
「…ですが、!」
それでも食い下がろうとした相手を一瞥で沈黙させて、エオンは改めてしげしげと自分が捕獲した相手を見下ろした。
実際のところ――確かに、多少意表を突かれた、のかもしれない。
〈ケツァーハ〉が雇った〈教団〉の客分は、年若い女の姿をしていた。
少女と言うほど若くはない、だが、妙齢の女と言うにはあどけない。
恐らくは二十かそこら。
しかし、〈教団〉から派遣される実働兵としての年数は少なくとも古参の部類。
それはエオンに迫った体の動きと寸分の躊躇もなく繰り出された剣の速さからも窺い知れる。
エオンが彼女の攻撃を受け止め切れたのは、場数と慣れの賜物だったが、何よりも大きな要因は相手の殺意のなさゆえ、だった。
受け止め損ねたところで、この相手は間違いなく寸止めにする。
その技量もあるし、何よりもいっそ感嘆に値するほど冷静だ――そのことが、刃を向けられたエオンには分かっていた。




